『有事法制――論争の陥穽と問題の本質』

                              2003.5.11〜6.6執筆


「有事法案をめぐる対話」 2003.5.11

 先日の統一地方選での事。地元の村議選に立候補した某氏との対話。
 「Tさんは、有事法案に対してどんなお考えをもっていらっしゃいますか? ご承知かと存じますが、有事法制は、地方自治体にも深く関わる問題ですから、今回の村議選の焦点として、わたしは最も重視しているんです」。
 「むずかしい問題で、正直迷っているんです」。
 「わたしはこう考えているんですよ。現在の憲法は、過去の日本の天皇制軍国主義による侵略行為を防止することに主眼を置いて作られたもので、逆に日本が他国から侵略されたり先制攻撃を受けた場合にはどう主権と独立を守るべきか、国民の命と生活をどう守るのかという観点が欠落していると思うんです。そこで、そうした侵略防止、攻撃阻止を目的とした法制度の整備は必要だと認識しています。その意味で、わたしは自衛隊の存在も認めますし、当然自衛隊による武力行使も容認しますし、有事法制の必要どころか、改憲の必要性も承認します。
 ただそこで問題なのは、被害者となることを予防すると言いつつも、逆に過剰防衛だったり、日本のほうが加害者となってしまったりという歴史の二の舞になってはいけないと思うんです。つまりあくまで「専守防衛」に徹するべきだし、その歯止めが絶対必要だと考えます。
 その点で、今回自公保連立政権のもとで提出されている「有事関連法案」は、侵略の恐れがあるとみなされた場合といった条項があったり、その認定を政府だけで決定できるとあったり、またそれらに関連して、川口外相の「日本も多国籍軍に参加すべき」「相手基地への報復攻撃も必要」といった発言があったり等々、つまり、集団防衛・先制攻撃・他国領土への侵犯・攻撃等の禁止を戦後日本は国是としてきたわけですが、そのタブーを今回の有事法案では一挙にうち破ることになっている、という実態を考えますと、これはもう「備えあれば憂いなし」というレベルではなく、「専守防衛」「正当防衛」というレベルを大きく逸脱した、極めて危険な法案だと言わざるを得ないと思うのです。
 繰り返しますが、わたしは、日本が攻められても「非武装・非暴力・無抵抗」を貫くという「絶対平和主義者」ではありませんので、必要最低限の、文字通り「専守防衛」「正当防衛」の範囲内に於ける自衛隊による武力行使とそれを支援する国家・国民体制の整備は必要と考える立場なのですが、それにしても、今回の有事法案・有事法制は、それを大きく踏み出し、<攻められたらどうする>と言いつつ、<攻撃は最大の防御なり>というところまで行ってしまっている点、またそもそも<攻められないようにするにはどうしたらいいか>という平和への希求が全く欠如している点、そして日本がアメリカと一緒に戦争を仕掛ける国になる恐れが極めて大きいというか、それを可能にするための法案・法制だと言わざるを得ないものになっている点で、いわばわたしのような<現実主義>の立場からも絶対に認めることはできないと思っているのです」
 「そういうことなら、理解できます。普通有事法案に反対というと、共産党さんのように、自衛隊も認めない、結局攻められても何もしない・何もできないという意見ばかりなのですが、それだと私はついていけない。でも、今のお話ならよく分かりますし、国民の多くはSさんのそういう考え方に賛成するんじゃないですか」。
 「本当はわたし自身そうだと思っているのですけどね。なかなかマスコミなどでもそういう観点からの発言が出てこないんですよね。有事法制全面賛成か、逆に有事法制全面反対という二者択一しか出てこないところに問題がありますよね。民主党の修正案などいうものはありますが、あれは所詮、自公保連立政権の有事法案・有事法制に収斂されてしまうもので、わたしの言う、日本が<加害者>となる事態をどう防ぐか、この法案・法制は、結局日本が<加害者>となる危険が大なのではないか、といったもっと有事法案・有事法制の問題の核心に迫った議論が必要なのですがね」。
 「そうですね。Sさんのご意見に全く同意できますよ。日本が戦争を仕掛けるような事をしては絶対にいけないと思います。もし私が議員になれたら、そういう話を他の議員さんたちにもして、戦争回避の決議をしなければいけないと思います」。

