湧水日記:4月編


★4月29日(水)――「全体主義」

4月17日(金)の疑念についてこたえよう。
後者の批判。そもそも国民的コンセンサスを志向するという事自体、多様性を
認めず、統一に向かうものだ。民主主義の価値は、様々な異論・反論が共存し
ているところにあるのであって、それを統一化へと収斂する営みは、全体主義
以外のなにものでもない。
これに対しては、二つの点で反論できる。まず第一に、わたしの言う国民的コ
ンセンサスの形成を否定することは、言わば<能動的社会変革>を事実上不可
能にする、という点だ。たとえば、現在の日米新ガイドラインの問題。政府与
党は日本の主観としては、後方支援という形で事実上の参戦を行ない得る法案
と政策を断行しようとしている。これを阻止するために、わたしは国民的コン
センサスの形成を志向するわけだが、それが全体主義だとして否定されるなら
ば、わたしは、民意を顧慮することなく、わたしの主張を社会化するために、
それこそ、非民主的な実力行使の道を志向せざるを得なくなる。むろん、それ
は民主主義を尊重する立場にたつ者として選択できる話ではない。ならば、既
成事実および既成事実化した事実を能動的に阻止ないし変革することは不可能
となる。そして上記の場合、国民的コンセンサスの形成を全体主義として否定
することによって、結果、戦争状態を許し、それこそ戦争の中で顕著となる全
体主義を生じせしめるという矛盾をおかすことになってしまう。
また、反論の二つめは、わたしの言う国民的コンセンサスの形成は、そもそも
全体主義の特徴を有していない、という点だ。全体主義は、権力による強制的
な押しつけや一方的な洗脳を特徴とする。だが、わたしの場合、もちろん権力
ではないし、己の主張を強制的に押しつけるわけでもなければ、一方的に洗脳
するわけでもない。あくまでも、同じ国民としての対等な立場にたって、異論
・反論に真正面から応えつつ、説得を試みるだけだ。そして、国民的コンセン
サスの形成を成就したのち、異論・反論を排斥したり攻撃したり迫害したりす
ることもしない。全体主義の特徴であるそれらは、観念の統一が目的ではなく
、状況の変革が目的――それも、平和や民主主義や自由が目的――である国民
的コンセンサスの形成の志向にとって、無意味なエネルギーだ。
この最後の文節は、冒頭の批判に直接こたえる言葉にもなるだろう。国民的コ
ンセンサスの形成は、決して、観念の位相での話ではなく、あくまでも状況の
具現化を求めているものなので、観念的な全体の統一を志向しているものでは
ない。それどころか、たとえ説得と得心という在り方で国民的コンセンサスが
形成されていくにしても、それが絶対完全な真理である保証はなく、社会全体
としては、その国民的コンセンサスを批判し、否定する論理と言語が存在する
ことが望ましいという認識を担保するものだ。
それにもう一つ付言すれば、国民的コンセンサスの形成が志向するのは、統一
ではなく、統合だ。

「八ヶ岳高原だより」のトップへ




☆4月28日(火)――「周辺事態法案提出」

ついに、戦争に関与し得る国家体制の確立に向けて、現実に動き出した。周辺
事態の曖昧さ、国会承認を必要としないこと、紛争地域の曖昧さ、自衛隊の武
器使用・応戦を可能としたこと、民間に事実上の義務を負わせることなど、マ
スコミも問題視しているが、それでもまだ、捉え方が甘い。後方支援というが
、戦争当事国(敵国)からみれば、事実上の参戦であって、その場合、出動し
た自衛隊の艦船だけにとどまらず、全面的で本格的な報復攻撃も大いに懸念さ
れるという厳しい現実を直視した分析が欠落している。後方支援という言葉に
、「敵に戦争を仕掛けるわけではない・敵と戦争をする積もりなど全くない」
という主観的な観念と心情を重ねて、事の本質から目を外らしている。おまけ
に、重要法案が目白押しの今国会での成立は不可能などと解説している始末。
会期は延長できるし、かつて重要法案の一括審議・一括採決を政府自民党は行
なった例もある。常識的に事が進めば見送りになるところだろうが、決して、
油断はできない。以前、わたしは、何人かのジャーナリストや革新系の活動家
から小選挙区制は通らないと聞かされたが、事実は逆だった。また、仮に今国
会で成立しなくても、政府自民党はそれで断念するわけではない。どっちにし
ても、成立に向けていろいろ手を打ってくるだろう。目先の政局を追いかける
あまり、状況の大きな必然的な動きを見落としてしまうのはマスコミの大きな
欠点だ。事の重大性、緊急性を直視した対応が必要だ。

