「黒田清の反戦平和論の陥穽」

                             2003年3月1日掲載


      「黒田清の反戦平和論の陥穽」
「新・晩鐘抄録」2002年12月31日掲載

 読売新聞社をあのナベツネと喧嘩して退社し、「窓友会」という団体を組織し、「窓友新聞」というミニコミ誌を発行した故・黒田清氏。壮絶なガンとの闘いに倒れたが、今も尚、氏を慕うジャーナリストや市民は少なくない。その暖かい人柄と頼りになる親分肌と強い正義感と一貫した反権力の闘争心――。そのどれをとっても、氏が現代日本を代表するジャーナリストであった事実は疑いようのないところだろう。
 その氏のライフテーマとも言えるのが、弱者救済とともに、「反戦平和」だった。戦後理念を深く理解し、「絶対平和主義」「護憲平和主義」の立場から、反戦平和を訴えてこられた。毎年、大阪で開催される「平和展」は氏の業績として大いに評価されるべきだろう。私は、氏のそうした平和への願いが正真正銘のものであると確信しており、同じ「反戦平和」の志を抱く者として、深く敬意を表したい。

 だが、氏への評価と敬意の念を明らかにした上で、「反戦平和」の側が質量共に衰退しつつある現状をみるとき、尊敬する身としては甚だ言い難い事なのだが、やはり氏の「反戦平和」の闘い方に於ける認識に対して、一つ問題点を指摘せざるを得ない。
 氏は、生前、「反戦平和」の問題について、常々、「思想や言葉に頼るのではなく、心に訴えかける」ことの必要性と重要性を語られていたそうだ。
 実を言えば、ここに、氏の「反戦平和論」の限界があると、私は考えている。

 尤も、戦争世代の故・黒田清氏が、思想とか言葉に対して大きな不信感を抱くことは、十分理解できる。氏に限らず、その世代の多くの知識人やインテリにそれは或る程度共通した心境であるようだ。つい昨日まで「鬼畜米英」を叫び、「大東亜共栄圏」とか、「八紘一宇」とか、「近代の超克」とか、さらにいわゆる「国体」といった様々な思想と言葉が声高に唱えられ叫ばれていた。天皇制大日本帝国主義国家として、いわゆる「聖戦」を戦ってきたわけだが、1945年8月15日、その敗戦の日を境にして、価値原理が180度転換してしまったのだ。新たに唱えられた「絶対平和主義」に基づく「平和憲法」の思想原理、自由と民主主義の思想は、恐らく氏にとっては受け入れてみればすぐに馴染めたものであったろうが、それにしても、思想や言葉のなんと軽薄で脆弱なものかとの思いは胸中深く生じたかもしれない。
 時をさらに数年さかのぼれば、逆な立場からの思想と言葉の陥穽を実感させられる事態があった。たとえば、その理想主義で一世を風靡した白樺派の武者小路実篤や高村光太郎の開戦の際の、豹変ぶりである。人類の愛と理想を謳っていた彼らが一夜にして、天皇崇拝者となり戦争肯定論者に立場を転換してしまったのだ。
 この戦争前夜から敗戦の時代に生きた知識人やインテリにとって、思想や言葉への不信感が生まれたとして何の不思議があるだろうか。

 以来、戦後の反戦平和運動に於いても、様々な立場から思想やイデオロギーや言葉がそれこそ数多語られた。或る思想に国民全てが団結すれば戦争はなくなるとか、或るイデオロギーが世界平和を実現するとか……、恐らく氏に限らず、彼らの世代の中には、こうした傾向に心がついて行かない人も少なくなかったのではいか。他の問題でならともかく、事、戦争反対に関しては、思想や言葉に依存することの限界と危険を、氏たちは深く承知していたことだろう。
 その事から、「戦争反対は、心に働きかけるものでなければならない、心の底に、<戦争は絶対に嫌だ>という魂の叫びが育まれなければダメだ」――こうした思いが氏の心と脳裏には存してあったのではないか。
 私は、これらの歴史的な事実経緯と精神の流れを思えば、氏の<戦争反対の魂の叫び>の必要性と重要性を訴える反戦平和の闘いに全面的に同意する。

 しかし、他方、その「思想と言葉」に対する不信感が、別な「陥穽」にはまってしまったと私は考える。
 問題は二つ存する。一つは、氏がそこに真実をみようとする<魂の叫び>もまた、決して絶対的なものではないということだ。それは、敗戦直後に「もう二度と戦争はご免だ。絶対に戦争をしてはいけない」と心からそう願い誓った人々の多くが、今、国際貢献の名のもとに、アメリカとの友好関係維持の名目のもとに、そしてテロ撲滅の大義名分のもとに、「戦争容認」に、まさに心情が傾いている事実によって証明される。心は、時間の経過と共に当初のリアリティを失い、また新たな状況下で、それまでの心情を否定する観念が生まれることによって力を失っていく。
 事を、「思想・言葉」の位相からみると、もちろんその限界は具現するが、逆に「心・魂」の位相からみても、やはりその限界は存してあると私は考えざるを得ない。