 こうして、保守系無所属のTさんとの対話は終わった。
 会話の中でも言ったが、有事法案・法制をめぐる議論は、「攻められたらどうする」との立場・意識に囚われた主張と、「自衛隊は憲法違反だ、有事法案・法制は憲法違反だ」との立場・意識に固執した主張の二者択一になってしまっている。
 それでは多くの国民の意思は反映されないのではないか。というか、拉致問題や核問題等に於ける北朝鮮の居丈高な主張に接している国民は、「護憲平和主義」の立場からの主張には現実性を感じることができないため同意できず、結局、政府与党の主張を、不安を感じつつ完全に得心できないまま容認することになるのではないか。

 だが、わたしのような立場・考え方で話をすれば、保守系無所属の人でも現状の有事法案・法制には危険が大きいとの認識を示すに至るのだ。迷いは消えて、明確な反対の意思を示してくれるのだ。はじめから左翼的・革新的意識や思考をもつ人々ではなく、こういう層の考え方・意見がどのような判断に帰着するのかこそが、世論形成の焦点となるのであろう。
 それは持論の「異論・反論との対話」「私の平和主義」の普遍性を証した対話であり、ここにこそ、戦争への道を防ぐ、<平和の砦>の現実的構築の可能性が証されていると言って、決して自画自賛ではないと、私は考える。
  




「有事関連法案、衆院通過」 2003.5.14
 昨日に続いて、有事関連法案が、衆院本会議を自公保連立与党に加えて民主党の賛成のもとに、賛成多数で可決した。
 
 結局、私の懸念どおり、この法案の核心、「日本が攻められたらどうする」という防衛の名のもとに、実は日本自身がアメリカに同調して先制攻撃を仕掛けるなど加害者となる戦争を始める事態が発生するのではないか――といった疑惑の解明と、その危険を絶対に回避し得る方法の論議が皆無のまま成立してしまった。
 なされた論議といえば、単に、内閣だけで事態の進行が決定されてしまうのではないか、それも事後承諾になってしまうのではないか、といったいわば問題の本質からみれば、二次的なレベルでの問題点、つまり野党政治家たちの面子に関わる問題のやりとりに終始してしまった。

 それにしても、問題の核心が政治の世界やマスコミでも大きくクローズアップされなかったについては、共産党や社民党、およびマスコミにおける左翼勢力――マスコミ人だけでなくそこに登場する学者評論家なども含めて――の、公式的な議論も逆作用したと言わざるを得ない。
 「日本が攻められたらどうする、という問題を考える必要性はこんにち確かに存するだろう。日本の主権と独立、そして国民の命と生活を国家は厳守しなければならないし、そのための法整備は平時においてこそ実践しなければならないことも認めよう」との状況認識に立って、「そのために、とはいえ自衛隊が憲法違反である点は厳密に法律学の問題なので譲るわけにはいかないが、政治的に百歩譲って自衛隊の存在とその武力行使も容認しよう。だが、この法案は、本当に、そうした日本への明らかな侵略攻撃・先制攻撃のみに対処するだけでそれ以上のものではないと言い得るのか。実はイラク戦争がそうであったように、アメリカの先制攻撃に日本が軍事協力するような事態が発生するのではないか。日本がまた加害者となる戦争を始めてしまう、しま得るのではないか――、その点こそにこの法案の危険な本質が存するのであり、絶対に容認できないところだ」といった現実主義の立場からの批判がなしえぬ、<護憲平和主義>の原理・原則から外に出ることができない左翼勢力および革新勢力の論理と言語の限界が露呈したと言わざるを得ない。

 それにしても、こういう形で、私の思想的立場の正当性が現実によって証明されることになったのも、予想通りとはいえ、如何にも皮肉というほかはない。
 その私の主張は、いまだに著名人や一般市民の理解と共感を得られていない。彼らからの反応はまったくない。恐るべき沈黙。この実態をどう考えればよいのか――。