「八ヶ岳高原だより」のトップへ





★4月27日(月)――「モチーフ」

今日もいろいろ雑用等があって、まとまって考える時間がとれなかった。そこ
で、今、思い立っている湧水日記のための大きなモチーフ――近々に考察して
おきたい大きなモチーフ――を確認しておこう。1.マルクス主義の問題。わ
たしはなぜ、マルクス主義者にならなかったのか? 日本のマルクス主義者―
―マルクス主義を標榜するかれら――の主張のどこに同意できなかったのか。
2.ベ平連の問題。近年、政治や社会問題に関心の高い青年層にいたく評判が
悪いベ平連。社会主義の崩壊に際して噴出している社会主義批判、マルクス主
義批判とともに批判の矢面に立たされている感のあるベ平連。わたしは、かれ
らが見落としているベ平連の存在と運動が成就したもの、萌芽したものを明確
にしておこう。3.新「転向」の問題。近年目立ってきた戦後マルクス主義・
戦後民主主義と訣別した知識人たちの問題。
もちろん、現在考察中のテーマに関連して、「異論・反論との対話」とは、具
体的にどういう形なのか、「仲間内の論理と言語」とは、どういう事を指して
いるのか、についても、明確にしておかなければならない。


「八ヶ岳高原だより」のトップへ





☆4月24日(金)――「主体――反問」

わたし自身の中の他者が言う。お前は、お前自身および反体制という<主体>
と、現に権力を掌握している<主体>、多数派を形成している<主体>を分離
するが、お前自身の主張はコンセンサスの形成を志向している以上、既に権力
を掌握している立場、多数派を形成している立場と同列に考えるべきではない
か。
わたしはこたえる。それは違う。やはり実際に、権力を掌握しているわけでも
なければ、他に影響を及ぼし得る強制力を伴った諸策を断行し得る立場にもな
いという事実は、両者の<主体>の差異を明確にする。それに、15日、16
日にも考えたが、コンセンサスの形成が直ちに権力と実際的な力を有する多数
派の形成をもたらすものではない。従って、いくら志向しているからといって
現にその立場にある<主体>と同列に置くのは適切ではない。
でも、と他者は言う。権力の掌握と多数派の形成を志向する意識の問題として
は、異論・反論、少数意見に対して、やはり、将来己が権力の掌握と多数派の
形成を実現した立場にたつ者として、それを尊重する意識が必要ではないか。
わたしはこたえる。もちろん、それはそうだ。実際、できるかぎり正面から対
峙することにしている。ここでの例外の設置は、突然に向こうから飛び込んで
きた異論・反論に対して、<すべて>対応しなければいけないのかという問い
を元にしている。現実にそれを行なうことは、自分自身の時間や考察や表現活
動に多大な支障をきたすことになる。例外の設置はそれを回避するための対策
だ。それに、意識の位相で、異論・反論を排除するわけではない証として、真
実の追求という思考過程においては、ほとんど国民的コンセンサスの形成に必
要である以上の微細な論理や観念や感情にも向き合っている事実を、再度確認
しておく。





★4月23日(木)――「少数意見の抹殺か?」

先週は、生活上のトラブルで、寝不足が続いたのと、土日は、ペンションが貸
し切りということで、頭と身体の疲労が溜まったため、なかなか集中して思考
が働かず、17日・金曜日の「危険な思想か」の批判に対する弁明が遅延して
しまった。今日も、どこまで活性化するか。
国民的コンセンサスという観念は、少数意見を抹殺するファッショ的思想では
ないか――。ともかく、これにこたえよう。
この批判は、異論・反論に対峙する<主体>の問題を見落としている。つまり
、少数意見の尊重を求められ、半ば義務づけられているのは、国家社会におい
て権力を掌握している主体だ。もちろん、政府・与党という主体が、これに該
当する。また、特定の集合体の中で多数派を構成している主体も、これに該当
しているといえよう。かれらは、己の主張に同意する人々ばかりか、同意しな
い人々にも影響が及ぶような具体的施策を断行する立場にある。少数意見の尊
重が求められる所以だ。しかし、それに対して、国民的コンセンサスの形成を
求めるわたしは、そのような権力もなく、他に影響を及ぼし得る強制力を伴っ
た諸策を断行し得る立場にもない。――尤も、わたしの意志は、反体制運動全
体にも普遍化することを願っているので、その主体でも考えるべきかもしれな
いが、こたえは、同じになる。たとえば、日米新ガイドラインに反対する反体
制運動全体という<主体>で考えても、やはり、少数意見の尊重、すべての異
論・反論に対峙する義務と責任を負わされるものではないだろう。
それに、もう一つ確認しておきたいのは、異論・反論にすべて対峙するわけで
はないというのは、こちらの主張の展開に対して、批判が投げかけられたり、
無視されたりした場合の対処という問題での話だということ。つまり、己の主
張の正当性を考察するに際しては、考えられる限りの異論・反論に対峙するこ
とになる。真実の探求という位相では、コンセンサスの形成という尺度が予め
用意されているわけではない。そこでは、己の能力のおよぶかぎり、徹底した
考察が行なわれることになる。しかも、その際、自己の中の他者だけではなく
、実際に、書物や報道などで知る異論・反論、また直接の出会いの中で知る異
論・反論も、真理の探求という観点から考察されることになる。





