「絶対平和主義」と私・上


12/25 (水)

 「絶対平和主義」――如何なる理由があろうと、如何なる事情があろうと、全ての戦争を容認することなく、<絶対に>戦争反対を貫く考えと信念を抱いた思想……。たとえ侵略を受けても、「無抵抗主義」を貫き、武力を以て対抗しない……。これを定義とするならば、正直に言って、私は、「絶対平和主義者」とは言えないだろう。
 つまり、私は、時と場合によっては、戦争を容認することも有り得る者だ。

 ただし、早合点されると困るのだが、だからと言って、そう安易に戦争を容認するわけではないし、実際、肯定できる戦争など、殆ど皆無に近いという認識を同時に抱いてもいる。

 少年期から青年期にかけての相当の時期、私は、たしかに、「絶対平和主義者」だったかもしれない。というより、己の意識としては、「絶対戦争否定主義者」と表現したほうが当たっているような気がする。とにかく、「戦争絶対反対!」を主張する若者だったことは事実だ。
 それが、今、なぜ? 
 この「日本が再び国際的な武力紛争に軍事的に関与し得る国家体制の確立」を志向し、急速にそれを具現しつつあり、かつ既成事実が先行して、実際に、事実上の「参戦」を果たそうとしつつある今この時に、「絶対平和主義者」でなくなってしまっているのは何故か?

 実は長い間、私の心を悩ませ、思考を煩わせていた事が存する。
 「絶対平和主義」が先のような<定義>だとすれば、たとえば、第二次世界大戦に於けるドイツ・ヒットラーや、イタリア・ムッソリーニなど独裁者およびファシズムに抵抗したいわゆるレジスタンスの武力闘争はどうなってしまうのか?
 また、日本の中国侵略や「韓国併合」という名の植民地支配に対する「抗日戦線」などの抵抗運動は否定されるべきものとなってしまうのか?
 「絶対平和主義」からみれば、明らかに抑圧された側、侵略された側、被害者の側の抵抗運動も、それが武力による闘争である限りに於いて、「否」とされるべきものなのか?

 その後の私の国家権力というものに対する認識、独裁者に対する認識、ファシズムに対する認識――その実態とそれを生み出す要素条件等に於ける絶望的な執拗さに於いて――は、或いはナチズムとの、また或いは天皇制軍国主義との、民主的な話し合い、合理的な解決など全く有り得なかったという結論に至る。文献やニュース報道等で詳細に実態を知れば知るほど、ファシスト・ファシズムとの「和平」など机上の空論に過ぎないと思わざるを得なかった。実は、この認識自体はかなり若い頃から抱いていたものだが、問題は、「絶対平和主義」が否定している「戦争」には、こうしたファシスト・ファシズムに対する武力による抵抗闘争は該当しないものと、自身漠然と理解していたというのが実態だ。従って、一方で、レジスタンスの闘いを描いた映画に感動し、その一方で、「戦争絶対反対!」を声高に唱えることが可能だった。それは己の心中には矛盾は存しなかった。

 だが、こんにち、「テロ」に対する主権国家としての正当な「報復攻撃」の<権利>すら認めない――私がここで指摘しているのは<権利>であって、アメリカのブッシュによるその行使の仕方の是非如何はまた別な問題だ――立場の人たちが存する事実をみるとき、「絶対平和主義」の<定義>が、己のそれとは大きく異なるのを認めざるを得ないし、より言葉の実体に即しているかと言えば、それは私よりもむしろ彼らの方だろう。

 ただ一つここで思うのは、彼らのテロリスト・テロリズムに対するアメリカの報復攻撃への批判には、小国対大国という問題意識がそこに存するゆえの事なのだろうか、またもう一つ、元々、テロリスト・テロリズムを生み出す元凶こそアメリカ自身だという問題意識が存するゆえの事だろうか。もしそうであるとすれば、その問題意識の是非如何についてはまた考察が必要だと私は考えているが、先の大戦時に於けるドイツ・ナチズムやイタリア・ファシズム、そして天皇制軍国主義にみられる明らかなる「侵略」に対して、「武力闘争」を以て対向したり、テロに対して、主観国家が「報復」の<権利>を有する事などに於いてはコンセンサスが形成され得ることになるのだが。

