『容認論との対話』     2003.01.23〜2.13執筆


「日本も国際貢献すべき」

 先日まで「杞憂論との対話」と題して、「戦争と戦時体制」の到来の危機を唱える私に対して、「○○だから、戦争にはならない。戦争はできない。あなたの心配は杞憂だ」という楽観論をいろいろ紹介して、それに対する私見を語ってきたが、今日から――と言っても、断続的になるかもしれないが――、湾岸戦争に於ける戦費拠出、PKOに於ける自衛隊の海外派遣、日米ガイドライン、アフガン報復攻撃に於ける後方支援、イージス艦派遣、日の丸・君が代義務法制化、盗聴法、メディア規制法、そして国民総動員態勢をも含む有事法等々、といった「戦争と戦時体制」の到来を構成し得る様々な現象をほとんど全て容認する「現状容認派」のその根拠となる意識や観念や論理と向き合ってみたい。

 その前年の8月に突然クウェートへ侵攻したフセイン・イラクに対して、アメリカを中心とにした多国籍軍が組織され、イラク本土攻撃が行われたのだが、その際、日本にも積極的な支援が求められた。が当時は日本政府与党と言えども直接軍事的な支援をすることには躊躇いがあったようで、130億ドルもの「資金援助」を行った。名目は、兵士の休養の際の輸送費やウオークマンなど諸雑費にあてがわれ、武器弾薬等の軍事利用ではないとの弁明が盛んに行われたのだったが、しかし、日本の130億ドルの資金援助がなければ当然それはアメリカ自身が負担しなければならなかったわけで、日本の資金援助によりそれを免れ得たことによって、武器弾薬にその分を充当させることが可能となった――という意味合いから、軍事利用ではないという政府の弁明を100%信用するにしても、結果的には、やはり「戦費拠出」であったことは異論の余地がないだろう。

 だが、その際、国民の多くは「戦費拠出」という性格のものであることを本心では承知しつつ130億ドルもの大金を提供することに容認したのだったが、その根拠として頻りに言われたのが「国際貢献論」であった。殆ど無抵抗のクウェートへの侵攻という国際平和と国際秩序に悖る蛮行・不正義を許していいのか、イラクへの報復攻撃は侵略されたクウェートを救う正義の戦いであり、国際平和と国際秩序を回復する合理的な戦いであり、そこに多くの国が参加している時、日本だけ、自国の平和に安眠を貪っていていいのか、それは自国の利益だけを求めるエゴではないかと、「一国平和主義」との表現も用いられ、「国際貢献」が叫ばれたのだった。
 確かに、あの太平洋戦争の敗戦以降、日本は廃墟と化した祖国復興に全力を注くことに追われ、世界平和を「平和憲法」を口にするとき常にそれを意識し心からそう願っていたとは思うが、いざそのために、どのような具体的な役割を担ったか、義務と責任を果たしたかとなると、「平和憲法」を掲げていることが恥ずかしいほどの実態だったのではないか。
 そうした事を多くの国民も心に感じ、「一国平和主義」「国際貢献」の言葉に異を唱えることができなかったと思われる。

 しかし、私は、あの「戦費拠出」はその「国際貢献論」を以てしても、間違っていたと考えるものだ。
 その一つの理由は、「国際貢献」と言うが、結局それは、同盟国アメリカへの貢献に尽きるという点だ。たしかに、1990年11月29日 安保理決議678(武力行使容認)採択という事実があるが、今の国連は超大国アメリカに引きずられているところが大であり、当時も8日2日にイラクによるクウェート侵攻があってその6日後の8日にアメリカ「砂漠の盾」作戦(サウジへの軍隊派遣)開始という事態に始まる急速な一連の戦争準備政策に押し切られた感じのものであった。
 尤も、同盟国アメリカへの支援ではいけないのか、という観点からの問題提起もあるかとは思うが、ここでは、「国際貢献論」という大義名分についてその是非を問うことが課題であり、その観点から言えば、やはり、私はその資金提供が世界の要請だったとは認められないのである。事実、アメリカとの同盟関係の緊密化・一体化はその後年々深まるばかりである。

 もう一つの理由は、あの戦争が国際平和と国際秩序の回復を求めるものであり、侵略国から被害者のクウェートを救済する正義の戦いであったとしても、そして、国民の多くも内心、軍事費ではないとの政府説明を欺瞞と感じており「戦費拠出」だと分かっていても容認したという諸事情が存した事であっても、やはり、私は、「戦費拠出」という点に拘りを持たざるを得ない。
 それは、「平和憲法」の理念に抵触するというのも当然問題だ。日本は憲法に於いて、「国際紛争に於いては軍事的解決を求めず」と、きっぱり明言している以上――たとえ現「平和憲法」の<是非>が論じられる時代状況にあるとはいえ、法治国家である以上――、やはり憲法を遵守した行動を取るべきだと私は考える。
 また、戦争と平和の問題に於いて「平和憲法」の枠外で考察した場合でも、上記で述べた如く、「国際貢献」の中味は殆ど同盟国「アメリカ」支援であり、正真正銘の国際社会、世界への貢献とは言い難いという点も問題だ。
 いや、さらに私の考えを言えば、たとえそれが文字通り「国際社会」の要請であったとしても、日本は、「戦費拠出」は憲法上の理由からでなくても、固辞すべきだろう。それは、「平和憲法」を持ち出すまでもなく、過去の歴史の大きな過誤をもつ日本、そして、未だに大物政治家や有識者たちもが「南京大虐殺も、従軍慰安婦もでっちあげ」だと開き直るなど、戦後まだ本心からの過去の謝罪と償いを成就しているとは言い難い日本、さらに、歴史の大きな過誤を生んだ様々な原因や構造を完全に解消し、もう二度と日本が加害者となる戦争を起こし得ないという意味での過去の<超克>を成就しているとは到底言い難い――過去の歴史が日本社会と日本人の精神の心底で連綿と続いている実態が存する――状況に於いては、やはり、日本は、たとえ大義名分のある戦争であっても、<自衛隊の派遣>などは勿論、<戦費拠出>も行うべきではないだろう。