 いずれにせよ、とにかく、これで、日本の平和は、完全にアメリカ政府の、それももっと端的に言えば、ブッシュの狂信的な意思ひとつにかかることになってしまった。
 日本の平和と日本国民の命は、ブッシュという他国のひとりの人間の手に委ねられてしまった。――、これは、最悪の冗談だ。




「有事法制と日本」 2003.5.17
 一昨日の日記に、日本の平和と日本国民の命は、ブッシュという他国のひとりの人間の手に委ねられてしまった――、と書いた。
 これは現在の状況認識を述べたものであって、日本の危険は決してそれだけにとどまるものではないと私は考えている。
 つまり、アメリカの戦争に巻き込まれるという事態だけではなく、日本自身が将来、独自に戦争を起こす危険もまた存在すると認めなければならない。
 日本人の中には、過去の帝国主義憲法を是認する勢力がまだ残存していること、そこまでではなくとも、戦後の平和憲法を目の敵にしている勢力があることが一つの根拠だ。
 また実際問題として、他国の領土内への攻撃と先制攻撃を認める政府首脳がある。
 ただ先制攻撃については注釈が必要かもしれない。彼らがその旨の発言をしたのは、「日本も多国籍軍に参加すべし」というものだった。直接、日本による先制攻撃を示唆したものではない。
 だが、実際上から言えば、アメリカを主導とした多国籍軍は今回のイラク戦争において先制攻撃を行っており、それを承知の上で参加の意思を表明するということは、「先制攻撃」そのものを承認したに等しい。ただ、論理的・政治的には、アメリカ主導による多国籍軍の先制攻撃を承認することと、日本自身の先制攻撃を認めることの間にはなお如何ほどから乖離が存しているとも言えるが、しかし、中曽根元首相の「戦後政治の総決算」「戦後理念の総決算」以降、この十数年来の流れをみていると、理念として「先制攻撃」を認めたという事実がもつ意味は大きい。早晩、日本自身の先制攻撃を認める発言が飛び出すことだろう。
 またあからさまな先制攻撃ではないとしても、局地的な軍事衝突が発生した場合、一挙に「全面戦争」へと突入していく危険は、現実的な問題として考えておかなければならないだろう。防衛という大義名分をもった日本が、正当防衛の範囲をはるかに超えて、他国領土への攻撃と他国民の殺戮という軍事行動に突っ走る危険は現実的なレベルで考えなければならない。

 ところで、有事法制が具現化することになると、次は、やはり核武装と徴兵制の問題が画策されることになるのだろう。もちろんそれは同時に「憲法改定」問題の発生を意味することだ。
 たしかに核武装そのものは世界の実態をみれば「戦争抑止」としての効果もあることは認めなければならないことであり、直ちにそれが、日本自身による戦争行為の発露を意味するわけではないものの、ここでもまた、日本のナショナリズムおよびネオ・ナショナリズムの実態が特定の方向を指し示すことだろう。
 とにかく、現在の状況においては、アメリカの戦争に日本が巻き込まれる事態が具体的に想定される――日本自身は戦争に参画する意思をもたず、日米同盟の義務の履行としてそうせざるをえないというニュアンスをもつ――ことだが、実際には、日本自身が積極的に同盟国として、集団自衛権の発露として戦争に参画する意思をもち、またこの有事法制は、近い将来アメリカ抜きの戦争を日本自身が為し得る体制を確立したのであり、実際にその危険も存するのだという事実を確認しておく。





「有事法制――左翼言論の限界と陥穽」 2003.5.20
 関口宏の「サンデーモーニング」を見ていたら、有事関連法案が衆議院通過をしたあとのコメントで、志位共産党委員長が「問題の本質は、攻められたどうすると言うが、先制攻撃を認める攻めるための有事法制になっていることだ」というのを聞いた。些かこわばった表情で口を真一文字にして強く語るその表情を見、その声を聞いて、私は、なんとも歯痒い思いに襲われた。
 実際、この発言に、有事法制論議における左翼・革新の限界と陥穽が現れていると、私は考える。もちろん実際のコメントは前後に何某か語られていたろうが、土井社民党党首の発言ともあわせて、あちこちでの発言内容から上記の表現と認識に彼らの主張が端的に示されていると言っていいだろう。
 この発言の問題点はどこにあるのか?