 しかし、先の構図が存するのは事実としても、やはり、一般に「絶対平和主義」を唱える人たちは、結局<無抵抗主義>の立場にたっているものと思われる。
 戦後長い間、この「絶対平和主義」を唱えていた日本社会党は多くの国民に支持されてきたが、その支持の根拠にこの原理が強く存していたのは間違いないだろう。
 その国民意識もまた、私と同様、こんにちでは、相当数の人々が<自衛のための戦争>は容認するに至っている。国民の多くは、戦後、「戦争」を考える際、過去の日本の「侵略戦争」をまず思い浮かべ、日本が加害者となった罪悪感から、その贖罪の意味を込めて、「戦争絶対反対・絶対平和主義」を支持していたと考えられるのではないか。そこに於ける<良心>はしかし、侵略された側の立場からみて、「戦争」がどのように映っているか、特に「レジスタンス」や「抗日戦線」そしてノルマンディーに象徴される「連合軍」等による戦闘行為が、侵略と独裁からの解放をもたらす歓喜の叫びを上げるものであった――、そうした視点が欠落していたというか、その事を真正面から考えてみなかったと言ったほうがいいだろう。こうして戦後日本の「絶対平和主義」は形成されてきたのである。
 しかし、いくら日本自身が平和を望んだとしても、戦争の<脅威>というものが極めて現実的に存在するらしいことが明らかになってきた今、「無抵抗主義」を唱える「絶対平和主義」は、心情として、容易には受け入れ難いものがあるだろう。早い話、あのベトナム戦争に於いても、ベトコンや北ベトナムがアメリカの侵略に対して、武力闘争を以て自衛に徹したからこそ、解放と独立と主権を厳守することができたのではなかったか。

 こうしたことを考えるがゆえに、私は、今、「無抵抗主義」を前提にした「絶対平和主義」を唱えることはできなくなっている。
 たしかに、「無抵抗主義」も、案外、強いものかもしれない。最後に勝つのは「無抵抗主義」を貫いた側かもしれない。――しかし、余りにも犠牲が大き過ぎる。核と化学兵器と生物兵器といった大量殺戮が可能となってきたこんにちの時代に於いて、その犠牲の大きさは計り知れない。もちろん、武力闘争もまた大きな犠牲をともなうだろう。が、同じ犠牲をもたらすなら、侵略者・殺戮者の思いのままにさせるのではなく、徹底的に抵抗しそして撃退することを求めるほうに、心情は傾く。

 さて、ここまで書いてきたが、私のこの「晩鐘抄録」をはじめとした「八ヶ岳高原だより」を読んで下さっている方には、私があちこちで強調している「反戦平和」の志に、矛盾するように思われるかもしれない。
 ――実は、ここまでは、いわば「思想」を語ってきたのだ。私が、「戦争」といわれる実態にどう向き合うのか、特に「侵略」とか「テロ」といった「罪悪」にどう対処する哲学をもっているのか……、それを語ってきたわけだ。



    「絶対平和主義」と私・下


12/26 (木)

 「反戦平和」を唱える私が、しかし、一方で「絶対平和主義者」ではないと語るのは、矛盾しているだろうか――。
 勿論、私の立場から言えば、矛盾していないと考えている。むしろ、こんにち問題を複雑にしているのは、「反戦平和」を熱心に主張する人々の殆どが「絶対平和主義」の立場にたっており、逆に「絶対平和主義者」ではない人々の多くが、こんにちの実態に対して、「反戦平和」を唱えず、容認ないし黙認に傾いていることだと、私は考える。
 つまり、「絶対平和主義者」ではなくても、こんにちの実態に対しては、「反戦平和」の立場にたつべきだというのが私の考えだ。
 だが、もう少し実態の分析ではなく、思想的位相に於いて、「絶対平和主義」の問題を語ってみたい。