 では、「国際貢献」はどうなるか、「一国平和主義」の<エゴ>はどうなるかと言えば、それを<超克>する道は、戦争以外に幾らでもあると、私は考える。むしろ、「国際貢献論」の陥穽は、戦争に関わる形でのみそれを考えているところに存してあると言える。戦争以外のところで、或いは戦争終結後の時点で、日本の資金と知恵と人材を活用し得る局面はたくさんあるだろう。バブル崩壊後の長いトンネルに入ってしまった今、資金援助には大きな限界があるだろうが、世界にも誇れる日本人の優秀な頭脳や技術――その分野の指導層ばかりではない、末端の現場で働く人々の能力も含めて――は、世界の様々な問題に於いて、その力を発揮し得るであろうし、文字通り、「国際貢献」を具現化できると、私は考える。
 つまり、日本は、「金しか出さない、血を流さない」という一部の非難に対しては、日本の特殊事情――日本には歴史の大きな過誤があり、日本が再び加害者となるような戦争を絶対に引き起こさないために、被害者の国々・国民たちに万が一の将来への不安を抱かしめるが如き国際紛争への軍事的関与は一切致さない、「憲法」でもそう宣言している――を伝え、了解を求め得るような、あくまで平和的な分野で世界一と認知されるだけの「国際貢献」をすべきだと、私は考える。
 私の今最も好きなテレビ番組にNHKの「プロジェクトX」があるが、あれをみれば、日本人が如何に優れた――勤勉や団結といった面も含む――多面的な能力を有しているか明瞭であり、それを世界に貢献できたら、なんと素晴らしい事だろう。(2月2日・記)






「日米同盟論part1」

 現状容認派の人々が口にする言葉で、「国際貢献論」と共に多いのが、この「日米同盟論」ではないかと思われる。それも、主に次の4点に分類できるだろう。(勿論、ひとりが同時に複数の観念や感情をもっている場合もたくさんあるだろうが、論理として分析してみるとこうなるかと思う)。
1.アメリカが好きだから、アメリカの要請にはできるだけ応えてあげたい。
2.同じ自由主義国として、同じ利益を守るため、アメリカと一体化すべきだ。
3.日本は敗戦後の復興時に於ける恩義から言っても、アメリカの恩に報いるべきだ。
4.アメリカに協力しない場合、日米関係に摩擦が生じ、最悪の場合、敵国とみなされてしまう。

 1から3までは、文字通りアメリカに好意的でポジティブな姿勢だ。4は、基本的に好意をもつ一方で、アメリカの好戦的且つ覇権国家主義的実態を感じている人の認識だろう。 では、それぞれについて考察をしてみたい。

 まず1だが、この前半の部分は私も同感だ。日本では左翼をはじめ革新的な人たちには反米的な感情を抱いている人が少なくないようだが、私はアメリカという国が好きだし、政治的にも一定の評価をしていることを隠そうとは思わない。
 尤も、好きな理由を考えてみると、すぐに思い浮かぶのは、アメリカ映画や野球に代表されるような文化やスポーツ、それにアメリカ人の国民性であり、個々人のアメリカ人の人柄といったことだ。オリンピックなどでも、日本以外の国の応援として、よくアメリカ選手の応援をしている自分に気づくことがある。因みにアメリカ国歌も大好きだ。
 ただ、これが、政府とか、国家という意識の仕方をした場合には、単純に「好き」とばかり言い難いのも事実だ。評価という点でもネガティブな見方が強くなる。