 その前に確認しておかなければならないのは、「有事関連法案の本質が、<攻めるための法制>という点に存する」という指摘それ自体は正当だという点だ。
 実際、小泉首相は<備えあれば憂いなし>と言い、<平時だからこそ考えなければならない>と言うが、今回の有事法制が、戦後保守政権下にあっても禁忌とされてきた集団自衛権・先制攻撃・相手国領土内への攻撃といった軍事行動を可能とするなど「専守防衛」の枠を大きく踏み出している事実、局地戦争にとどまらず「全面戦争」突入の危険さえ存する事実、より端的かつ具体的に言えば、今回のアメリカによるイラク戦争のような事態に際して今後は全面的な軍事関与を行う危険が存する事実――を直視すれば、まさに<攻めるための有事法制>になっていると断ぜざるを得ない。

 それでは、志位共産党委員長の発言のどこが問題なのか?
 それは、「憲法違反だ」と反発する土井社民党党首の立場もそうだが、有事法制の本質を指摘しそれを否定することに終止している点に存する。
 すなわち、有事法制が<攻めるための法案>だとして否定するのはいいが、<攻められたらどうする>という問いに答えていない点に問題が存すると、私は考える。
 
 尤も、この点に関しては、彼らは次のように言うかも知れない。「<攻められたらどうする>と言うまえに、<攻められないようにするにはどうすべか>を考えるべきではないか」と。その具体的な対処法について、彼らなりの提案があろうかと思う。
 番組で関口宏さんも言っておられたように、<攻められないようにする>のが政治家の務めであって、<攻められたら>と想定する以前に、そのような事態が発生しない・発生させないことに全力を傾けるべきだというのは、極めて当然の正論だ。

 だが、こんにち国民の中に拡がっている不安は、たとえ<攻められない>ための方策を諸々講じたとしても、それでも日本を攻撃する・日本が攻撃される危険は存するのではないか、というものだ。実際、日本に相手国を攻撃する意図が全くなく、それを明確に伝えれば、絶対に相手国の攻撃を受けることはないと誰が断言できるだろう?
 過去の歴史のポーランドに侵入したナチス・ドイツや「朝鮮併合」を断行した天皇制日本軍国主義の例をあげるまでもなく、こんにちにおいても、クウェート侵略をしたイラク、そのイラクに先制攻撃を仕掛けたアメリカなど、一方的な侵略行為を断行する事例は相次いで発生している。日本の場合も、かの国をどこまで信用すべきなのか、また信用でき得るのか――。

 拉致問題やその他の問題での北朝鮮の居丈高な言動・姿勢――韓国との公式対談の席上「ソウルを火の海にしてやる」と北朝鮮の高官が脅したという。日本の小泉首相との会談でもその類の脅しをかけられたとの報道もある――をみている国民には、北朝鮮に親近感を抱いている左翼勢力の、「友好的な話し合いを」との主張は、とても信じ難いものがあり、到底説得力をもたないだろう。

 その意味で、残念ながら、やはり「攻められたどうする」という問い・疑念に、政治家も国民も率直に対峙しなければならないと、私は考える。
 そして、こと「防衛」という観点に立って考えてみると、「戦後平和憲法」は、限界を有しているのではないか。そもそも、天皇制軍国主義下の日本帝国主義が数々の侵略行為を繰り返した実態に対してその再現を絶対に防止するという目的を第一義として作成されたであろう「平和憲法」には、「攻められたらどうする」という観点ははじめから欠落していたのではないか。尤も、その非武装・非暴力・無抵抗という「平和憲法」の原則も、案外侵略者への最後の抵抗手段として実は侮れないと私は考えるものだが、しかし、それは民族とか国家という位相においてその効果を論じ得ることであって、国民という位相・ひとりの人間という位相において論じられることではない。事を極めて具体的に考えれば、恐らく現実には一つの民族・国家を全滅させるところまで侵略行為を継続し完了させる侵略国家は生じないと思われるが、しかし、そこで得た「和平」に至るまでに払った犠牲の大きさは計り知れない。