☆4月20日(月)――「メモ」

元反体制知識人による戦後マルクス主義批判と戦後民主主義批判に対する批判の必要性。
かれらの戦後マルクス主義批判・戦後民主主義批判の心情と観念の分析の必要性。
教条主義・観念主義等の超克への志向の確認の必要性。
評価、および思考の陥穽の指摘
戦後マルクス主義批判・戦後民主主義批判の要を認めるも、転向に至らない論理の構築。





★4月19日(日)――「メモ」

主観的観念の正当性と客観的事実の不当性との差異を論証すること。





☆4月17日(金)――「危険な思想か」

昨日の弁明は、一昨日の疑問と批判にこたえたか?
それらに直接こたえずに、関連しているとはいえ、問いにないことをこたえた
のではないか?
否、わたしは、こたえるべきところでこたえている。そして、その問いの延長
上に出てくるであろう第2の問いにもこたえたということだ。



或いは、国民的コンセンサスによる社会変革の志向という思想に対する最も過
激な批判が、次のふたつかもしれない。即ち、一つは、国民的コンセンサスと
いう観念は、少数意見を抹殺するファッショ的思想ではないか、というもの。
そしてもう一つは、国民的コンセンサスの志向は、全体主義ではないか、とい
うものだ。
前者の批判。おまえは、社会変革のために国民的コンセンサスの形成を目指し
、その実現のために異論・反論と対峙するというが、その際、国民的コンセン
サスの形成に影響を及ぼさない異論・反論とは対峙しなくてもよいという例外
を認めた。それは、民主主義の重要な特徴である少数意見の否定になるのでは
ないか。反民主主義の立場にたつファッショ的思想ではないか。
後者の批判。そもそも国民的コンセンサスを志向するという事自体、多様性を
認めず、統一に向かうものだ。民主主義の価値は、様々な異論・反論が共存し
ているところにあるのであって、それを統一化へと収斂する営みは、全体主義
以外のなにものでもない。





★4月16日(木)――「有効性」

たしかに、政治の世界では、国民的コンセンサスは、必ずしも万全ではない。
消費税にせよ、住専への公的資金にせよ、結局は、選挙で、意思表示をしなけ
ればならない。しかし、それだけでも駄目だ。というのも、現在だって、消費
税反対・公的資金投入反対の意思は、ゆうに過半数を超える得票を生み出して
いる。逆に言えば、消費税推進、公的資金投入の政策を掲げる自民党は、得票
率でみると、有権者のおよそ3分の1の支持しか得られていない。これは政策
全般に対する判断としての支持だから、消費税と公的資金投入という個別の政
策に限定して支持を求めれば、3分の1の支持さえ得られていないだろう。が
、現実には、その非国民的コンセンサス政党が、ひとたび権力を握ってしまう
と、国民的コンセンサスを無視した政策を強行することができる。――結局、
この権力の横暴を止めるには、政治の実態やシステムを改めることが必要だ。
具体的には、消費税と公的資金導入の問題で、民意を受けた野党の存在、非自
民の得票のほとんどを吸収し得る政党の存在が求められる。もちろん、と同時
に、不公平な選挙制度の改正も必要だ。こうした政治の実態やシステムの変革
なしに、単に国民的コンセンサスを選挙において示しただけでは、事は済まな
い。つまり、国民的コンセンサスを効果あらしめるには、選挙において、国民
的コンセンサスを政治的な力となす政治の実態とシステムが、不可欠だ。それ
なくば、国民的コンセンサスが存在しても、社会変革は成就し得ない。
 この事実は、正に、国民的コンセンサスの有効性を、疑わしめることではな
いか。
この主張は、一面の真理を含んでいる。だが、ここで明らかになるのは、あく
までも、国民的コンセンサスだけでは解決しない問題もあるということだ。他
の条件が必要になる場合もあるということだ。言わば、国民的コンセンサスは
万能ではないということを示しているに過ぎない。つまり、万能ではないこと
の証明は、無効の証明にはならないということだ。たとえ、国民的コンセンサ
スの力に限界があるとしても、それゆえに、国民的コンセンサスが不要だとい
うことにはならないはずだ。
実際、先の問題にしても、国民的コンセンサスを政治的な力となす上で必要な
適切な政治の実態やシステムが現実化しても、そもそも消費税廃止・公的資金
投入反対の国民的コンセンサスが存在しなければ、政治は、些かも動きはすま
い。また、その適切な政治の実態やシステムを現実化する上で、それこそ国民
的コンセンサスは不可欠だろう。民意を反映した政党の存在と公正な選挙制度
を求める明確で強い国民的なコンセンサスがあってこそ、はじめて現実の政治
は形をとる可能性をもつことになる。なるほど、現象面だけをみれば、国民的
コンセンサスは、社会変革を成就する上で、全く無力のようにみえるが、その
閉塞状況を打ち破るのも、やはり、ほかならぬ国民的コンセンサスだ。