 殊に、現ブッシュ政権になってからは、例の環境問題に於ける京都議定書の問題に象徴されるごとく、利己的で覇権主義丸出しの感が強い。
 何度も言っているが、私はイラク・フセイン政権には反対だし、イスラムの世界にもその宗教を含めて強い疑念を抱いており、世界平和と世界秩序の両面から言って核や生物兵器・化学兵器など大量殺戮兵器の開発等について徹底した査察を求める者だが、それにしても、ブッシュの好戦的で高圧的な姿勢には危惧を抱かざるを得ない。
 ニューヨークの9月11日の同時テロの直後、その政権自体がテロリストたちを養成し支援していると言われるアフガニスタンの元タリバン政府への報復攻撃――アメリカは最初ビンラディンらの身柄引渡を要請したが、タリバン政府は民衆に犠牲者が出ることを承知の上でそれを拒否したという経緯が存する――はやむを得ないと認めたとしても、国連の査察で明白な証拠が示されたわけではない現時点でのイラクに対する攻撃や、時の政権や国家としてテロリストを養成したり支援したりしているわけではなく、ただ最大のイスラム教徒がおり、一部にテロリストの温床となっている事実がある――そういう判断をするとなると、日本だって、イスラム・アラブ世界に好意的で国際テロ活動に参加した過激派集団がまだ存在する――というだけで、インドネシアまで攻撃の対象とするとなると、狂気の沙汰ではないかと、思えてくる。

 このように私の親米感情はそのような具体的な人物や物事には批判的になることがあるものの、ひとことでアメリカが好きか嫌いかと問われれば、躊躇なく「好きだ」と答える者だが、私と同様に親米感情を抱いている人も、「だから、アメリカの要請にはできるだけ応えてあげたい」と、感情に流されるのはどうだろう?
 たとえ大好きな国であり国民であっても、また元々の経緯を考えれば同情すべき点はあるとしても、最早その次元を越えた<戦争のための戦争>に突き進みつつある過誤をおかしそうな場合には、友人として――できるだけ要請に応じてやりたいという感情も分からなくもないが――、やはり、事の真実に照らして、率直に忠告することこそ、真の友情ではないだろうか。己の大好きなものを大切にする在り方ではないだろうか。(2月2日・記)





「日米同盟論part2」

 今日は<2.同じ自由主義国として、同じ利益を守るため、アメリカと一体化すべきだ。>を考えてみよう。
 まず、自由主義国としての同じ利益を守るというが、そもそも何から「自由主義」を守ろうと言うのかが疑問となる。かつてのソ連や中国などのように、<革命>を世界に広めるために各国の左翼勢力に資金を提供するなどして動乱を画策する危険があるのであれば、「自由主義」を守るというのは理解できるが、イラクや北朝鮮の場合、今のところ、自由主義諸国への侵略・動乱などの画策は私の知る限りでは認められない。
 尤も、あからさまな侵略行為ではなくても、世界各国を対象とした両国の国際<テロ>支援がはっきりすれば「自由主義」擁護の大義名分は成立するだろうが、テロリストたちの暗躍が認められ、やはり広い意味でなら<テロ支援国家>と呼び得るものの、未だ国家政策として具体的に――心情的なものでなく――資金援助やテロリスト養成や特定のテロ勃発への関与など国際テロ支援を行っているとの確たる証拠が明らかにされていない――その疑いは極めて濃厚だとしても――現時点では、「自由主義」擁護の旗を掲げるには些かムリがあるだろう。
 勿論、自国が「独裁国家」であるという問題だけでは内政干渉になってしまう。しかも、その「自由主義」を守るという具体的な守り方が、相手国への武力攻撃だとしたら、やはり、「自由と民主主義」への攻撃に対する<正当防衛>という合理性を失うであろう。

 ところで、この私の考察は、アメリカによるイラク攻撃、北朝鮮攻撃の是非を問うものではない。私の問題意識は、あくまで日本自身の戦争に対する姿勢に存する。
 その点で言えば、いまみてきたような事情が存する段階で、日本がアメリカに協力するとしても、自ずから、極めて限定的なものにならざるを得まい。日本自身が現時点で直接攻撃の対象――北朝鮮の場合は、今後のそれこそ日本の行動如何ではそうなる可能性も存すると思われるが――とされているわけでもないのに、アメリカなどの武力攻撃に軍事的に協力するというのは、やはり憲法上から言っても、実際の国益から言っても、また国家としての倫理から言っても、絶対に容認されるべきものではないと、私は考える。
 「日本はアメリカと一体化して、武力攻撃にもその役割の一端を担うべき」とする「自由主義」擁護論は、それとしての正当性を持ち得ないと、私は考えるのである。





「アメリカへの恩義」

 戦後生まれ、それも30代以下の人たちにはまずこうした考えはないと思われるが、団塊の世代から年長者たちの間では、あの太平洋戦争による敗戦後、事実上アメリカの統治下にあったことを、是とする人たちが少なくない。
 確かに、もし旧ソ連の統治下に置かれていたらどうだったろうと考えると、東欧諸国の例――ソ連の衛星国と呼ばれた――をみれば明らかなように、ブルジョワ階級の搾取から労働者階級と人民の解放という大義名分とは裏腹に、多くの不幸と悲劇が生じていたことだろう。政治、経済、軍事、教育、そのどれをみても日本国民はソ連の干渉を受けた左翼政権によって、幾多の艱難辛苦を味合わされたことだろう。とりわけ芸術や思想や学問の世界に於いて、創造の自由、表現の自由が奪われていたことは、その世界の末端に関与している私個人としても重大な問題だった。自由と民主主義という観点から言えば、誰彼なしに、国民全体にとってまことに恐ろしく窮屈な雰囲気の社会生活を余儀なくされていたに違いない。
 社会主義国家の近年明らかになった理想と現実の余りのギャップの大きな実態を知った私たち団塊の世代から年長者たちにとって、敗戦国日本がアメリカの事実上の統治下に置かれたことは幸運だったとの思いを抱く人は多いと思われる。
 勿論、本土の犠牲にされた沖縄の問題を考えると心は沈み複雑な思いに囚われるが、しかし、敗戦国日本全体が沖縄化されていても不思議はなかったとも言えるわけで、真珠湾攻撃を仕掛けた日本に対する報復としては――戦争勝利国の制裁行為としては――それでも寛大な措置だったのではないかとの思いもあり――沖縄が長期に亘って置かれた植民地支配同然の実態、返還後の今も様々な理不尽が横行している実態を<当然>として認めるわけでは決してないし、日本政府の沖縄切り捨て政策を容認するわけでも決してないが――、アメリカに対して、一般国民の過半は、好意を感じるだけでなく、恩義も感じていると言っても事実に反することにはならないだろう。
 
