『テロリズム批判』  2003年3月1日掲載


         「正当性の無いテロ」
新・「晩鐘抄録」2002年12月7日掲載

 テロに対するアメリカの報復攻撃に対して、「テロは良くない。だが、アラブ・イスラムの国々と人民をそこまで追いつめたアメリカにこそ責められるべき罪がある。テロは、アメリカの悪に虐げられてきた国や人民にとって、やむを得ない正当な行為だ」――とこうした主張を述べる人たちがいる。
 果たしてこの主張は妥当だろうか?
 
 たしかに、アメリカを中心として西側諸国によるアラブ・イスラム圏諸国に対する経済的「搾取」は行われてきただろうし、アラブ・イスラム圏自体の政情が不安定な時期には、大量の武器弾薬等を売って金儲けし、戦乱を招いていたという経済的および軍事的過ちも犯してきたという歴史的事実が存する。
 こんにちのアラブ・イスラム諸国および人民の不幸と悲劇の何割かは、西側、とりわけ彼らの憎悪と敵意の標的となっているアメリカによってもたらされたものかもしれない。
 その意味でアメリカは、世界を自分の思い通りにせんとする世界の覇権者としての自意識を捨てるべきだろう。

 だが、そういう事実を踏まえた上で考えてみても、私は、テロを些かでも容認する気持ちにはなれない。感情ばかりではなく、私の知性と理性もテロを容認することに異を唱えている。
 左翼には、元々「革命」の旗を掲げて行う「暴力」を正義とする「革命思想」があるため、、「ジハード(聖戦)」の旗を掲げた「テロ」を受け入れやすい心情と思考が働くのかもしれない。
 日本の「保守反動」による「戦争とファシズム」の危険性を憂えて、その点ではその事態に真っ向から抗する左翼を、その限りに於いて評価し、連帯の意志を抱いてきた私だが、彼らの「革命思想」には、最初から最後まで同意することはできなかった。

 その意味で、「テロ」に対しても、彼らとは全く異なる実感と認識を私はもつ。
 左翼および革新的立場の人たちが言うように、「アメリカ自身が彼らをテロに追いつめた」という歴史的経緯があったとしても、それでもなお、「テロ」を些かでも容認することはできない。
 私が不条理だと考える最大の理由は、テロの犠牲者が、殆どの場合、「第三者」だという点に存する。それが政治的にはアメリカを窮地に追い込むという目的をもつ、「対アメリカ」としての行為であったとしても、実際にテロの爆弾等で一瞬のうちに性別も判別できないほどの凄惨な死を余儀なくされる人々の殆どは、「第三者」たちだ。

 ここで一つ考えておかなければいけないのは、社会的現象には、「第三者」による「無作為」および「悪意なき行為」による「責任」が存する場合もあるという点だ。
 ベトナム戦争のとき、「ベ平連」を中心とした反戦平和運動の中でも、「被害者であると同時に加害者である」という表現で指摘されていたことだが、民衆による政治参加が認められており、一定の役割を担保されているような民主的社会にあっては、市民も、政府の行為にそれ相応の責任をもたらされているという事実がある。

 だが、一連のテロの場合――具体的に、例の2001年9月11日のニューヨークテロの場合――、その被害者たちは、どれほどアメリカ国家政府の罪を一市民として負わなければならないのだろう? あのような形で非業の死を受け入れなければならない責任が彼らにあったろうか。貿易センタービルの1階にあった幼稚園の園児たちに、アメリカ国家政府の罪を担わなければならないどんな責任があったろうか。彼ら彼女らの悲惨な死を思うとき、私は、心から憤りを感じざるを得ない。「人間の尊厳」に照らして、「個人の実存」に照らして、それは余りにも不条理ではないか。  
 イラクの少年少女たちに、イラク国家および独裁者フセインの政治的過誤の責任を負うべき些かの根拠も理由もないのと同様に、多くのテロによって犠牲者となる人々にも、アメリカ国家政府の犯した罪の責任を担わなければならない根拠と理由は、全く無いと、私は考える。

 このような善良な民衆を巻き添えにするどころか、標的にする「テロ」は、アメリカ国家政府云々ということで、些かも免罪するわけにはいかない。その不条理性と卑劣さに於いて、アメリカ国家政府の罪を持ち出しても、「テロ」は、僅少でも正当性を有することはできないだろう。