 そのような不条理な事態を発生させないためには、やはり、「攻められたらどうする」という「防衛」の観点からの考察も必要ではないかと、私は考える。極めて現実的で具体的な事態を想定した上で、日本の主権と独立と、国民の命と暮らしを守るための最小限の「軍事的防衛」の整備も必要となるのではないか。――この思いは、こんにち、国民の過半を大きく超える無自覚のコンセンサスとなっていると私は認識する。 

 その意味で、先の志位共産党委員長や土井社民党党首らの有事法制批判――有事法制の危険な本質を指摘して否定するだけにとどまる――は、国民世論に対する配慮を著しく欠いたものと言わざるを得ない。
 「有事法制は<憲法違反>です。断じて認めるわけにはいかない」と語気を強める土井社民党党首らの「護憲平和主義」自体、残念ながらこんにち保守反動批判の「切り札」として通用しなくなっている世論の変化――国民の不安な心――に対応し得ていないと、私は考える。
 
 尤も、戦後一貫して「護憲平和主義」を唱え、過去幾たびか日本の全面的参戦――朝鮮戦争をみよ、ベトナム戦争をみよ、湾岸戦争とイラク戦争をみよ――という最悪の事態を回避させることに一定の成果をあげてきた戦後左翼・革新勢力にとって、その思考の枠組みから出られないのもムリからぬことかもしれない。 

 しかし、その平和勢力の「限界」は、結局、国民に、今回の<この>有事法制に賛成か、反対かの二者択一を求めることになり、「攻める」危険より、「攻められる」危険のほうに強いリアリティを感じるがゆえに、或いは「エゴ」の存在ゆえに、「攻められたらどうする」という問いに反応してしまい、「攻められたらどうする」という問いから生じたとされる今回の<この>有事法制が実は、むしろ「攻められる危険」をさらに増大するものであるにも関わらず、それを「危険回避」の方策として支持してしまうという「陥穽」を演出するに至ることとなる。

 それにしても、原則論として自衛隊の存在と武力行使を容認する私の立場からの有事法制に対する考え――連立与党+民主党の<この>有事法制賛成論でもなく、左翼政党の反対論でもない――、その「現実主義」からの「平和論」こそ、実は国民のコンセンサスを形成し得る可能性が少なくないと思われるのに、マスコミで発言する機会を得ている著名人の誰もが思考し得ずという現実、そのために選択肢の一つとして国民の前に提示されない現実を思うと、本当に、絶望感と虚無感に襲われる。





「小泉首相の答弁の意味」 2003.5.21
有事関連法案の参議院での審議。NHKのニュースでみる。
小泉首相は「これは戦争するための法案ではない。仕掛けられた場合の法案で、<専守防衛>という今までの在り方を変えるつもりはない」と答弁していた。これに先だった質問は放送されなかったので、どんな質問に対する答弁だったのか定かではないが、このような抽象的な答弁をさせてしまうところをみると、核心をついた質問ではなかったのだろう。

 戦争するための法案ではないとか、専守防衛の原則を守るとか、今までの(防衛の)在り方を変えるつもりはないなどと言っているが、それでは、今後アメリカによるイラク戦争のような事態が発生した場合に、日本はどう対処するのか。もっとはっきりと言えば、アメリカによる北朝鮮戦争が発生した場合に、今回の有事法制はどのような対処を日本に促すことになるのか。対イラクの時同様に、まずアメリカが北朝鮮に対して「先制攻撃」を行う。それに対して北朝鮮が報復攻撃に出る。その場合、直接アメリカ本土への武力攻撃ではなく、北朝鮮攻撃の発信基地となった沖縄や首都東京にミサイル攻撃を行う。――たとえばこのような軍事紛争が勃発した場合に、日本はどう対処するのか。有事法制はどのような行動を求めるのか。――問題の核心はここに存する。