 そのような意識が、「アメリカの恩義に報いるためには、日本もそれ相応に協力すべきだ」との考えを生み出していると思われる。
 私にも、そうした日本人の心情そのものは容易に察することができる。だが、その協力の内容が、<戦争協力>という話になれば、絶対に同意するわけにはいかない。しかも、その<戦争協力>は、戦費拠出、自衛隊のPKO派遣、後方支援と徐々にエスカレートしてきており、対イラクや、対北朝鮮の戦争に於いては、さらに大きく踏み込んだ<戦争協力>になることが懸念される。
 この点については、最近の川口外相の二つの発言に注目しなければならない。過日「敵の基地への攻撃は憲法の自衛の範囲内だ」との発言に続き、実は昨日(2月5日)「多国籍軍への自衛隊参加を憲法が禁じているとは思わない」と発言している。
 この問題は日を改めて考察するが、とにかく、こうして恩義あるアメリカへの協力が、限りなく<全面戦争>勃発の危険を生じかねない<戦争協力>という形を取るのは、やはり現「平和憲法」上からだけではなく、現実の国益や、平和国家としての倫理という位相から言って、間違った選択だと私は考える。
 では恩義に報いるのは如何にとの問いには、私はこう答えたい。恩義に報いるのは何も軍事的な側面ばかりではないだろう。経済に始まって、文化やスポーツなどの交流を通じて行い得るし、現にやってきていると言えるだろう。が、それは国家間に於ける行為ではないではないかとの声には、たとえば日米安保によって、既に「思いやり予算」などでもかなり優遇した対応をしているし、問題となっているイラクや北朝鮮との戦争に於いても、戦争を遂行するための協力を考えるのではなく、戦争回避に向けた平和解決への斡旋や、それでも勃発してしまった場合には、和平に向けた調停などの側面で、同盟国の平和と秩序の維持や回復に惜しみない協力を果たすべきだと、私は考える。(2月6日・記)





「アメリカの報復攻撃を受けるのでは……」

 この懸念を抱く人は必ずしも反米的とは言えない。むしろ親米的な人がアメリカに敵対的な行動を取ることに不安を感じている場合が殆どだろう。
 この懸念は、ブッシュが「テロを支持容認する国と、テロに反対し戦う国」と二極化してアメリカへの支持を求めた発言を受けてのものだろう。ブッシュはテロを支持容認する国はアメリカの敵と見なすと脅してもいる。まあそれはいい。だが、アメリカと一緒にテロと戦わない国はテロを支持容認する国と判断し、アメリカの敵とみなすと言う発言は、些か常軌を逸していると言わねばならない。
 9.11の同時多発テロに対する衝撃と怒りがあっての発言だが、それにしても、なんと無茶な事を言う人物だろう。勿論テロを支持容認するなど論外だが、しかし、テロとの戦い方は様々な方法が考えられ、アメリカによる武力攻撃が唯一の戦い方ではないだろう。たとえ武力攻撃を容認するとしても、アメリカのやり方、ブッシュの好戦的で戦争を無制限に拡大しかねないやり方とは異なる戦い方もあろう。
 己の戦い方を絶対化して、それに協力しなければ、テロ支持容認国家だ、アメリカの敵だというのは、幾らなんでも独善的に過ぎる。

 そのように唯我独尊のブッシュ、傲慢とも言えるブッシュではあるが、しかし、日本が、アメリカの武力攻撃に対して慎重な対応を取った場合、実際に日本を敵とみなし、武力攻撃の対象とするかと言えば、その可能性は全くないと断言してもいいだろう。
 勿論、その非協力の形――反米的な拒否の姿勢を取るのか、同情しつつも武力攻撃をできるだけ回避する方策を取るよう進言するのか――によっては、アメリカの対応もまた異なったものになるだろうが、非協力即日本への武力攻撃という展開にはなるまい。
 アメリカにとって、日本はそれほど簡単に敵に回せる国ではないはずだ。日本と敵対することによるデメリットを考えられないほど、ブッシュも愚かではあるまい。当然、その際、ブッシュのブレーンの進言もあろうし、アメリカのジャーナリズムや世論の声もあろう。
 実際、テロには反対しつつも、その戦い方に於いては慎重で多様な形を志向する日本に武力攻撃を仕掛ける可能性は皆無と断言して過言ではないと、私は認識する。