 私が「絶対平和主義者」ではないことは、たしかにそのとおりだ。こうして何度も書きながら、自分自身、「それでいいんだ」と再確認してもいる。
 しかし、「絶対平和主義」ではないということは、たしかに、憲法にうたわれている「国際紛争に於いて、武力による解決は放棄する」とする「戦争放棄・武力放棄」に抵触するだろう。自衛のための武力行使・戦争まで否定していない――そう解釈する人々がいるが、憲法全体に込められている思想から導き出すに、それはやはり詭弁というものだろう。なぜなら、日本の「戦争放棄・武力放棄」の宣言が、自衛のための武力行使・戦争を否定するものでないとしたら、逆に日本以外の諸外国の憲法に於いて、「戦争放棄・武力放棄」を宣言していないことは、自衛のための武力行使・戦争を肯定するのみならず、自衛とは言えない先制攻撃や宣戦布告を容認している憲法だということになってしまう。もちろん、「侵略」や他国の主権や独立権を一方的に侵害することを宣言する憲法を、フランスやスウェーデンやスイスなど諸外国が掲げているとは到底思えない。
 そう考えてみれば、日本の憲法が「絶対平和主義」を唱えていることは明らかではないかと私は考える。

 となれば、私の今の立場は、「護憲平和主義」ではないことになり、たとえば、民主党の若手などを中心にして台頭しつつある「改憲論」に立つ「現実主義者」と同じもののようにみえてくる。
 たしかに、思想潮流の展開といった観点でみるとき、今、「絶対平和主義」を唱えることに、むしろ感情面では同意したくとも、思考上に於いて、懐疑的になる――そうした意識・思考の論理が生まれてきてる時代なのかもしれない。
 だが、結論から言えば、私は、そうした「現実主義派」の人々の、まさに「現実」への対応には、殆ど全面的に反対の立場を取る。率直に言って、そうした「現実主義」の台頭は大衆受けするという点で、大変危険だと懸念しているのだ。

 実を言えば、私は、自身の立場を、「絶対平和主義者」ではなくとも、「平和主義者」だと自己認識している。いわば、限りなく「絶対平和主義」の立場に近い「平和主義」の立場に立つ者だと、私自身考えている。
 その私自身に於ける「平和主義」とは如何なるものか?

 再三認めるように、私は、現在「絶対平和主義者」とは言えない者だ。つまり、時と場合によっては、武力行使も「戦争」と呼ばれる軍事行動も容認する。 
 だが、実を言えば、それは、あくまで、<極限状態>に至っても、なお「絶対平和主義」を貫徹するという立場を放棄する――こういう意味に他ならない。ここで私の言う<極限状態>とは、日本の「主権と独立」が侵犯される場合のことだ。換言すれば、直接、日本の領空・領土・領海を侵略される状態だ。この場合に限って、私は、武力行使と戦争と呼ばれる軍事的解決を容認するというわけだ。逆に言えば、それ以外の状況では、私は、「反戦平和」の立場を取ることになる。

 また、その<極限状態>に至るまでは、徹底した「平和主義」の外交・国策を以て日々精進すべきだと私は考えている。その点では、現在の「平和憲法」に於ける国際平和希求への理念と原理を完全に承認し、その成就に最大限の努力を、政治も経済も、マスコミも、そして一般国民の意識と意志に於いても、果たすべきだと私は考える。
 60年安保でも、ベトナム戦争でも、70年安保でも、「護憲平和」の旗を掲げて憲法厳守の闘いに立ち上がったたくさんの人々がいたし、政府与党も、その折々にふれて、「憲法」に抵触しないかどうか、彼らなりに検討するといった形では、「平和憲法」は戦後、一定の役割を果たしてきたとは言えるだろう。
 だが、一歩も二歩も進んで、「憲法の理念」を自ら積極的に具現化する政治や経済等の活動を行ってきたと言えるかと問えば、殆どの人々は首肯できないはずだ。NGO等民間の活動にその「芽」を見ることは可能だが、肝心の国家としての、社会としての有りように、その「証」を認めることはできない。
 その点では、現在の国際政治の舞台での活動の有りようも重要だ。国際紛争の当事者たちに和解をもたらすための役割、難民救済、戦後復興など、戦争回避と戦争終結と戦後復興の面で、果たして日本はどれほどの「国際貢献」をしてきただろうか。
 尤も、この面では日本とて全く「対岸の火」として完全黙視・傍観してきたわけではないようだ。それなりの関与を行ってきたようだし、直接その任務につかれた人たちの努力には頭が下がるほどのものがある。それはここで確認しておきたい。だが、それを以てしても、「平和憲法」の理念を積極的に成就すべく国家として最大限の尽力を果たしてきたとは到底言えないだろう。――こうした問題の具体的な個々については、これからも「晩鐘抄録」に於いて触れていくことになるだろう。
 如何に最終的な<極限状態>に於いては軍事的解決もやむなしと覚悟しても、もちろん、好んで戦争を求めるわけではないし、「主権と独立」を守る正義・善であるからとして願望・期待するわけでもない。あくまでも、日々の国家の営み、社会の営みに於いては、平和を希求した政策・活動を最大限に積極的に実践しなければならぬ。
 日本自身の主観に於いてではなく、文字通り国際社会――とりわけ過去の歴史に於いて日本の被害国となった国々――から、それこそ憲法に言う、「国際的に名誉ある地位」を得たごとく、真の「平和国家」として理解され、尊敬される国家社会の営みを成就することが絶対条件だ。