 もしこのような事実経過の際に、日本が北朝鮮に対して報復攻撃を断行することを「専守防衛」と称するならば、戦後長い間国民が理解してきた「自衛・正当防衛」といった観念とは大きな乖離が生ずることになるだろう。しかもその報復攻撃が北朝鮮本土までに及ぶとなれば、既存の、本来の意味での「専守防衛」とは言い難いものとなるだろう。
 ここは冷静にかつ慎重に考えなければならないのだが、一見、日本自体が攻撃されたのだからそれに対する反撃は当然であり、それは「専守防衛」の枠内だともみえるが、しかし、問題の発端は、アメリカの先制攻撃にあり、それを日本政府が沖縄の基地を使用することを含めて容認したとなれば、北朝鮮の報復攻撃を文字通り、侵略も先制攻撃もしていない日本へ突然北朝鮮が先制攻撃してきた・戦争を仕掛けてきたという事態――私も「武力による反撃」を容認するまさに「専守防衛」が発動される状況――とはやはり大きく異なると考えるべきであろう。

 これを、日本自身は北朝鮮へ武力による先制攻撃を行っていない時点で北朝鮮から武力攻撃を受けたのだから、「自衛・正当防衛」だと認定し「専守防衛」の枠内だとして武力による反撃に出ることを認めるならば、やはりこの「有事法制」の現実における役割は、文字通り「仕掛けられた戦争」に日本の主権と独立を守る・日本国民の命と暮らしを守るという当然の「正当防衛」の論理が発動される場合と比較して、著しく「戦争突入」の危険は増大すると考えなければならない。
 実質的には、「有事法制」を「先制攻撃を可とする戦争」「加害者となる戦争」「攻められる可能性の増大」の危険ゆえに反対している私たちの危惧が正当であることを証すことになるだろう。

 それにしても、この日のNHKの報道はひどい。イラク戦争ではイデオロギーを排した客観的な報道を展開して評価したものだが、この小泉首相の答弁の報道姿勢はおかしい。その前後が省かれているため、これでは小泉首相の一方的な宣伝になってしまっている。これをみた多くの人は、「有事法制」を危険だと騒ぐ人がいるが、それほど危険なものではないではないか、「戦争するための法案ではなく、攻められたら守る」など、ごく当たり前のことを言っているだけではないか――、そういう印象をもつのではないか。
 マスコミでニュース番組を制作している人たちも個人的あるいは組織的に、特定の判断をもっているだろうが、しかしジャーナリズムという公の仕事を担当するに当たっては、公私混同すべきではない。あくまで事の是非は国民自身に任せ、その際の具体的な事実・データを提供するという姿勢こそ第一としてほしいものだ。主張があるなら、ちゃんとそれを明確に示した上でなすべきであろう。いずれせよ、意図があってか否か分からぬが、こうした形で世論誘導を果たす罪は大きいと言わねばならぬ。 





「有事法制のあるべき論点」 2003.5.23
 戦後日本は「平和憲法」の下、自衛隊の存在そのものが憲法違反との声もあるなかで、ともかく「専守防衛」を原則とする防衛政策をとってきました。
 ところが今国会において、小泉首相の「備えあれば憂いなし」「平時から考えことが大切」「戦争のための法案ではない」「仕掛けられた時のための法案だ」という言葉に、国会や報道や国民など各層においてさしたる疑問や批判もないまま、「有事法制」が成立してしまいました。

 「憲法九条」との整合性は問題になるかもしれませんが、 残念ながら日本を取り巻く国際情勢を直視するとき、非武装・非暴力・無抵抗を原理とする「平和憲法」に、日本の主権と独立、およびわたくしたちの命と生活を完全に委ねることはできない、という国民的合意が形成されていることの証でしょう。