「悪と戦わないのは卑怯だ」

 現状容認論としてもう一つ、有力な主張を取り上げなければならない。それは「悪と戦わないのは卑怯だ」という考え方というか、意識感情の問題だ。
 これはたとえば、湾岸戦争の際に、事実上ほとんど無抵抗のクウェートにイラクが侵略したこと、また9.11のニューヨーク同時多発テロの際に、アフガニスタン政府自体がテロリストたちを支援する姿勢を示したことなどに対して、多国籍軍が組織されて報復攻撃を行った事実を受けての反応だ。私の体験から言うと、こうした侵略やテロという不正義に対する反発は若い年代に於いて強くみられた現象である。
 私は、率直に言って、昨今の若者の多くがこのような反応を示すとは些か驚きだったが、それは或る意味では嬉しい事実ではあった。私自身もイラクの暴挙とタリバン政権の理不尽さには怒りを覚えていたので、その若者の「正義感」そのものは肯定的に受け止めたことである。
 だが、この「正義感」の発露の仕方には、やはり問題が存すると私は考えざるを得ない。いずれにも、実に簡単に<戦争>を肯定している点が気になるのだ。
 2度と再びこのような侵略やテロを起こさせないために、何をどうしたらよいのか――そういう慎重な問題意識と思考は殆ど皆無だった。ただ、悪を為したものたちへの<報復と制裁>のための<武力行使=戦争>を容認するというか、求めてさえいたと思う。

 ここで私自身確認しておきたいが、私は、再三言っているように、いわゆる「絶対平和主義者」ではないので、侵略とテロに対して、被害者や被害者に求められて支援するものたちが、<報復と制裁>を加える「権利」を有することは強く認めているし、場合によっては実際に<武力行使>を実行することも否定はしない。
 ただ、権利としてもつ<正義>によるこちらの<武力行使>によって、フセインやタリバンら侵略者やテロリストたちに被害が出る以上に、実際は、子供や女性や老人を含む一般民衆の多数に犠牲者を出してしまうという実態が存することにも目を向けないわけにはいかない。
 尤も、論理の上で言えば、イラクにせよ、アフガニスタンにせよ、その国の民衆に犠牲者が出るとしても、それはその民衆を束ねる国家・政府に責任が存することであるという見方もできよう。またイラクにせよ、アフガニスタンにせよ、民衆自身が、クウェート侵略やニューヨークテロの成功を、子供たちまで狂喜乱舞している映像を私自身何度も見ている。そのような国家・政府を民衆自身が支持している以上、相手国とその支援国から報復と制裁の武力行使を受けても致し方ないという見方もあるだろう。
 ただ、私は、イラクのフセイン政権とアフガニスタンのタリバン政権のいずれも、独裁政治体制を敷いており、情報コントロールも当然行っていたであろうし、洗脳教育なども行われていたという実態に思いを馳せると、やはり、一般民衆に、空爆の砲弾の嵐を浴びるほどの<罪>を認めるのは気の毒に思う。
 その意味で、できる限り、<戦争>を回避する方向で事態の解決に当たって欲しかったと考えるのである。
 その上で万策尽きて軍事行動に及ぶ際にも、米英を中心とする多国籍軍の<武力行使>については、特に対イラクの場合、クウェートからの撤退を目的とした作戦を最優先すべきだったと考える。ただ、これは、戦闘地域を事実上クウェートに限定することにもなりかねず、結果として、イラク国民以上に何にも罪のないクウェートの一般国民にイラク軍の侵攻によって生じた死傷者がさらに多数出る恐れもあったことでもあり、言葉で言うほど事情は簡単ではなかったろうが。それにイラク本土への攻撃でも、イラク軍が病院や学校など人道上問題となる施設を盾に軍事行動を行っていたとの情報もあり、事はさらに複雑な様相を呈している。

 が、いずれにせよ、当時の多国籍軍の行動やブッシュ(現アメリカ大統領の父親)の言動をみていて、一般市民に犠牲者を数多生じさせることに対する苦渋の表情は殆ど感じられなかった。
 これは私自身の独特の考え方だと思うが、私は、たとえ「正義」がこちらにあり、<報復と制裁>の権利もあり、相手国の卑劣な作戦によって一般市民の死傷者を回避することが困難だったとしても、そうした<戦争>を指揮した権力者は、事後、退陣すべきだと考えている。それが、「正義」の旗を掲げる者の「倫理」ではないか。決して、戦いに勝利したとしても、その美酒に酔い、満面に笑みをたたえるべきではないと、私は考える。

 たとえ最終的に<武力行使>に及ぶ場合でも、こうした高度な「倫理」が求められ、またそれ以前に、一般市民に犠牲者が出るような<戦争>は回避すべく、最善を尽くすことが必要だと、私は考えるのである。
 その意味で、「正義感」に燃える若者たちが、些か厳しい言い方かもしれないが、「安易」に、<報復と制裁>という名の<戦争>を是認してしまうことは、やはり問題だと私は考える。勿論、この事は若者に限っての話ではない。一般市民全体の問題として、「正義感」の発露の仕方については、まさに「正義」という名にふさわしい行為を考えるべきではないかと思う。
 まして、再三言っているように、歴史の過誤を<超克>し得ていない日本が、日本人が、たとえ「正義」の名に於いてであれ、<戦争>を安易に認め、そこへの日本の参加を是認することは絶対に避けるべきだと、私は考える。





