初めてお便りいたします。

 今正月はじめのTV中継、「鷺娘」を拝見しましてお便り致したくなりました。色々とお忙しい処、不躾お許しくださいませ。

 この度の公演、心震えしんしんと滲み入る、静謐かつ凄絶な舞踊でした。また長唄もまことにすばらしく、舞と音との意気投合の‘自然さ’・合一の奇跡的な見事さは、長く私の記憶に残るものになることと思っています…。

 一昨年の秋、じつは歌舞伎座でこの生まを、二度観ておりました。叔父が、大道具の関係に長く勤めております関係から、玉三郎さんのご出演と聞き、ぜひにと券をせがみ、送って頂きまして、二度も拝見しにまいった次第です。殊にはじめて玉三郎さんの生まの踊りに接する機会となった日の歌舞伎座の、観客席の闇のなか 不覚にも涙を零してしまいました、あの震えるような感動が、今回のお正月中継を拝見しふたたび沸々と蘇ってまいりました。

 初めてテレビで玉三郎さんの踊りに打たれたのは、何年か前にNHKでやはりお正月頃に観ました、「京鹿子娘道成寺」でした。その他、妖精的・ほとんど中性的なともいうべき不思議な魅力を薫放っていた楊貴妃の舞い、室内楽との共演など、印象的なものがたくさんありました。またお写真で拝見した「長崎十二景」のなよやかさ・粋。「深川八景」や「夕霧」などにみる姿態と静止の、しなやかさ…など、日常の美を超えた、ためいきの出るものが数々ありましたが、なんと言っても「娘道成寺」の長い物語での、無垢からしだいに狂気へのニュアンスの展開の 絶妙さ、最高度に純化された形式のなかにも生々しく込められたたましいの凄絶さに、心うたれたこのとき、玉三郎さんの舞いが、貴重な伝統芸能としてという以上に芸術――熟達した魂の結晶、その最終的な形姿――として私の心にとどいたともいうべき印象を、正直 受けました。形を‘追う’のではなく、〜の形をとる。おのずと〜の形姿‘となった’たましいの奇蹟として感じるのかも知れません。そしてこの時、同時に長唄のもつ何とも言えない臨場感と邦楽ならではの半音階的霊妙さが、玉三郎さんの舞いの幽玄な霊性とまさに一体になり、やはりひとつの芸術作品として、聞こえてまいりました。殆ど無調性音楽の神秘性にも似た、それでいて何処となくやはり日本特有の哲学性(?)とふしぎな空気感漂う、所在なさ・はげしさを放出する邦楽のうつくしさ。………そのひびきの、舞いとの「一」という奇蹟に、啓発されるはじめての経験ともなったようです。

 此まで踊りも唄も、何度となく耳にしてまいりましたが、娘道成寺と鷺娘の長唄には――能楽のそれに近い?せいか――殊に次元の高い何ものかを感じます。がそれは玉三郎さんの舞いに於いて耳にする、という絶好の条件が、大変大きく作用したように思われます。音楽が踊りをひきたてるのは至当ですが、主役の舞いもまた、響きと空間をひきたてるもの、ということを、玉三郎さんの踊りの一瞬一瞬に、ひしひしと感じます。それは玉三郎さんの舞いがいかにこれらの背景を熟知され血肉と化されているかを示しているに他ならないのだと思います。踊りの、各‘見せ場’に於いては勿論のこと、見せ場から見せ場の「間」――途切れることなく流れくる動作の、どの一刻に於いても、意味(=美)のない瞬間のまったくない玉三郎さんの舞い が、同時にまたこのような笛や鼓の響きと〈空〉を、多元的な意味を持つ‘舞台表現’として舞いと一心同体に現出させるものであることを、生々しく教えてくれてもいるような気がします。それはたんに、“この太鼓の音は何々をあらわす”云々といったきまり事・知識としての意味以上に、何かもっと直かに魂に浸透しつつ、某かの意味を喚起する、そういう動きと響きの連続体の妙、また静止の妙、として心にとどくという、充溢した体験であった、そのように思っております。