☆4月15日(水)――「続・国民的コンセンサスの不要論」

国民的コンセンサスの形成を必要不可欠とするわたしに対して、わたしの中の
別な他者が、またまた国民的コンセンサス不要論を唱える。
おまえは、真の社会変革実現のために、国民的コンセンサスが必要不可欠だと
言うが、では、そうして形成を志向して作り上げたその国民的コンセンサスは
、本当に、社会変革をもたらすだろうか?
現実政治をみればすぐ分かることだが、国民的コンセンサスは、屡々、権力に
よって、無視される。最近では、消費税の問題がそうだし、住専への公的資金
投入の問題がそうだ。国民の大多数の人が、消費税の導入とその後の税率引上
げ、および乱脈経営によって破綻した住専への公的資金の投入に対して、ほと
んど怒りを伴った強く明確な意思をかなりの長期にわたって示したにもかかわ
らず、権力は、政策を些かも変更しなかった。民意は、全く踏みにじられたで
はないか。この事実は、社会変革を成就する上で、国民的コンセンサスが如何
に無力かを証すものだ。そのように無力で役立たずな国民的コンセンサスは、
あっても仕方のないものではないか。国民的コンセンサスの形成は、不要では
ないか。国民的コンセンサスの形成を志向することは、無意味ではないか。





☆4月14日(火)――「革命的方法」

昨日の最後の問い――テーゼの社会的定立を求めたとしても、国民的コンセン
サスの形成を志向する必要はないのではないか――に、答えよう。
たとえ、国民の2割の力の結集があれば、社会変革が可能だとしても、それで
良いということにはならない。たしかに、7大テーゼについて、社会変革は目
的ではあるが、それと同じくらい、どのような形で社会変革を行なうのか、と
いう事も重要だ。社会変革がどのような形で成就されるのか、という事もテー
ゼの社会的定立如何と同様に、本質的な問題だ。
2割の力の結集というが、その時、残りの8割の国民の意志は、どうなってし
まうのか。その大多数の国民の意識や観念にこたえず一方的に無視して、己の
主張を、言わば<実力行使>で強制的に社会的に既成事実化するという、この
、<革命的>方法によって、事を社会化しようとすることは、やはり、民主主
義に悖る危険な営みではないか。
それに、2割の力の結集によって、社会変革が可能になったとしても、大多数
の国民の理解と共感を得ずに強行されるかぎり、個々の人間ひとりびとりの心
を変革したことには勿論ならないし、それは、当のテーゼを、本当に社会に根
づくことにも至らしめないだろう。
つまり、真に民主主義に即し、また、個人の精神を尊重し、ひとりびとりの理
解と共感を求め、確固として社会に定着する社会変革を志向するならば、国民
的コンセンサスの形成は、やはり不可欠だ。