「毒をもって毒を制する」

 「イラクや北朝鮮のような野蛮な国は、まだ軍事力が小さいうちに徹底的に攻撃して、壊滅させたほうがいい」――「戦争容認論」の中でも、最も過激な主張と言えばこれだろう。
 勿論、「絶対平和主義」の立場ではなくても、私の「平和主義論」の立場からでも、これを批判することはできる。「倫理」や「正義」という位相で論じるなら、上記の主張の誤謬を指摘するのは簡単だ。
 だが、イラクや北朝鮮のような野心を抱いている軍事独裁国家に、国際平和と秩序を遵守させることを考えると、事は些か面倒になってくる。
 核・化学兵器・生物兵器といった大量殺戮兵器についての国連による査察に対して、イラクはなんやかにやと理屈をこねて非協力な態度だったが、アメリカの武力攻撃がいよいよ現実化してきた最近になって、空からの査察も認めると妥協を示してきた。だが、これは今までの時間かせぎの中で隠蔽工作を完了したから査察に応じても差し支えないと妥協を演じたとも疑われる。
 そもそも本当に疑われるような大量殺戮兵器の開発・所有を行っていないのであれば、なんの条件も付けずに最初から査察に協力できるはずだ。査察は己の潔白を証明する良い機会となるわけだから、進んで協力を惜しまぬところだろう。
 北朝鮮にしても、多くの民衆が飢えに苦しんでいるというなかで、対外的な威嚇発言や示威行動が目立つ。本当に、キム・デジュン韓国現大統領らの「太陽政策」が「和解」を成就し得るのか。資金援助なども民衆を救済することには至らず、軍事力増強をもたらすなど、こちらの善意と柔軟な対応をいいことに、傲慢で人を舐めた裏切り行為をしているかにもみえる。
 イラク、北朝鮮の両国とも、このまま彼らのしたたかな戦略を許しておくと、近い将来に、世界は甚だ危険な重大局面を迎えることになりかねない――そういう心配をする人は決して少なくないだろう。実は、私もその危惧を抱いていることを認めざるを得ない。
 そこで、「悪魔」のささやきが耳元に聞こえる。イラク、北朝鮮両国の軍事力で世界のあちこちで甚大な被害が出ないうちに、彼らがそこまでの軍事力を所有しないうちに、或いは使用を躊躇しているうちに、先制攻撃をかけて、両国を壊滅させてしまったほうが、世界の平和と秩序の維持のためには有効なのではないか。その戦争による被害も少なくて済むのではないか。彼らの<良識>に人類の未来と幸福を委ねるのはあまりにも非現実的ではないのか、と。

 しかし、イラク、北朝鮮の軍事的脅威を国際社会から消滅させるためには、「毒をもって毒を制する」という方法が有効だとするこの主張にも、幾つかの疑問点が存してあると、私は考える。
 まず、その疑いとは異なって核や化学兵器や生物兵器など大量殺戮兵器の開発・所有を行っていない可能性は全くないと断言できるのか?――世界は<冤罪>を犯すことになりはしないか?
 もし開発・所有を行っていたとしても、それとは別に両国が国内的に主に経済的に安定し、民主化されていく可能性はないのか? そして、その経済の安定と政治の安定は、国際社会に於ける自国の義務と責任を理解することを促すことになり、かつての中共がそうであったように、やがて穏健な国になるのではないか?
 また一方、イラク、北朝鮮を武力攻撃することに積極的となっているアメリカだが、好戦的なブッシュがその成功をいいことに、さらに世界に戦火を広げることになりはしないか?
 そして、たとえば京都議定書の問題にみられるように、アメリカの覇権主義・帝国主義がより強化されることになり、世界は事実上アメリカ一国に支配されることになりはしないか?
 しかしながら、度重なる戦争は、アメリカに経済的逼迫をもたらし、世界経済に深刻な事態を生じさせることに至るのではないか?  
 さらに、<戦争>による一応の問題解決は、世界に、紛争の解決に当たっては<軍事力>こそが最も有効だとして、かえって世界中に<軍拡競争>をもたらすことになりはしないか? また、実際に、<戦争>が頻繁に起こることになりはしないか?
 もう一つ、イラクや北朝鮮が世界中から孤立して武力攻撃を受け壊滅的な状態に陥った場合、その怨念が民族感情に沈潜して、将来に災いをもたらすことになりはしないか?