 今回中継を見て気付いたのですが、鷺娘の役名は、鷺の精、なのですね。
 〜と化す、――化身、転身の観。……なるほど玉三郎さんの舞いは、じつにそうした映現の自然観・人間観を彷彿するにふさわしい舞いだったなぁとあらためて感じ入ります。生演での初発の衝撃は、やはり何と言ってもあの太鼓の音――雪の降り積もるを表すという――それが、雪と同時にまた、無垢な心の、いちずな献身のかさなりがしだいに情念となり、さらにいつしか高まり深まった怨念の音――に、しんしんと聞こえてきたことです。その予感は、実際その後につづく玉三郎さんの舞いに触れ、またこれを繰り返し見まして、さらにたしかなものと思えてきたように感じます。
 〈積もりゆく雪〉のもつ幻想性は、或る意味で「火」よりももっと深く凄絶でありうるようにも感じます。――ことに舞台技術上の問題から、ラストもこのような雪景色の形となったと説かれておりましたが――雪の表徴の似つかわしさ…。それは乙女のこころが、それ自身罪のない・混ざりけのないものであったからに他ならず、その無念としての怨念は、あくまでもきよらかなものであるままに、そうであるがゆえに、パラドクサルに深まってしまいます…。それが、まさにせりあがりで玉三郎さんのあらわれた、あの暗示にみちた清冽な姿態に出会われた時、ため息がで出るほどに高まったのを憶えておりますし、そのあとのめくるめく舞いが一貫して希有なきよ(聖)らかさと清楚な色気を放っていたことから、ますます得心されてしまうのです。ひとのこころ、至純にたましいの昇華すればするほどその情念の、肉とともに沈澱してもゆく、という逆説・無常。それを表すのに、「雪」――奏楽から独立しているかのように一本調子な強弱のみによって打たれる太鼓の音――は、また笛の無調的幽玄はもちろん、三味と唄(三味と唄とは大抵旋律調性が一致してりますけれども)と鐘の音も、えもいわれず奏功しておりました…。
 (笛と鼓とは、唄・三味線のトーンから一見逸れた唐突な調を奏でるのが普通ですが、その妙とともに、太鼓・鐘の音といった、聞きようによっては効果音ともとられる音響までもが、それらと相まって非常に高い次元の音楽的表現をはたして 踊りと合致してみえた――というよりむしろ踊りがそれらを発散していたかにみえた――のが、ほんとうに印象的でした。 邦楽にあっては、各々のパート旋律が一見無関係なままに持続しつつ巧妙に重なり合うことで、ますます表徴的な効果をあげていくのですね。)
 がこのひびきの、また雪という設定のかもす幻想性、霊的昇華と沈澱とを兼ね備えた緊張感と純度は、やはり踊り手が玉三郎さんのものでないと、(観念――何々を「〜として」見る;様式)としてではなく実感として、リアルには、なかなか彷彿されないのではないでしょうか。(舞いと音との必然性、舞いにおける所作から所作への音楽パラレルな持続的必然性を感じる舞踊というものに、おそらく稀にしか出会えないのと同様に・・。)

 また玉三郎さんの仰っていた「長唄」の脈絡のなさ、それゆえの飛躍性、というのも、夢幻な世界、現実と詩性のあやふやな境界線を彷徨できる、稀な個性はこれに相応しく、芸術性として唱和・結実している感じが致しました・・。

 奏楽と舞いとの妙なる合致でことに印象的なのは、鷺(化身)が傘を雪に刺し、ヨーッ、カカン、コン。カカン、ポンと大鼓・小鼓とのやりとりと同時に羽根をすぼめたりひろげたりする純かつ艶なさまでした。そして三味線がレド,ラ♭ソとやり、カ・カ・コン、トトトトトト……トン、と鼓が連打するとともに、そっと顔布をあげる可憐さ。おもわず拍手が出てしまいますね…。この羽ばたきは、様式上のこともあってかじつにたおやかに、ゆっくりとなされていますけれど、もし速いコマ送りでみたとしたら、いかにも本当の鳥の羽ばたきにみえることでしょう。

 長唄の間奏もみごとでした。中継のときは場内しずかでしたが、私が観劇した際は、たしか二度とも、最高潮に達するきかせどころで拍手がかかったように憶えています。

 ところで、これは余談ですが、舞台を拝見していて傘(蛇の目?)の効果の精妙さにもおどろきました。はじめの薄青・青・藍による暗いトーンに揺られる間は、おぼろげな煩悩と鳥の目の即物性の間にゆらめく媒介のように見えていたのが、閉じられ、雪に刺し置かれ、(精は娘にとって替わられ、)長い間奏を経てから、ひとたび妖精を離れ‘娘’としての口説きと回想の場に至ってからは、想と現の境界線を行き交う乙女らしい思慕にみちたり、つれなさに焦れ、情念たかまりつつも、稟と貴い姿勢を保つ気丈な娘の しなやかな手に、持とうとしては躊躇われたのち、ふたたびおずおず手に取られて、甘い追憶の世界に身をまかせ、蛇の目に降り積もる苦悩の片鱗を振り落とされて、未だ重みをひきずる現実と夢幻とのはざまの紫の色調から、一気にはなやいだ追憶の世界へとさらに場が開け、舞い踊る手のうえで、くるくると廻るときには、雪も花吹雪といつしか変わり、何ともいえない超脱さのなかで、それぇ、それぇと桃色の衣装の玉三郎さんの手から手へと浮游し、嬉喜踊躍しています。
 こんなふうに道具をあやつる、無重量感!にみちた優美な舞いは、見たことがありませんでした。ふしぎなことにこの時、手になる傘もまた、初めの場よりその蛇の目(鷺の目)の幻惑性は薄れ、まだ殆ど無傷だったなつかしい春の思いに充たされて、遊ばれる、素の「蛇の目傘」にみえたものでした。(舞台の光明さも手伝って)とまたいつしか、地に置かれると、たちまちそのむこう、真っ赤な情念の化身が現れざるを得ないのですけれども…。そのように、こうした道具(傘)にも、いろいろな意味での媒介の役割――ここでは現実と記憶、幻から地上への還帰、人間と精霊の転換点…のしるしとなる――が潜まされているようにも想えました。