 もう一つの問題は、「思想と言葉」への不信感のあまり、こんにちの状況に於いて、戦争容認の立場に傾く人たちとの論争・対話が決定的に欠如してしまったということだ。
 これは、たとえばインターネットをみればすぐ判明することだが、戦争容認の立場に身を置く人たちの中にはいわゆる「確信犯」的な「主義者」の存在も少なからずあるが、その多くは、彼らなりに、正義感や義務・責任感や人情といった「徳」をもって、己の立場を選択しているのである。彼らから見れば、理不尽なテロによってあの悲惨な被害を受けたアメリカの報復攻撃を批判することこそ、偽善的で無責任で利己的な「一国平和主義」ということになる。彼らは、そう感じ考えているのである。彼らが彼ら自身の心情と観念をもって、「平和」を、「秩序」を求めていることは、認めるべき事実だと私は思っている。
 実態がそうだとすれば、彼らに、戦争の悲惨さを心に訴えかけることで、戦争容認という彼らの立場を変えさせることは殆ど不可能と言っていいだろう。彼らをたとえば「平和展」に誘って参加させてみたとしても、彼らに言わせれば、「こういう悲惨な事を誰がはじめにやったか。こういう悲惨な戦争を仕掛けかねない国がある時どうすればいいのか。ただ戦争反対と叫ぶだけで事は解決するのか、平和と秩序は維持できるのか」――そう、たぶん彼らは考えるだろう。
 そういう彼らに、「反戦平和」の立場から如何に働きかけるべきか。またそもそも「平和展」に足を運ぶ人は既にたとえばこんにちの事態に対して批判的であり「戦争反対」の立場を取る人が大半だと思われるが、問題であり肝心なのは、そこに足を運ばない人たちだ。その人たちの多くは、今や、戦争容認に傾きつつあるのが実態だろう。そういう人々に、たとえば「有事立法」に反対の意志を抱かしめるにはどうすべきか?

 ――私は、やはり、彼らの意識や感情や観念との<対話>を試みるほかないと考える。彼らの論理と言語に真摯に耳を傾け、根底にある彼らの疑問や不安に真正面から答えていく以外にないと思う。つまり、ここでは、やはり「論理と言語」が必要なのだ。大袈裟な「主義」と呼ぶほどの「思想」ではなくとも、私たちの「反戦平和」に於ける思想原理を語ることが極めて必要とされていると、私は考える。

 恐らく故・黒田清氏もそうした対話――考えと言葉の交換――が必要ではないとは考えておられなかったであろう。氏の思想と言葉、平たくいえば主義や理屈への不信感は上記のごとくもっと大きな次元での話であったことだろう。
 だが、率直に言って、「反戦平和」の志を、とりわけ論理と言語に依拠して、異論反論の立場にある者の知性と理性に働きかけていく私の執筆言論活動に対して評価をして下さらなかったことを思えば、少なくとも、その重要性を氏が深く認識していたとは残念ながら考えられないのである。
 尤も、晩年、「窓友新聞」に於いて、戦争への動きに焦点を当てて、某女性記者に如何にも新聞記者らしい綿密な取材活動を展開して実態を明らかにする反戦平和の営みを行わせるに至ったが、「湾岸戦争への戦費拠出の是非」とか、「自衛隊のPKO派遣の是非」とか、「日米ガイドラインの是非」といった論点を取り上げ、反戦平和の立場から、異論反論に対して、的確なる論理と言語を繰り広げて、説得を試みるというが如き、論文やエッセイを掲載するということは皆無だったと記憶している。
 繰り返すが、こんにち戦争容認に傾いている多くの国民とて、心情的に決して戦争を好んでいるわけではなく、彼らにとっての「そうあるべき」という「考え」を抱いているのが実態である以上、戦争に邁進している現状に危機感を抱いて反戦平和を希求している者として、彼らの知性と理性に働きかけ、その「考え」の誤謬を指摘して説得を試み、彼ら自身に「なるほど、そういう事だとすれば現状を容認できない。現に進行しつつある政策には反対だ」と判断の変更を促すといった地道な<対話>こそ、緊急に求められていると、私は考える。
 ――その意味に於いて、故・黒田清氏が、思想や言葉に不信感を抱くあまり、かつ体験や心への働きかけを重視するあまり、現実容認派の国民との間にある<認識や思考>のギャップを軽視して、彼らとの溝を埋めるための<対話>を怠り、彼らを説得すべく、「思想原理」の展開、「論理と言語」の展開を行っている論文やエッセイの必要性と価値を軽視していた事実は、氏の「反戦平和」の闘いの<陥穽>と言わざるを得ないのではないかと、私は考えるのである。


「陽光氷解の綴り」へ戻る