「有事論議の陥穽」

―――不遜な有事論議
津吹 純平





 読売社説は5月25日付で「有事対応の検討は幅広く迅速に」という主張を展開した。
 橋本首相が憲法論議とは別に、あらゆる具体的な場面を想定して日本として何ができ得るのかを検討する意向を明らかにしたことを受けての主張だ。
 この首相の有事体制の検討自体を批判する声は、当然左翼・革新の側から起きている。
 しかし、邦人救出のためのマニュアルが無いという現状の不備は改善されなければならない。有事体制の確立そのものに反対する立場は、結果的に海外に駐留の邦人を見殺しにすることにもなり、一般国民の理解を得難いと言わなければならない。
 有事体制の確立を志向すること自体を罪悪視したり、研究考察すること自体を否定するのは、問題があろう。
 だが、読売社説も言っているように、有事体制の問題は、アメリカの後方支援をどこまで行なうかという問題でもある。否、現実政治の目的はむしろこちらのほうにあるだろう。建て前としては、邦人救出だろうが、本音は、日米安保による共同防衛の実現にあることは疑い得ない。
 読売社説は書く。「内容によっては、政府の憲法解釈では禁止されている集団的自衛権の行使にあたるものも出てこようが、個別的自衛権の範囲におさまる支援も多いはずだ。」と。
 〈政府の憲法解釈では〉と、わざわざ注を入れている点は気になるが、〈個別的自衛権の範囲におさまる支援も多いはず〉と書いていることから判断すれば、一応、集団的自衛権の行使を否定しているとも取れる。
 だが、すぐその後で、「実際の作業では、日米安保体制の円滑な運用という観点を忘れてはならない。」と主張していることを考えれば、必ずしも否定しているわけではないようにも思える。むろん、この部分は、さきの〈個別的自衛権の範囲におさまる支援も多いはず〉という文を受けてのものだから、あくまでもその枠内での「日米安保の円滑な運用」を求めると解するのが普通なのだろうが、なにせ改憲を主張している読売のことだ。ここはやはり、「日米安保の円滑な運用」という点に比重がかかっており、その結果、〈政府の憲法解釈では禁止されている〉集団的自衛権の行使に抵触することがあれば、政府の憲法解釈を変えるなり、いっそもっとすっきりと改憲して有事体制を確立すべきだという主張と解するのが、読売社説持論の主旨に適っていることになるのであろう。
 尤も、個別的自衛権にせよ、集団的自衛権にせよ、いずれも、有事に対応せよと言っている点では同じことだ。
 そこで問われるべきは、そもそも、有事とされる朝鮮半島や台湾での紛争勃発が、なぜアメリカの、そしてとりわけ日本の有事になるのか、という問題である。
 有事体制の確立を求める立場ばかりか、それに危機感を抱く立場においても自明の理とされてしまっているこの問題について、改めて冷静に見つめ直してみることが必要だ。
 考えてみれば、朝鮮半島にせよ、台湾にせよ、そこでの紛争勃発は、あくまで内政問題だ。
 もちろん、朝鮮半島が北朝鮮の支配下に置かれたり、台湾が中国の支配下に置かれたりすることは、日本にも少なからぬ影響をもたらすであろうことは容易に想像できる。
 しかし、それがよく言われる、日本にとって「死活問題」だというのは、理解がし難い。
 過去の植民地支配と侵略戦争の責任が厳しく問われ、賠償問題が惹起するなど、日本にとって不都合が多々生じることは目に見えるが、それを「死活問題」というなら、そうした認識の在り方自体の正当性が問われることになるだろう。
 事を、経済の位相において見ても、不都合の存在は認められるものの、日本経済の実態から言って「死活問題」というには無理があろう。
 或いは、「死活問題」という言葉が一番リアリティーをもつのは、軍事的側面においてかもしれない。確かに、朝鮮半島全体が北朝鮮の支配下に置かれるというのは、軍事的な脅威を増大させるにちがいない。
 しかし、それも、日本が北朝鮮にたいして敵対的な立場を固持することに深く関わる話であろう。歴史を正しく清算し、友好外交を積極的に展開した場合、それでも軍事的脅威は存在し続けるのだろうか。もっとはっきり言えば、北朝鮮からの侵略があるとでも言うのだろうか。
 こうしてみると、「死活問題」云々という主張の信憑性は、日本自身の対応に深く関わることであり、客観的な位相においてそれと認識せざるを得ない話ではないことがわかる。
 尤も、ここでの主題は「死活問題」との認識の不当性についてではない。
 実は、たとえ「死活問題」だとしても、それを「有事」として、個別的自衛権であれ、集団的自衛権であれ、日本が、アメリカの軍事行動を支援するという図式は成り立たないと指摘するところにこの小文の主題は存する。
 すなわち、「死活問題」であろうと、「有事」であろうと、それが、朝鮮半島において発生しているかぎり、換言すれば、日本列島において発生するのでないかぎり、その紛争は、あくまで内政問題である。
 たとえば、我が家はペンションを営んでいるが、その隣りに、ペンションが建ちそうになった場合、それこそ、我が家にとって死活問題ではあるが、その自己防衛のために、自らの経営にいっそうの努力を傾注するのではなく、隣人に対して威圧的な行動を取ったり、妨害行為に出たりという形での自己防衛は、一般社会常識から言って到底認められまい。
 事を、立場を変えてみるとよりはっきりするだろう。たとえばの話だが、万が一、日本に共産党政権が誕生しそうになったとして、その際、反共を貫く韓国が、日本の共産化は、韓国にとって「死活問題」であり、「有事」であるとして、アメリカと軍事行動の協議を始めたとしたらどうだろう。日本人にとって、それは甚だ迷惑な話であり、乱暴な話ではないか。
 つまり、隣国の動向が自国の利益と損失に深く関わるとしても、それが隣国の主権の存する範囲において行なわれているかぎり、自己防衛は、自らの主権の及ぶところで果たすべきである。
 その内政問題を、自らの「死活問題」「有事」として主観的に認識し、軍事行動に参画するとなれば、それこそ、相手国にとってこそ、自国の「死活問題」であり、「有事」でありということになろう。それは、相手国の報復攻撃に根拠を与えることになるのである。そこから先は、考えるのも恐ろしい事態の発生が有り得ると言わなければならない。
 読売社説は、日本にとっての、極めて独善的な「有事」を想定し、その速やかな対応を迫るが、そうした主観主義は、日本と日本人の将来をいたずらに破滅の危険に曝すものであることを、深く銘記すべきである。
                                             了



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