 たしかに、「平和憲法」はその成立の経緯からみても、天皇制軍国主義による侵略の歴史を重ねた大日本帝国の復活・再現を徹底的に防止するのが目的だったのでしょう。逆に日本が他国からの侵略を受け、先制攻撃に曝される危険を想定した「防衛」の観点が欠落しています。平和憲法ではそのような「異常」事態の発生を阻止するに、国際信義に基づく平和外交に全てを委ねているとも解釈できるでしょう。
 その「平和憲法」の理想・理念はこんにちも極めて重要だとわたくしどもは考えますが、しかし、日本に「攻める」意思がなければ、絶対に「攻められる」ことはない、その危険は存しないと断言できるかと問われれば、確信をもってYESと答えられる国民は極めて少ないのが現実ではないでしょうか。
 その意味で、わたくしどもは、戦後左翼や革新が主張してきた、いわゆる「絶対平和主義」に立つものではありません。日本の主権と独立、および国民の命と生活を、他国の侵略や先制攻撃や卑劣なテロから守るための、必要最小限の武力行使を含む「防衛」の必要を認めるものです。

 しかし、「防衛」の名のもとに「侵略」が正当化されるというのも歴史の事実が証すところです。集団自衛権・先制攻撃・相手国領土への攻撃・全面戦争といった戦後日本の禁忌としてきた原則が悉くうち破られた、今回の「有事法制」には、率直に申して、大きな危険が存すると言わざるを得ません。「被害者」となることを防止すると言うも逆に「加害者」となる恐れもある、少なくとも「加害者」となり得る軍事態勢である点に問題が存すると言えます。また「攻められたらどうする」と言うも、この「有事法制」によって、逆に「攻められる危険」がより強まるのではないかとも危惧されます。
 実際、アメリカによるイラク戦争のような事態がアジアで発生した場合を考えれば、そしてその先制攻撃に、日本が「有事法制」の観点から積極的に軍事協力を果たしたならば、「攻められる危険」は現実的な脅威となるでしょう。小泉首相は、このような場合も、「仕掛けられた戦争」と主張するのでしょうか。

 繰り返しますが、わたくしどもは、日本自らの戦争行為はもちろん、アメリカの先制攻撃にも一切軍事協力しないにも関わらず、一方的な侵略や先制攻撃、そして卑劣なテロを受けた場合など、真の意味で「正当防衛」と言える武力行使は、容認するに吝かではありません。
 しかし、実は日本がたとえ単独ではないにせよ、「攻められる」危険が大きい「攻め」の軍事行動を断行することによって、「攻められてしまう」事態の発生は、何としても回避すべきと考えます。また日本が国際社会から再び「侵略者」「加害者」との汚名・非難を浴びる事態も、絶対に回避すべきと考えます。

 それが、過去の辛い戦争体験をもつ日本人の平和への願いであり、心の叫びではないでしょうか。今こそ、平和の原点に立ち帰り、理性と知恵を駆使した平和政策と防衛政策――攻めることをせず、攻められる危険を減じ、万が一の他国の攻めにも「正当防衛」「専守防衛」の範囲内で対処する――を国民的課題として考え合い、話し合っていくべきではないでしょうか。





「有事法制と禁忌」 2003.6.6
  とうとう「有事関連法案」が可決・成立してしまった。今日の日付は歴史に刻まれるものとなった。破滅の危険を生じせしめた日として。

 20年以上も前から、日本は「平和憲法」に訣別して、国際紛争に軍事的に関与し得る国家体制の確立に向けて動き出した――そう状況認識を抱き拙誌や手紙などで多くの護憲平和派の有識者や政治家たちをはじめとして数多の人々に警告を発し、国民的コンセンサスの形成を成立せしめる論理と言語の構築を訴えてきたものの、こんにちに至るまで悉く無視され続け孤立無援の闘いを強いられてきた私の胸の奥底には、狂気を孕む憤りと虚無感が渦巻く。