 また、私の「平和主義」に於いては、具体的な問題の位相で言えば、なんと言っても、日本とと日本人は、国家として、社会として、国民として、「過去の歴史」を<超克>し得たと断言できるか――、この問いを発せねばならない。
 日本が「平和憲法」の成就に向けて、真に「平和国家」として自主的かつ積極的に歩んできたか否かは、「過去の歴史」を<超克>し得たか否か、つまり、「過去の歴史」を日本の側によって形成させてしまった諸々の条件・要素を、こんにちの日本に於いて、例外があっても社会的には殆ど問題とはならない程度に、一掃したと認められるだろうか、という問題だ。
 ――本当に、日本は、再び、日本が「加害者」となる戦争を絶対に起こさないと証し得ているだろうか。過去の「天皇制軍国主義」「大日本帝国主義」の再来を考えれば、その可能性はこんにち小さいと言えるかもしれない。
 だが、事を、「日本が加害者」となる戦争と視点を変えてみれば、その危険が皆無と言えるほど、日本と日本人は、過去の歴史をもたらした諸条件・諸要素――その思想・観念・意識・感情・感性・知識等々の面を検証することが重要だ――を精算し得たかとなると、日本人のひとりとして誠に残念だが、「否」と言わざるを得ない。

 実際、過去の<超克>どころか、昨今、「南京大虐殺」や「従軍慰安婦」など歴史的事実に対してもでっち上げだとの暴言がなされ、「日韓併合」も「侵略された側にも責任がある」との大臣発言、「満州支配」も、「日本は戦後復興に大きく役立つ事業を当時行っていた」そして、「あの戦争が全体として<侵略戦争>だったか否か後世の歴史家が判断を待たなければならない」という首相発言等々、決して一部のタカ派の例外的暴言とは言えない言動、つまりそうした観念や思想や意識・感情がこんにちの社会に於いて主導的な役割を担い、行政の決定権を有している者たちの中に明らかに存在しているのだ。そうして、「有事立法」にみられるごとく、こんにち、そうした彼らの思惑こそが、「現実の状況」を形成しつつあるのが実態だ。
 ――これで、どうして、日本が、「平和憲法」の理念を積極的に成就しようと努めてきたと言えるだろうか。私の言う「絶対平和主義」ならぬ「平和主義」は、この過去の<超克>を絶対条件として実践を求めるものだ。