☆4月13日(月)――「反問」

6日から考察してきた問題は一段落をむかえた。
わたしは、七大テーゼを中心に執筆活動や言論活動を行なっていく決意を新た
にした。その際、国民的コンセンサスの形成を目標に据えた。その国民的コン
センサスの形成の成就のためには、異論・反論との対峙が必要であると確認し
た。さらに、異論・反論との対峙の実践は、仲間内の論理と言語の構築、仲間
内の意見表明と相互理解の営みに閉塞することからの脱却を求めるものである
ことを確認した。
ここで、わたしの中のネガティブな他者が混ぜっ返す。
仲間内の論理と言語の構築、仲間内の意見表明と相互理解の営みに閉塞してい
ても構わないじゃないか、と。
この反論は、すでに再考したことじゃないか、と私。
それに対する彼の言はこうだ。仲間内の論理と言語の構築、仲間内の意見表明
と相互理解の営みがいけないのは、異論・反論と対峙しないために、異論・反
論を説得できないからということで、異論・反論の説得の必要ということが前
提になっている。ところが、そもそも異論・反論を説得することが絶対必要不
可欠なのか。異論・反論を説得しなくても、異論・反論と対峙しなくても構わ
ないじゃないか。
異論・反論をそのままにしておけば、こちらの主張や認識が国民的コンセンサ
スとなることは不可能だ。異論・反論の説得は、国民的コンセンサスの形成の
ために必要だと最初に確認してあることだ、と私。
それに対して彼は、また反撃する。すべては、国民的コンセンサスの形成が必
要だとの前提に立っているが、そもそも、その国民的コンセンサスの形成は、
本当に、必要なのか、と。
勿論、わたしは、七大テーゼを社会的に定立させるためには、国民的コンセン
サスの形成は、不可欠だと答える。
最後に、彼は言う。国民的コンセンサスの形成がなくとも、社会変革は可能で
はないか。2割程度の国民の力の結集があれば、世の中の雰囲気はがらっと変
わり、テーゼの社会的定立は可能になるのではないか。従って、テーゼの社会
的定立のために国民的コンセンサスが必要不可欠との認識は、間違っているの
ではないか。たとえ、テーゼの社会的定立を求めたとしても、国民的コンセン
サスの形成を志向する必要はないのではないか、と。





★4月12日(日)――「補足」

仲間内の認識と行動について、今度は、補足を。
<仲間内での意見表明と相互理解だ。現実には、異論・反論の立場にある者の
前に出なくなることが問題なのだ。仲間内だけで納得し合って他者への働きか
けを怠ってしまうことが問題なのだ。>
ここでは、わたしが問題にしている事柄については異論はないだろう。確認し
ておきたいのは、仲間内での意見表明と相互理解のやりとりそれ自体が、異論
・反論の立場にある者の前に出なくなる事態を生み出す傾向をもつということ
だ。仲間内だけで納得し合って他者への働きかけを怠ってしまう事態を引き起
こす傾向をもつということだ。もちろん、仲間内での意見表明と相互理解のや
りとりがそのような危険をはらんでいるからといって、直ちに否定されるべき
ではないことは、前日に確認したとおりだ。それを踏まえた上で言うなら、や
はり仲間内での意見表明と相互理解のやりとりには、たえず運動を閉塞させる
危険が伴うことを自覚しておくべきだろう。人は、だれでも、己の発言に異を
唱えられるより、共感と同意を得られることのほうに心が安んじるものだ。そ
の温もりは、敢えて、厳しく冷たい外気に飛び出す覚悟と意欲を削ぎかねない
ものだ。――もう一つ。仲間内での意見表明と相互理解のやりとりは、己の主
張と認識の正当性に過大な評価を与えて独善に陥るだけではなく、その有効性
にも、過大な評価を与えて、状況判断を誤ることも起こりがちだ。己の主張と
認識が、常に<他者>の同意を得て仲間内で<一般化>することから、己の外
界に対してもそのように働くものと錯覚し、或いは、己の外界もそのように動
いているものと錯覚し、外界との差異を見落としてしまいがちだ。
この状況判断の誤りは、事態を楽観視すること、悲観視すること、いずれにも
起こり得ることだ。つまり、客観的な状況認識ができず、主観的な状況認識が
勝ってしまうということだ。
仲間内での意見表明と相互理解のやりとりには、こうした陥穽があることもし
かと認識しておかなければならない。





☆4月11日(土)――「再考」

書斎の前の辛夷が一斉に花開いた。植樹してから10年以上もたっているが、昨
年まではほとんど花を咲かせなかった。枝を間引きしたのが良かったのだろうか。
母は、根元に生ごみを肥料として埋め込んだのが良かったと言う。たぶん、その
両方なのだろう。雲一つない青空にくっきり白い花が浮かび上がる様は、とても
美しく華やかだ。微風に小さく揺れる姿がまた可憐だ。