 ――以上、様々な疑問や憂いが存するのもまた事実だ。「毒をもって毒を制する」という<超現実主義>の立場は、或いは当面の課題を解決するかもしれないが、そのツケはこんにち世界が抱えている難題以上の新たな難題をもたらすに至るやもしれぬ。
 ここはやはり、査察のより強化と継続、経済封鎖、そして粘り強い交渉といった硬軟合わせた対応に力を注ぐべきであろう。
 私は、悪魔のささやきを耳元に聞きながらも、やはり、私の「平和主義」の原理にもとづく対応をイラク、北朝鮮問題でも求めたいと考える。勿論、如何なる場合でも、日本が参戦することは日本の特殊事情の存在を以て、論外と言わざるを得ない。
    




「戦時体制」

 現状容認論との対話を必要とするのは、<戦争>そのものに限った事ではない。<戦時体制>の問題も重要な論点になる。
 ここでは次の3つを取り上げたい。
1.核武装や徴兵制が敷かれたからと言って大騒ぎすることはない。小泉首相も言っているように「平時から備えあれば憂いなし」だ。即<戦争>というわけではない。
2.有事法だ、国民総動員だと騒ぐが、国家の非常時に国民が協力して団結するのは当然だ。3.思想表現の自由が侵されると言うが、国家の危機に際して足を引っ張るような言論や行動が或る程度制限されるのはやむを得ない。

 これらは、現在<戦争と戦時体制>に向かって事を運んでいる政治家たちだけの本音ではない。特に若い年代を中心にして聞かされる言葉だ。
 湾岸戦争以来、保守派の人々がよく「戦争反対」と叫ぶ左翼・革新の立場にある人々を「平和ボケ」なぞと揶揄しているが、上記の主張を聞くと、その言葉を逆に返してみたくなる。
 私自身、年代的に、戦時体制を直接体験しているわけではないが、父母を始め体験者がごく身近に存在したし、映画や小説や書物等で、まだ十分冷めぬ情報を得ている。その経験から言えば、上記の容認論は、こんにち進行しつつある実態に無知であり、また同時に「戦時体制」の怖さに全く無知であると、言わざるを得ない。

 まず1の点だが、隣国に北朝鮮のような反日的で事実上の核保有国をもつ日本としては、<戦争抑止>という観点からも、いっそ<核武装>し、<国民皆兵>となったほうが有効なのではないかという<悪魔のささやき>が耳元に聞こえなくもないが、しかし、実際はどうだろう? 現状は、「備えあれば憂いなし」と言えるような<平時>では既にないと私は認識する。今、日本が<核武装>や<徴兵制度>に向かったら、北朝鮮の態度をよりいっそう硬化させるのは間違いないだろう。
 これは再三述べていることだが、今の北朝鮮は国家として実に危険で異常な状態にあるのは間違いなく、これを私は些かなりと弁護するつもりなどないが、ただ、事を北朝鮮側から見た場合、この日本は戦後どのように映っていただろうか。<戦争放棄と戦力の不所持>を宣言した憲法を持ちながら、朝鮮戦争やベトナム戦争をはじめ、アメリカの行う戦争には殆ど事実上の参戦を強行し、世界有数の軍事力と言われている自衛隊という名の軍隊をもち、歴史の過誤についても、「南京大虐殺も従軍慰安婦もデッチ上げだ」「あの戦争が<侵略戦争>かどうかは、後世の歴史家の判断に待つ」「朝鮮半島は日本の生命線だ」なぞと政府首脳や有力政治家や有識者が相次いで語るなど、反省と償いを心から全うしようという気がない日本、しかも核の超大国アメリカの核の傘の中にある日本――、この平和憲法と政治社会の実態の間にある余りにも大きなギャップをもつ日本を、かつて甚大な被害を被った北朝鮮の人々の側からみた場合、彼らに日本への信頼と友好を求めるのは些か身勝手ではないだろうか。
 日本人は過半を遙かに越す人々が現状の北朝鮮に対して不安と恐怖を感じていると世論調査にも表れているが――その点私自身も同様だ――、しかし逆に北朝鮮の人々からみれば、上記の諸々が民衆に伝えられているとしたら、彼らもまた日本という国に対して、ある種不気味な不安と恐怖を感じるのではないだろうか。「日本を本当に信用していいのか。朝鮮人と本当に友人になる気があるのか」と。民衆や北朝鮮の政府・軍関係の一定以上の立場にある者たちにとって、日本は、<脅威>ではないのか、少なくとも<脅威>となり得る国ではないだろうか。
 
 こうした実態を冷静に認識したとき、日本の<核武装>と<徴兵制>など軍事力の決定的な強化は、彼らの<不安と恐怖>を大きく増大させることになると私は考える。
 尤も、<抑止力>という観点から言えば、相手に<不安や恐怖>を与えてこそ意味があるので、それはこちらが当然期待する結果であって望ましいとする考え方もあろうが、問題は、金正日が率いて異常な時代状況にある北朝鮮が、その<不安や恐怖>に<沈黙>するだろうかという点だ。日本の戦後の実態に対して厳しい目を向ける私だが、同様に、北朝鮮の実態についても冷徹な目で的確に認識せねばならない。日本の<核武装と徴兵制>は、北朝鮮のような<追いつめられた国家>にとって、有効な<抑止力>になるのか。
 私は、むしろ、事態をさらに悪化させ、もう引き返せないところまで突き進ませてしまうのではと恐れる。日本にとっても北朝鮮にとっても、引くに引けない<破滅>の極にまでお互いを追いつめ合ってしまうのではないかと、私は考える。
 ここでも、「現実主義」は、戦後平和主義の限界や陥穽を批判する点では有効でも、いざ己が状況と関わりをもった場合には、その「主観的観念主義」としての認識と思考の陥穽が、まさに<現実>によって露呈してしまうという皮肉な結果を生むことになると私は指摘したい。 