 「絶対平和主義」を唱えることはしないものの、現在の「平和憲法」の理念を最大限に成就すべく尽力することを国家に求める私に於ける「平和主義」の営み――
 まずは、武力行使を認める・戦争状態を容認すると言っても、あくまでも日本の主権と独立が直接的に侵犯された<極限状態>に限ること。
 また、戦争を容認する場合があるからと言って、日常的な国家政策・外交政策に於いては、たとえば、防衛費に相当する額を<国際平和費>として、毎年計上し、各種平和の実現・維持のために国際貢献を果たすことなど、あくまでも現在の<平和憲法>の理念を成就すべく「平和国家」として最大限の努力を尽くすこと。よもや<好戦国>との疑念を抱かれるような行動は厳に慎むこと。
 その前提として、過去の歴史の<罪悪>を心から反省し、誠意をもって償い、なおかつ、過去の歴史の実態を形成するに至った条件・要素を、単に法律や制度や国策といった具象的位相に於いてだけではなく、政治家やマスコミをはじめとした日本国民のひとりびとりの意識・感情・観念・知識・価値観といった精神的・思想的位相に於いても、厳しく検証し、疑うべきを完全に一掃して、二度と、日本が<加害者>となる戦争を起こすことが<不可能>な状態を成就すること。
 そうした歩みを日本が誠実に行った場合に於いても、なお発生するかもしれない<極限状態>に対しても、そこに至る以前に、戦争回避のための様々な国策・外交、マスコミ等の平和希求・平和的解決に向けた努力を、ねばり強く、慎重に実践すること。その場合に、平素は上記のごとき「平和国家」としての実践を具現していると言えても、国際関係の悪化とともに、日本人の意識の底に連綿として続いている<国家エゴ・民族エゴ・個人的エゴ>等の台頭がありやしないかといった検証・自己反省も真摯に実践すること。
 ――こうした平和の希求を、私は自身の思想・哲学として実践していくであろうし、また国家・社会にもそれを求めたいと考えているわけだ。

 ――これで、「絶対平和主義者」ではない――時と場合によっては、戦争もやむなしとする――私が、こんにちの事態を絶対に容認することなく、「反戦平和」の志を貫かんとする理由・根拠がご理解戴けると思うが如何であろうか?
 換言すれば、こんにち急速に進行つつある事態は、「日本の安全と平和」の脅威を大義とするが、「絶対平和主義」の立場に身を置かない私とて、決して容認できるものではなく、いわば私の「平和主義」にも完全に抵触する野望だと断ぜざるを得ないのである。そう、私は、「絶対平和主義」に身を置くことはしないが、いわば限りなく「絶対平和主義」に近い「平和主義」の立場に身を置く者だと私自身、自己認識しているのである。



     「反戦平和」に逆行する流れ


12/27 (金)

 時と場合によっては、「戦争もやむなし」とする「絶対平和主義者」ではない私だが、その私からみても、「平時だからこそ、緊急時の事を考える必要がある・平時から緊急時に備えて置くことが大切だ」として、それにしても――対イラクと対北朝鮮との戦争を想定しているのであろう――急激に事が進行しつつあるこんにちの「日本も戦争をなし得る国家体制の確立」と対イラクに於ける軍事行動の既成事実化は、絶対に容認できるものではない。 

 まず、なによりも、私の4原則の第一である「主権と独立」の厳守に徹した「専守防衛」の枠を大きく踏み出している。
 特に北朝鮮の場合、以前より、「朝鮮半島の事如何は、我が国の死活問題である」といった政府による公式見解が表明されてきており、それは、最近の、帝国主義的資本主義下で搾取され虐げられている貧しき人民の解放を謳った社会主義の理想を完全に裏切る独裁国家にして傲慢で不誠実な反道徳的国家と堕し、崩壊か破滅かの道を歩んでいるかに思える北朝鮮に対するマスコミ・世論の反感と嫌悪と不安に乗じて、自衛隊が米国と対北朝鮮との紛争勃発を想定した軍事作戦を行うなど、一挙に、臨戦態勢の確立へと動きを強めている。
 重要なのは、以前にもそうした軍事作戦が行われたようだが、上陸作戦の訓練も行っている点だ。そしてつい最近の報道によると、弾道ミサイルの研究にも着手するという。もちろん、迎撃ミサイルだけの事なら、「主権と独立」の厳守を目的とした「専守防衛」に徹する<自衛の論理>に抵触することではないが、様々な日本政府・与党の観念や意識をみるとき、明らかに、北朝鮮の領土への武力攻撃を想定しているものと断じてよかろう。
 こんにちの時点では、はっきりと問題の焦点がそこまで来ていることを明確にして論議すべきではないか。
 その意味で、こんにちの事態は、あくまでも領空・領土・領海等、「主権と独立」を厳守する「自衛」に徹した武力行使・戦争の枠内に治まるものではないと私は考える。
 