 舞台照明の変転も情景の素早い変化に、踊りの飛躍的タイミングがまったく合致しているのもじつにすばらしかったです。ことに息を呑んだのは、やはりはじめの鷺の精(化身)から、娘(〜と化している処のもの)へと一気に転身する場面、です。この飛躍で、玉三郎さんの振りが、(私には、それはまるで現実から記憶への一転、というよりむしろ)またたく間に精と肉との表裏一体――〈受肉〉のからくり――を証したかにみえました。そして娘の無垢なこと――。それとやはり(くどき〜傘づくし)紫から桃色の衣装に転身した瞬間でした。海(或はみずうみ)の水平線や地平線をいろどる茫洋とした三つの色調も一転しました。お衣装の着物も帯も、とても工夫され、舞台の情景と唱和してみえました。黒帯は雪結晶の文様、そして霧氷する柳か葦の枝のようにも見えました絵柄ですが…。(お着物。これは町娘の赤い衣装もそうでしょうか・・)

 それと忘れがたいのは、やはりあの、傘の影から再現出する情念の紅を脱ぎ捨て、雪の精さながらの純白の、羽根模様の長い袖でしなやかに背を反り、羽根うち震え、もだえ苦しむ鷺の舞いです。それは行き場をなくした地獄とともに、そうかといって恨み(いくら至当必至のものとはいえ)を貫き生きることも出来ずに、途絶してしまう。もとよりの浄らかさに憧れ、自らを滅却することによって昇華させようとする魂、(我執を)滅することによる救いと、昇華――死の凄絶な舞いでした。(この時の狂気の旋律は京鹿子娘道成寺のそれと同じニュアンス を以て鳴らされていたように聞こえます。)
 一度静まり落ちるがふたたび情念の残り火の襲来し、狂い舞うさま。肉躯はもう精も魂もついえているのに――ちょうど疲れ切った脚に逆らい止めどなく踊り狂う赤い靴の話の如く――憑かれたようにひとりでに身体は乱舞し、斜めの螺旋をえがいては尽き果てる、降りしきる中、魂と身体のさいごのはたたきともだえ…。力尽き、殆どなきがらなまま、天の糸に吊り上げられる如くに引き上げられ、また微かに舞い、―――ついに鐘の音とともに凍結する、心躯…。二の鐘。三味の誘い・幽かな浮上の笛とともにまた降りしきる雪を仰ぎ、夢幻の彷徨い。そして三〜四、五の鐘とともについえ、静止。より至純に昇天していく霊魂と地に沈む肉(骸)。臥せる白い姿態。……その、次第に凍結(昇華)へと至るさまが、ほんとうに痛切で涙が零れずには居られませんでした。
 玉三郎さんのその時々の顔の表情も、とても印象に残っております。顔布をもてあそんでは恥じらう町娘のさま・もの想い。花の降る日の乙女の、置いた傘の向こうに座って憧れの表情で天を仰ぎみるさま。また、生演を観たときオペラグラスでのぞいてゾクっとしましたのは、雪に指した傘を持とうと躊躇い、離れて中央に回ってからされる、黒子に任せきったような空けた表情と、回想に身を委ねるような顔つき…。

 今回、少しおどろいたのは、これより少し前の場面で、生まではわからなかった表情――TV中継を見てはじめて気付いた――なのですが、長唄が「怨み〜」とやる部分で、玉三郎さんの顔が、なんともいえない怨恨;情念を、稟とした姿態のうえにのぼらせていた所です。生演では主にその全体の幻想性に重きをおいて見ており、大事な点をみのがしていたようです・・。所作においては鼓とともにたわむれる、娘のいとけなさやたおやかな手つきのしめす婀娜、空け。献身と焦れとの間でゆらぐ切実な乙女心、また足つきからふつと読みとれる鷺の精の清冽なあやしさetc.…などは、観る度、こころに滲み入り、堪能していたつもりでしたが、あらためて中継での細かい表情を見ておりますと、そうした情念や怨念をも、舞いばかりではなくお顔にも、はっきりと表しておられ、ハッとしました。

 と お話しをすれば尽きません・・。、長々と独談を申しあげ、申し訳ありませんでした。これで筆をおきますが、近頃は暮れから年明けと誠にお忙しい最中、芸術監督もされるなど、益々あわただしい日々とは存じますが、どうぞお躯にお気をつけて、素晴らしい公演をされてくださいませ。舞台の大成功をお祈り申しあげます。



                 「エッセイ」     「芸術の扉」    「麗子の書斎」


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