 ほんらいは、有事法制を認めるも、<この>有事法制を承認すべきか否かという論点でこそ考察されるべきであった。<この>有事法制を求める観念や意識や感情の「本質」こそを問うべきであった。<この>有事法制を生み出すイデオロギーの「実体」こそを問い、その是非を論じ合うべきであった。

 小泉首相や<この>有事法制容認派の皆が言う「攻められたらどうする」「仕掛けられた戦争に対処するもの」「専守防衛に徹する」の言葉が現実に意味する実態と国民一般の合意となっている「正当防衛」の意味との決定的な乖離。
 「絶対平和主義」に訣別し「正当防衛」の位相に身を置く者としても到底認め難い、「全面戦争」という<破滅>への道を突き進みかねない<この>有事法制。むしろ「攻められる危険」を増大し、そして「過剰防衛」どころか「加害者」の汚名さえ被る危険の大きい<この>有事法制。

 ほんらいは、過去の歴史の反省に立ち、「平和憲法」の一方の理念を継承し、あくまで「平和国家」としての歩みを厳守するなかで、その「現実的脅威」に対峙し、「平和憲法」の他方の欠落を補完する「知恵」を考察すべきであった。

 それが為し得なかったことは、如何なる事実を証しているか?
 たとえば、一つは、<この>有事法制が是か非かと論じるべきを、有事法制が必要か否かという論点にすり替えた、有事法制容認派の巧みな詭弁術があったことを証しているだろう。

 また、一つは、その現実的立場に身を置けず、柔軟な思考を果たし得なかった「戦後護憲平和主義」の限界と陥穽がもはや致命的な地点に立ち至っていることを証している。容認派の詭弁も、左翼・革新派の人たちの「有事法制絶対否定」という立場があることによって、易々と功を奏したとも言える。

 そして、もう一つには、その「戦後平和主義・平和憲法」の理念の一つの側面――「絶対平和主義」――を破ることが<禁忌>とされてきたという事実が皮肉にも容認論の受容に大きな働きを示したと考えられるだろう。
 つまり、実は、冷静に人々の意識を観察・分析していると、積極容認派はともかく、「戦後平和主義」「平和憲法」否定・批判は、容認受容派にとって、長く<禁忌>となっており、彼らの頭と心の中で、その<禁忌>を破るか否かこそが、自分自身にとっての「合理」を証明する最大の課題となっていたことがみてとれる。
 マスコミやネットを通して知る有事法制否定派の論理と言論は、その点で、彼らに、自ら決めかねていたその<禁忌>を破る覚悟と決断を促したと言って過言ではあるまい。
 まことに皮肉なことだが、否定派の言論は、一般多数の中間派を容認論受容へと傾斜させてしまったと言える。
 その<禁忌>への是非如何こそが、己の認識と判断の正当性を明示するものであった――その一線を越えることへの逡巡と投与こそが意識の全てであった――がゆえに、結局、容認論の欺瞞と誤謬に対する批判の視点が生まれなかったのだと考えられる。
 たとえ有事法制そのものの必要性は認める――「絶対平和主義」に訣別する――も、<この>有事法制は断固として拒否しなければならないという認識、繰り返せば、有事法制必要の有無と、<この>有事法制の是非を明確に分離して、2度と再び日本が戦争加害国となるが如き戦争を絶対に引き起こさない・引き起こさせないという目的を具現化した「平和憲法」の本質を継承しつつ、「現実の脅威」に冷静にかつ有効的に対処する方法を考察し探求するという営みにまで立ち至ることができなかったのだと、私は考える。

 しかしそれにしても、この第三の問題を考えるに、戦後左翼・革新が、己の有事法制反対論の限界と陥穽を超克し得なかった事実がもたらす影響の大きさは計り知れないものが存してあると言わねばならない。
 また、いま日本人が問われている論点を明確に提示し得なかった政治とマスコミ、政治家やジャーナリストや有識者たちもまた、その存在意義を根本から疑義されるべきていたらくを露呈したと断ぜざるを得ない。

 最後にもう一度視点をかえて書いておく。私は、こうした愚純な者たちに、狂気を胸の奥底に宿した憤りをもつことを隠しはしない。


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