           「テロリストの詭弁」
「新・晩鐘抄録」2002年12月8日掲載

 「テロ実行犯たちを憎むのではなく、彼らをそこまで抑圧し追いつめたアメリカを恨め」――。
 この主張は妥当だろうか。もちろん、これは詭弁と言うべき論理だ。たとえアメリカによって追いつめられたと言うことがテロリストである彼らの主観に於いて事実だとしても、また客観的にもそうした事が言えるとしても、テロリストたちの犠牲になった被害者たちに、上記の言い訳は通用すまい。
 なぜなら、アメリカがそうさせたと主張するテロリストたちには、「誰に」「何を」という選択すべき問題が存するからだ。つまり、アメリカへの報復だとしても、アメリカの誰に対して、何を為すのか、という問題があり、そこで彼らは、アメリカ国家政府を代表する人物ではなく、一般人のアメリカ市民であり、またアメリカ市民でさえない第三者たちを選択し、そして報復行為は、あのように大勢の人々を殺傷する卑劣な「テロ」という最悪の手段を選択したのだ。
 テロの犠牲になった数多の人々は、アメリカ国家政府によって、テロによる殺傷を目的とされたのではなく、あくまで、アラブ・イスラム圏のテロリストたちによって、アメリカへの報復の対象として選択され、殺傷を目的とするテロ行為を選択されたのだ。
 テロリストたちは、自らの意志による選択と行動に、全面的に責任を負わなければならない。テロリストと犠牲者の間には、アメリカ国家・政府云々という問題は介在しない。純粋に、テロリストたちによる犠牲者への一方的な卑劣で残忍な犯罪行為が存するのみだ。「自分たちを憎むのではなく、アメリカを恨め」なぞと、今更正義を掲げる者として見苦しい言い訳などせず、己の胸三寸でその運命が決められてしまった人々、不条理な死を余儀なくされた人々とその家族たちの、深い怨念と激しい憤りを、真正面から受け止めるべきだ。






        「テロリストと犠牲者の関係」
「新・晩鐘抄録」2002年12月9日掲載
 テロリストが、犠牲者たちに罪を犯しているのは、単にその無差別殺人というその残忍な殺傷行為だけにあるのではない。
 テロリストたちは言う。「われわれのテロは、アメリカへの報復だ」と。
 それならば、なぜ、アメリカ国家政府を代表する人たち、ないしは政府の行為に一定の責任を担うべき成人したアメリカ市民に、的を絞らないのか。なぜ、明らかに、アメリカではない国々の人々を標的にしたテロを行うのか――。
 ここで問題にしたいのは、テロリストたちの政治的意図ではない。第三者を犠牲にすることによって、第三者の属する国々からの対アメリカ批判、アメリカの世界的立場を窮地に追い込むという政治的意図の話ではない。テロリストたちにとって、犠牲者はどんな存在であるのか、という問題だ。
 この事の意味を哲学的位相から考えると、重大な問題をはらんでいることに気づく。つまり、テロリストの標的にされた犠牲者たちは、アメリカへの報復行為によってアメリカに打撃を与えるという目的のために選択された「手段」として扱われたことになる。より端的に言えば、人間として扱われたのではなく、「道具」として扱われたも同然だろう。 
これは、人間の尊厳・個の尊厳という真理に対する全面否定であり、冒涜だと言わざるを得ない。革命だろうが、ジハード(聖戦)だろうが、人間を、何かの目的の道具として扱う思想は、それだけで、真理に悖る背徳の思想だということになるだろう。
 テロリストたちが言うアメリカの悪なるものが、ひとことで言えば、己の「エゴ」のために、人間を人間として見なしていない事にあるとすれば、テロリストたちが犠牲者に対して行っていることもまた、己の「主観的意識」から他者を人間として見なしていない点で、アメリカ同様の「罪」を犯していると、私は考える。
 たとえ、ジハード(聖戦)と自ら叫ぼうが、そうした傲慢で背徳の思想は、決して、ヒューマニズムを尊ぶ世界の良識ある数多の人々の理解と共感を得ることなどできないだろう。                                                                                     夜――。昨夜からの雪が結局15センチほどの積雪となった。もちろん今年の初雪だ。クリスマスの頃に初雪になる年が多いのだが、今年はそれより2週間も早い。数年前のように、屋根が損傷を受けるほどの大雪の降る冬にならなければよいが。
 ここ何日かにわたって書いてきた事を読み返し、そして雪の世界の限りない静寂を感じるなかで、久しぶりに、バッハの無伴奏チョロ組曲を、カザルスの演奏で聴いた。やはり人間の尊厳に価する壮絶な演奏だ!
 そして、夜になって、魂の奥深い領域であくまで透明に沈潜していく感覚を、これも久しぶりだがリヒテルの「平均律」第一巻で味わっている……。
 共に、「絶望」と「虚無」の崖っぷちに立たされながらの、「決意」と、そして「祈り」――。


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