昨日の、仲間内の認識と行動についての再考を。
<問題は、その仲間内の論理と言語のままで異論・反論の立場にある者の前に
出てしまうことだ。他者の前で共同主観を露呈してしまうことが問題なのだ。>
と書いたが、本当に、仲間内の認識を構築した時点で異論・反論の立場にある者
たちの前に出ることは問題なのか? 自己検証の意識を宿していればいいのでは
ないか? ――この答えは、やはり、ノーだ。8日にも書いたとおり、異論・反
論との対峙のまさにその一刻一刻に、自己検証を果たさなければならないわけで、
これは実際問題として、不可能だ。異論・反論の立場にある人が同様に自己検証
を率直に行なう意識を明確に有していればともかく、一般的には、日本人の場合、
異論・反論に対する事は即ち敵に対する事になってしまうので、ただひたすら攻
撃に走ることになりがちだ。共に真理に到達せんと他者の論理と言語もその媒介
として認知するのではなく、口汚い罵声を浴びせて敵を糾弾することに血道をあ
げることになりがちだ。もはや、それは対話でないことはもちろん、論争ですら
ない。醜悪な喧嘩だ。そういう異論・反論の立場にある者たちとのやりとりの真
っ只中で、こちらだけが、自己検証を行なうことは、よほどの寛容の精神の持ち
主でない限り不可能だろう。その自己検証の欠如は、多くの一般的な異論・反論
の立場にある人たちとの関係において必要な、その異論・反論にじゅうぶんに対
応した柔軟で緻密な論理と言語の構築を不可能にしてしまう。
そして、その適切な認識の欠落は、単に認識上の弊害を意味するだけではない。
例の愚劣な敵対者としての異論・反論の立場にある者たちへの説得はともかく、
より多くの異論・反論の立場にある人たちを実際に説得する上で、決定的な壁と
なるはずだ。異論・反論にじゅうぶんに対応した柔軟で緻密な論理と言語を未構
築のまま、単に、こちらの主観的な論理と言語を一方的に主張するだけでは、彼
らの頭と心に届きはしない。彼らの内的思考と本心に無理なく絡まなければ、説
得は不可能だ。適切な認識の欠如は、異論・反論の立場にある人たちへの説得を、
ほとんど不可能にする。
――以上を逆に展開すれば、こうなる。説得を可能にするには、異論・反論の立
場にある人たちの内的思考と本心にじゅうぶんに対応した柔軟で緻密な論理と言
語の構築が必要だ。その適切な認識を得るためには自己検証が欠かせない。その
自己検証は、異論・反論の立場にある人たち・者たちの批判や攻撃の中で実行す
るのは、事実上ムリだ。彼らの前に出ていく以前に、自己検証を――自ら、異論
・反論との対峙を――実践する必要がある。つまり、仲間内の論理と言語を構築
した時点で、自己の論説や思想の終結としてはいけない。そこに留まって、異論
・反論の立場にある人たちの前に出ること、己の閉ざされた共同主観を自己主張
することは、問題だ。





★4月10日(金)――「仲間内の認識と行動」

昨日は、異論・反論との対峙について、例外となすべき事例を考えた。いくら
それが必要だからといって、如何なる場合にも、異論・反論と対峙しなければ
ならないというものではない。回避しても良い場合も現実には存する。わたし
は、特に自己の論説や思想の形成に際して、ついすべての異論・反論に対峙し
てしまいがちなので、この点は、明確に認識しておく必要がある。時間の浪費
と、思考労力の浪費は、絶対に避けなければならぬ。

ところで、異論・反論との対峙とは、他のどういう在り方を批判するものだろ
うか。――仲間内の論理と言語の構築、および仲間内での意見表明と相互理解
だ。もちろん、このふたつともそれ自体が間違っているわけではない。同士の
共通論理と共通言語を構築することは、問題の骨格を速やかに捉える上で有効
だ。また同士の連帯と絆を深めることも、ほんらい、闘いの中で、孤独と焦り
と挫折を乗り越える上で大切だ。問題は、その仲間内の論理と言語のままで異
論・反論の立場にある者の前に出てしまうことだ。他者の前で共同主観を露呈
してしまうことが問題なのだ。また、そもそも、現実には、異論・反論の立場
にある者の前に出なくなることが問題なのだ。仲間内だけで納得し合って他者
への働きかけを怠ってしまうことが問題なのだ。
それでは、異論・反論の立場にある者たちを説得することはできない。つまり
は、国民的コンセンサスの形成を成就することは、不可能だ。やはり、異論・
反論との対峙を果たして、閉塞状況を打破しなければならぬ。





