「日の丸・君が代問題の
    今日に於ける思想的意味とは何か?」



                      ☆2月20日(日)「日の丸・君が代問題」


この問題で、反戦平和の立場に身を置く者は、何を語るべきか?

 
 もちろん、この旗・この歌が、あの天皇制大日本帝国の植民地支配と侵略戦争の象徴となっていたがゆえに、平和憲法をいただく戦後日本にとって、国旗・国歌としてふさわしくない、ということを語らなければならない。
 その際、日本同様、過去に汚点をもつ国における事後の、国旗・国歌の扱い方如何が問題になろう――歴史は、清濁併せ持つものとして引継ぎ、民族・国歌の象徴は、一時期に限定させるべきものではない、という国旗国歌論が叫ばれよう――が、日本においては、過去の歴史に対する反省と謝罪と償いを、自ら主体的に果たしてきたとは言い難い実態が存する、という事実を対置すべきだろう。

 また、特に「君が代」は、その歌詞の内容そのものが、天皇制国家を象徴するものであって、主権在民に立つ民主主義国家のそれに抵触することを、繰り返し強調しなければならない。
 その際、これは、反天皇制の立場から主張しているのではなく、戦後日本の象徴天皇制という実態に即して考えても、「君が代」を国歌とすることは合理性がないと指摘する必要があるだろう。

 さらに、特に「君が代」が顕著だが、「日の丸・君が代」を国旗・国歌とすることについて、国民的合意が成立しているとは言い難いという実態についても、語るべきだろう。
 そこでは、自国の国旗を仰ぎ見て涙し、国歌を高らかに斉唱するには、国民の自由で自主的な感情と意志の発露が不可欠であり、国旗・国歌がまさに国民統合の象徴であり確認であるとするなら、そうした国民による、国民的合意は、その大前提となすべきことであると語る必要があるだろう。

 しかし、これらにも増して、私たちが、語らなければならないことがある。
 こんにち、日の丸・君が代問題に決着をつけ、法制化を目論んだ真相は、ガイドライン法を一例として具現化してきた「日本が再び戦争をし得る国家の体制成立」を目指す動きと密接な連関があるという事実。国家主義の土壌づくりとして、画策されたという真相について、臆せず語らなければならない。
 今回の法制化については、単に実態の形式化に過ぎないと受けとめる向きもあるが、事はそう楽観できるものではない。特に教育現場などではやはり有形無形の圧力が既にかかってきているし、今後、有事立法・憲法改悪と続くであろう時代状況の中で、この法制化は、大きな意味をもってくるだろう。

 私が、「日の丸・君が代問題」を、独立国家・独立民族にとって当然な事として受け入れることができず、心底、憂えざるを得ないのは、まさに、「護憲平和」と決別し、「戦争容認」へと急傾斜して行こうとするこんにちの状況、それを意図的に推進させて行く人々によって画策されているという事実をみるからだ。
 もちろん、そこに、より多くの素朴で善良な人々の、祖国と同胞への純粋な心情を見て取ることも可能だが、しかし、それを利用して「戦争し得る国家」作りへ暴走する権力の影響力こそ、事態の真相を露呈するものだ。

 反戦平和を志す者は、臆せず、こんにちの国旗・国歌問題が、「日本が再び戦争をし得る国家の体制成立」へ傾斜する時代状況に深く関わっていることを、繰り返し語らなければならない。
 「日の丸・君が代」は、かつて、植民地支配と侵略戦争と天皇制軍国主義のシンボルだっただけでなく、今また、新たな戦争の象徴と踏み絵となる危険が大きいと――それゆえの反対であると語る必要があるだろう。



☆2月21日(月)「国旗・国歌」

 「日の丸・君が代」に反対する際に語らなければならぬ事について確認した昨日に補足すること。

 一つは、「日の丸」については、「君が代」と異なり、それ自身には平和憲法と抵触する性格があるのではないとして、容認する向きがあるが、この問題の本質が、昨日確認したごとく、戦争前夜とも言えるこんにちの状況と深く関わっている限り、「日の丸」の国旗としての<美と観念>の卓越性を以て、今、国旗として法制化されることを容認すべきではない、ということ。
 私たちが、「日の丸」に対して抱く観念と期待する役割とは全く異なった危険な観念と役割を孕むものとして、状況に関与し定立させることを、反戦平和を志す者は認めるべきではあるまい。

 もう一つ。現実の政治的・イデオロギー的策謀に対しては、些かも妥協すべきではないとして、しかし、一方、私たちの反対が、決して、現存する国と民族が、その統合と連帯とアイデンティティーの象徴として国旗・国歌をもつことを拒否しているわけではないこと、
 また、特に日本と日本民族がその歴史の総和において国旗・国歌をもつことも拒否しているわけではないこと(そこで「日の丸」の国旗としての<美と観念>の卓越性を述べてもよいかもしれない)、
 さらに、歴史の総和において、祖国愛と同胞愛、祖国と同胞への誇りを否定するものではなく、私たちも「日の丸・君が代」を容認する人々と同じく、そうした素朴な心情を強く抱いていること、等々について、率直に、そして明快に語るべきだろう。



☆補記
上記は、「晩鐘抄録」に於いて、2001年2月に書いたものだが、「現代の思想的課題」を提示する「落葉焚火の弁」に再掲載したい。
「日の丸・君が代問題」と言うと、反対派の人々は、過去の軍国主義時代との関連で述べることが多いのだが、私は、それ以上に、こんにちの状況に於いて、「日本が再び国際的な紛争に軍事的に関与する国家体制の確立を志向している」と以前より指摘してきているが、それが今や、なし崩し的に事実先行という形で具現化してきているというまことに憂慮すべき事態となっており、「日の丸・君が代問題」も、そうした<現代状況>という位相に於いて捉え直すべき思想的課題を有する問題となっている点を、特に強調しておきたい。(02.12.11記

   
八ヶ岳高原だより 落葉焚火の弁