 また、戦争を最後の最後まで回避せんとするねばり強く慎重な姿勢にも欠ける点も、私は大いに憂えている。日朝交渉などの展開をみていると、タカ派小泉首相もさすがに一億二千万の国民の命を預かる者として、まずは冷静な対処を行っているようだ。そこは評価したいが、しかし、問題の核心は、日朝関係そのものにあるというより、米朝関係だ。そこで日本はどういう行動を取るのか。
 対イラク問題ではどうか。フランスなど西欧の有力な国々がアメリカの軍事行動に批判的であり、特につい先日ドイツは対イラク戦争が勃発した場合、アメリカへの軍事協力は一切しないと明言している。ロシアと中国の姿勢は言うまでもない。
 こうした国際世論の中、日本の対米協力は突出しているのではないか。イージス艦派遣の時も述べたが、それが憲法に抵触するか否か以前に、イラク側からみて、「日米同盟軍」として認識されるほどの危険な暴挙だ。国際社会からもそういう目で見られることになるだろう。
 対イラク問題に於いて然り。日本が「死活問題」として唱える朝鮮半島での軍事衝突――しかも今度韓国の新大統領になったノ・ムヒョン氏は、北朝鮮とアメリカの間に戦争が勃発した場合、当の韓国自身は「中立」の立場を取ると明言しているのだ――に於いては、さらに、アメリカ追従の軍事協力に邁進する可能性が極めて高いと断言できよう。そこでは、戦争回避のための徹底した和平の努力を日本が、好戦的なブッシュ大統領を向こうに回して最大限に実践するなど、まず有り得ないことだと、私は考える。

 そして、それこそ平時に於ける平和外交、「平和憲法」が志向している世界平和に向けての積極的な「国際貢献」の不十分さ。
 さらに、「平和国家」日本を証す上で欠かすことのできない「過去の歴史」に於ける<謝罪>と<償い>と<超克>の欠落!
 本来ならば、北朝鮮との「国交回復」交渉に先だって、日本側から、過去の歴史に於ける罪を認め、謝罪し、誠意のある償いを果たすことを宣言すべきではないのか。
 以前にも書いたが、日本のそうした積極的な働きかけによって、金正日は元より、あの金日成時代に於いても日本との友好関係・信頼関係がどこまで築き得たかは疑問ではある。忘れてはならないのは、日本の左翼および進歩的な人々の間で崇拝とも言えるほどの人望を集めていたかの金日成の時代から、言論統制や独裁体制の国家だったという点だ。それは対日戦略云々というより、国内事情によるところも大きくあったのではないかと思われる。そうした独裁国家の北朝鮮が、日本との間に、心を開いた友好関係を構築しただろうとは想像し難い。

 ただ、実は、北朝鮮の<脅威>とよく言われるが、視点を180度変えて、北朝鮮の側から考えてみると、米韓日3国の軍事的脅威――それもアメリカの核攻撃――に曝されている<不安と恐怖>は相当なものではないだろうか。
 この事は、過去現在に至る北朝鮮の国家としての有りよう、自由と民主主義の反する独裁国家としての言論統制や政治犯収容所をはじめとした数々の暴挙と愚行を視野に入れたとしても、考察してみる余地のある問題ではないかと私は考える。少なくとも、日本の徹底した真摯な誠意は、彼らの軍事的偏重になにがしかの良い影響をもたらしはしなかっただろうか――。
 がその是非如何はともかく、北朝鮮の対日政策がより穏健なものとなっていたとは推測されるのではないか。
 いやさらに率直に言えば、北朝鮮の対日政策云々とは関わりなく、日本は、国際社会に向けて、過去を<超克>し得る国家であることを証す意味に於いても、日本自ら、北朝鮮に対して、誠意を示すべきだったと私は考える。

 ――こうした「自衛」を越えた戦争への参戦、戦争回避への姿勢、「平和憲法」をもつ平和国家としての歩みに悖る諸々の営みという事実をみるとき、私は、心底から、危険な道を邁進している現状に極めて深刻な憂いを抱かざるを得ないのである。



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