☆4月9日(木)――「異論・反論との対峙――例外」

自己の論説や思想の形成と確立に際して、また他者への働きかけに際して、異
論・反論との対峙が必要なことは確認したが、それでは、異論・反論のすべて
と対峙しなければならないのか。――答えはノーだ。
まず、その異論・反論が、国民的コンセンサスを形成する上で、ほとんど意味
を持たない場合には、対峙しなくてもよいだろう。つまり、その異論・反論を
説得しなくても、特定の問題に関するわたしの論説・思想・立場が国民的コン
センサスを形成し得る場合だ。
また、その異論・反論の立場にある人が、自己検証を全く行なわない場合も対
峙しなくてもよいだろう。己は絶対に正しく、他者は絶対に間違っているとの
意識から、他者を一方的に批判し裁くような場合だ。<私は、彼の文章を正確
に読解しただろうか。その真意を正当に受け止めただろうか。私の意志と思考
と判断に間違いはないだろうか? 彼の意志と思考と判断に正当性はないだろ
うか?>という内省的問いが欠如している異論・反論の立場にある者との対峙
は、回避すべきだ。
さらに、これに関連するが、人間としての礼節を弁えない異論・反論の立場に
ある者との対峙も必要あるまい。著しく感情的で、口汚い、非難・悪罵・中傷
の言葉を連ねる場合だ。人格攻撃・人身攻撃を浴びせる人物との対峙は回避し
たほうがよいだろう。
これらにいちいち対応することは、国民的コンセンサスの形成のための異論・
反論との対峙・対話という主旨から言って、時間の浪費だ。尤も、第2・第3
の論点の場合は、その人物の愚劣さとは別に、その異論・反論には、国民的コ
ンセンサスの形成という観点から、無視し得ぬ意見も含まれている可能性もあ
るかもしれないので、その点は冷静に対応することが大切だ。わたし自身とし
ては、自己の論説や思想の形成と確立に際して、また他者への働きかけに際し
て、その異論・反論と対峙する必要があるだろう。が、その場合でも、実際の
、特定の人物と対峙することは、やはり時間の浪費になるので、回避するほう
が賢明だ。





★4月8日(水)――「異論・反論との対峙」

異論・反論との対峙が必要だとして、それは、自己の論説や思想の形成と確立
に際して行なわれるだけでよいか。つまり、異論・反論と対峙し、あるいは一
部を受け入れた己の論理と言語の構築、またあるいは、異論・反論に対応した
説得の論理と言語の構築を果たしただけでよいのか。換言すれば、異論・反論
を折り込み済みの己は、そののち、実際に、異論・反論の立場にある人たちと
接触をする必要がないのか、という問題だ。コンセンサスの形成を成就する論
理と言語の構築をなした者が、現実の異論・反論の立場にある人たちに働きか
けを行なわずに、実際に、コンセンサスの形成を成就できるだろうか。この答
えはもちろんノーだ。ただ、特に異論・反論の立場にある人たちに限定して働
きかけを行なわなくても、「高原だより」に発表することによって、不特定多
数に働きかけをすることになり、そこで事実上、異論・反論の立場にある人た
ちにも働きかけを行なうことにはなるだろう。が、そこにとどまっては、特定
の個人の実存への働きかけは欠如することになってしまう。やはり、現実にお
ける異論・反論の立場にある特定の個人との対峙も必要だろう。
――では、逆に、自己の論説や思想の形成と確立に際して、異論・反論との対
峙は必要ないか。自己主張を即自的に自己完結させて、他者の前に立つだけで
よいか。――、この答えも、ノーだ。この方法だと、異論・反論の立場にある
人との対峙、異論・反論との対峙のまさにその瞬間に、同時に自己検証を行な
わなければならなくなるが、それは殆ど不可能だ。いわんや、異論・反論の立
場にある人を説得するのは尚更だ。それに、自己の論説や思想の形成と確立に
際して異論・反論との対峙を行なわないと、単に観念的な主張にとどまらず、
独善的で教条的な自己主張に傾く危険が存してあろう。その意味でも、自己の
論説や思想の形成と確立に際して、異論・反論との対峙は絶対必要だ。