「戦時体制part2」

 昨日書いた「戦時体制容認論」の3つのうち、残りの2つもまた、一見「現実主義」のリアリティを感じさせながらも、状況との関わりに於いて、結局、「主観的観念主義」の陥穽にはまっている実例だろう。
 国家の「非常時」「危機」には国民が一致団結して事に当たり、その足並みを乱すような有害な行為は慎むべきとする――それを国家が法律で義務づけ強制する――のは当然だとの極めて現実主義的な主張は、しかし、やはりこんにちの実態を的確に認識したものとは言い難いのだ。
 国家の「非常時・危機」への対処と言うが、私がこの「晩鐘抄録」で再三指摘しているように、それは、私の「平和主義論」――極めて限定的な、真に正当防衛と言える「自衛」に徹した武力行使の容認――を大きく逸脱する軍事行為を想定したものだ。
 つい先日も川口外相が今の時点で明らかにしたが、「敵の基地に対する自衛のための報復攻撃は憲法上問題ない」というまさに<全面戦争>に突入する危険の高い事態を想定したものであり、直接的な自国領土の防衛とは異なる多国籍軍への参加も可とするという、より広範で攻撃的な軍事行動であり、敵国の攻撃があった場合だけでなく、その恐れがあると認められる場合にも「有事法」が適用される――日本国民の中の極く少数に過ぎない政府首脳の主観的判断で<戦争>への第一歩が踏み出される――等々、その「非常時・危機」の実態は、限りなく日本自身の好戦的な姿勢――そこに<核武装や徴兵制>が加わればその好戦的姿勢は何倍にも強く目立つであろう――によってもたらされる可能性が高いと言わねばならぬ。
 「非常時・危機」と言っても実態がこのようなものであるとき、国民が国策に協力して一致団結し、事態に対する批判や異論など様々な認識、観点、思考等を許さないとしたら、まことに恐ろしい国家が出現することになろう。まさに北朝鮮ではないが、それに近い軍事独裁国家の出現と言っても過言ではないと、私は考える。
 その時、国策に非協力な市民を<非国民>として糾弾する世相――世論のムードとしても、またテロの発生もあり、治安維持法の類の法による弾圧もある世相――になるのだろうが、事ここに至っては、まさに「ファシズム」とも言うべき時代の到来であると考えなければならぬ。
 こんなに「自由」な日本がそうなるはずはないと考える人もおられようが、今享受している「自由」は、上記に示した様々な好戦的とも言える攻撃的な軍事行動や戦時体制下の諸法律の存在が現在無い状態に於いて成立しているわけである。が、その「自由」を保証している様々な条件が取り除かれ、それに取って代わって、言論の自由、思想表現の自由まで国策の管理下に置かれるような「戦時体制」が敷かれ、後世、実は日本こそが「加害者」であったと断じられる如き――アメリカのベトナム戦争が、アメリカにとってそうだった――過剰な軍事行動、<戦争>を行うに至った時点では、「自由」の享受は、今とは
全く事情を異にすることになると言わねばならぬ。  

 今ここでは、現在進行中の日本の国策が、私の「平和主義論」とは根本的に異なる<戦争政策>によるものであるとして「自由」の問題を考えてみたが、実は、たとえ、私の「平和主義論」による武力紛争の遂行の場合であっても、「自由」――異論・反論――は、絶対に保証されなければならない。なぜなら、国家・国民が唯一の意識や観念に固まってしまった場合には、事が、何と言っても、武力行使=戦争であるだけに、当初正義で行われた行為でも、事の成り行きによっては過剰になる恐れもあるし、曲がった方向へ展開していく危険も否めず、ゆえにそれを自省し制止する人々の存在が絶対不可欠なのである。
 戦争以前には、最後の最後まで「戦争回避」に英知を注ぐべきであるし、それでも不幸にして勃発したあとは、できるだけ犠牲者の少ないうちに「和平」による解決を求めることが必要であり、そのためには激しい戦闘の最中にあっても、冷静に客観的情勢を見つめ、的確に認識し、問題解決に有益な思考を営める人々を、常に、いや国家の非常事態であるからこそ、担保しておかねければならないと、私は考える。
 私の「平和主義論」による武力紛争に於いてさえそうなのでから、ましてや、こんにち急速に且つ強行に邁進しつつある国家の「非常時」「危機」に際しては、なおさら、「自由」の制限などあってはならない。「非常時・危機」の名目の元に、<異論・反論>が罪悪視され、糾弾され、結果沈黙させられるような事態があっては絶対にいけないのである。そのような狂信的な国家主義・民族主義は、どんな大義名分を掲げようと、正義の旗は色あせ、やがて破綻の坂道を転げ落ちるに至るであろうと、私は考え、憂慮するのである。


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