☆4月7日(火)――「国民的コンセンサスの形成」

わたしは、7大テーゼを志として抱き、執筆活動を再開しよう。
その際、わたしは、自己主張を展開する者として、闘う者として何を実現目標
となすべきか。
それは言うまでもなく、国民的コンセンサスの形成だ。この国民的コンセンサ
スとは、文字通り、国民的規模の達成を期するばかりではない。それを最終的
に実現する第一歩として、一人の他者とのコンセンサスの形成を期するもので
なければならない。つまり、特定の個人との対話を尊重するということだ。国
民的コンセンサスの形成を求めることは、当然、個とのコンセンサスを前提に
しているものの、実は、特定の個人との対話を軽視することもありがちだ。all
になってしまい、evryではないのだ。あるいは、国民一般を対象とし、個の実
存とは対峙しないともいえる。この陥穽に陥らないように注意しなければなら
ない。
ところで、このふたつの意味で国民的コンセンサスの形成を成就するために、
わたしは何を課題とすべきか。
もちろん、異論・反論との対話だ。自己の論説や思想の形成と確立に際して、
異論・反論との対峙を心がけることだ。





★4月6日(月)――「七大テーゼ」

長く休刊してしまっていた「八ヶ岳高原だより」を復活させた。一応、「ジャ
ーナリズム論」は、1ヶ月程前に発表しているが、これは以前の執筆なので、
新規に執筆という点でいえば、この「湧水日記」が、再出発となる。この休刊
の間も、わたし自身の生き方や志は変わっていない。プロフィールにも書いて
いるとおり、わたしは、改めて、わたしの7大テーゼを志向しよう。
7大テーゼ――。平和と民主主義。愛と美と真実。そして自由と正義。
――これらへの想いは、今日も熱いものがある。
平和――。日米新ガイドライン(本当は、ワーマニュアル<戦争の手引書>だ
そうだ)の具現化が懸念される状況になってきた。日本が再び戦争に関与する
国家体制の確立に向けて、今わが国は具体的に動き出しているのだ。それも全
くと言っていいほど、政治の場でも、マスコミでも、論議されることなしにだ。
わたしは、「危機」の存在を証し、そこから脱却する平和への道を確立するこ
とに微力を尽くしたい。
民主主義――。すでに、小選挙区制が導入されて、自民党一党支配は現実のも
のとなっている。得票数と議席率の乖離は、心配されたとおり甚だひどいもの
になっている。二大政党制による健全な政権交代など夢のまた夢の話となって
しまった。そして、平和の危機が迫り来る時、この小選挙区制は、そのファッ
ショ性を剥き出しにすることになろう。その廃止に向けて、闘いは継続されな
ければならない。
愛――。現代社会において愛は不毛と化したのだろうか。こんにちの教育の崩
壊は、結局のところ、愛の欠如を物語るものではないか。わたしは、愛の重要
性と愛の本質を証したい。
美――。藝術の美とともに、自然・風景の美、環境の美を、わたしは求めたい
。オゾン層の破壊、ダイオキシン、エルニーニョと、わたしたち人間は、地球
を汚し、壊し続けている。今や事態は深刻だ。
真実――。南京大虐殺といい、従軍慰安婦といい、歴史の真実をねじ曲げよう
とする動きが無視できないものとなってきた。わたしは、真実を尊び、真実の
前に頭を垂れることによってのみ、祖国の救済と未来は成就することを強く訴
えたい。
自由――。自由は何よりも、無自覚的にすりこまれた己の精神の内奥に存する
偏見や固定観念や先入観などからの解放を成就するものでなければならない。
そしてわが内なる世界の自由と共に、外なる世界の自由をも成就するものでな
ければならない。また、自己の自由と他者の自由の調和を成就するものでなけ
ればならない。
正義――。この社会には、不当に差別され抑圧され虐げられている人々がいる
。人間の尊厳をおかされている人々がいる。わたしは、そうした人々と連帯し、
共に闘いたいと願う。





☆4月5日(日)――「誕生日」

今日は、52回目の誕生日だ。一昨年の誕生日、ついに50の大台にのってし
まった時、己の人生の残り時間を考えざるを得なかった。その残り時間は、今
日、あの時よりさらにまた大きく減じてしまったわけだ。その事実を改めて、
直視しなければならない。
だが、焦って事をなそうとしても、いろいろな意味で、良い結果は得られない
だろうから、冷静沈着に平常心を失わずに歩むほかあるまい。ただ良い意味で
の緊張感は常に抱いているべきだろう。残り時間を自覚した適切な行動をなさ
なければならない。時間を浪費してはいけない。その事は、肝に銘じなければ
ならぬ。

バッハの「マタイ受難曲」を聴きながら……





「八ヶ岳高原だより」のトップへ