作者に許可無く無断転写禁止 旅人木(C)
高原ロッヂ旅人木と霧ケ峰池のくるみの小史@
1998/6/11・・・1更新
2003/4/1・・・・2更新
2012/7/3・・・・3更新
2020/8/13・・・・4更新
2024/3/18・・・・5更新
2012このページは、旅人木に残るアルバム昭和初期から
昭和40年代のものと思われる写真を元に編集しました。
↑ 昭和10年代の霧ケ峰高原の冬、草原には樹木が無く雪原がつづく
↑ 昭和10年代の霧ケ峰高原池のくるみスキー場。正面の山は車山
霧ケ峰高原は大昔から(鎌倉?江戸時代?)草刈場だったそうです。その草////
は農耕馬や牛の餌だったそうです。その為、1500〜1600メートルの森林限界より
低い所に草原が維持されて来た訳です。//////////////////////////////
諏訪周辺のお百姓さん達が、9月1日になると霧ガ峰に登り鎌で草を刈りその後
一週間ほど乾燥させてから、牛車に草を付けて下って行ったそうです。///////
草刈は牛や馬が機械に変わるまで続いたそうです。/////////////////////
霧ヶ峰の草原は農業の副産物として人工的に作られたものでした。/////////
牛が機械に変わり、植林が進み草刈をしない現代では森林化が進んでいます。
昭和初期スキーが大ブームになり、リフトもゲレンデも無い時代この草原はスキーヤー・・・
にとって格好の場所となりました。その人達を相手に、おしるこ屋が出来たそうです。・・・・
やがて、その店が山小屋となり人を泊める宿泊設備になったのです。・・・・・・・・・・・・
冬、農繁期が過ぎたお百姓さん達にとって良い仕事だったそうです。その中に、・・・・・・・
旅人木のおかみさんのお祖父さんも居た訳です。山小屋の名は「みゆき」でした。・・・・・・
国定公園に指定される32年前、池のくるみ踊り場湿原が国の天然記念物に指定・・・・・・・
される7年前の事です。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(昭和39年国定公園に指定、同14年国の天然記念物に指定される)
↑ 昭和初期 池のくるみスキー場
(左下の人に注意?当時のスキーは、かかとが浮くのが普通でした)
↑ 昭和10年代池のくるみスキー場 山小屋群落
屋根の上にジャンプ台のスタート地点が見える(昭和10年ジャンプ台できる)
↑ 昭和10年代 山小屋群落と池のくるみスキー場
↑ 昭和10年頃の山小屋 祖父と祖母と叔母・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(気象台の人達と。当時の営業は冬だけ、気象観測のため夏に特別に開けたらしい。)
↑ 昭和10年代 山小屋とお客さんと一緒に。
↑ 当時は上諏訪から歩いてここまで来ました。昭和12年バスが
上諏訪〜清水橋、開通。そこから歩いて1時間かかったそうです。
写真でサクが有る所が清水橋と呼ばれる所で、バスがここ
まで来ていた。池のくるみの直下・遠くに木曽御嶽山を望む
↑ 昭和10年代のスキーファッション
(東京からのお客さん。当時、東京からスキーに来るなんて、お金と時間がある人達だろう。)
この姿で何処に行くのだろう、(嫁入りの写真)
↑着物姿にストックを持ち草履を履いている。後ろには八ヶ岳と踊り場湿原、山小屋の女将さん達、
右端がここの先々代(嫁入りの写真)
↑ 昭和10年代 山小屋群とスキーヤー
(この方、学生さんで常連のお客さん。)
↑ 昭和10年代のスキーファッション 車山山頂付近
↑ 昭和10年代 後ろは八ヶ岳
↑ 昭和10年代 スキージャンプ大会
↑ 木製のスキージャンプ台 昭和15年冬期オリンピックに立候補した。
そのひとつがここ、霧ケ峰高原池のくるみスキー場でした。
↑昭和10年代・スキー場の山小屋の方々が仮装、この格好で諏訪の町まで滑って行った。
↑ 昭和10年代のスキー場・ 戦時色が強くなった時代と思われる
↑銃剣を持っての雪中演習と思われる・時代を想せる一枚・
↑ 母親に抱っこされているのが、旅人木のおかみさん昭和20年代。
戦後、今の位置に山小屋がすべて移動した。又、昭和26年に現在の霧ケ峰スキー場にバスが乗り入れた。
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これより(藤森正・氏の撮影) 昭和25年前後の写真です。
藤森正・氏は戦前は「みはらし」戦後は「高原」を経営
水道も電気も無い時代、水汲みの風景。45分以上かけて水源まで往復、瓶に溜めて使ったそうです。
踊場湿原へ、スキーヤーも気持ちよさそう。正面に富士山
池のくるみスキー場で滑る、55年前のスキーヤーです
正面は南アルプス・甲斐駒ケ岳・北岳・仙丈ケ岳
高原小屋の窓から見た池のくるみスキー場
左に車山、右に蓼科山・カボッチョ
凄い所を滑っていたナ。
親子でスキー
池のくるみのスキー場にて
池のくるみスキー場にのリフトがあった時代があります。昭和31年です。
昭和33年頃に今の霧ケ峰スキー場に移設
リルフトから降りるお客様。 小屋は、旧公衆トイレ
リフトから降りて滑って行く、昔は、諏訪の町まで滑って行けたそうです。
こんなかっこうして、歩いて霧ケ峰の池のくるみまで来ていたのでしょう。
フィルムの露出表のカンバン、面白いですね。
霧ヶ峰池のくるみ,が映っている風景➀
霧ヶ峰池のくるみ,が映っている風景A
どうでしたか藤森正さんの作品、ご自分で写真の現像や引き伸ばしをしていた方ですので
昔の写真を大切に保管しておられたと思います。今回お借りする事が出来ましたので、ここの歴史に厚みが出来ました。
その昔、池のくるみの山小屋が建られる以前より霧ヶ峰に通い詰めた方です。
いろいろな話も聴かせて頂きました。草刈や山小屋やスキー場などの話、ありがとう御座いました。
冬の写真が多いのは、夏は小屋は営業をしていなかった。夏にお客さんなど居なかった
と思われます。昭和41・2年頃、山を下りられました。ここまで藤森正・氏の作品でした。
(尚2012年6月97歳で御逝去されました。此処に、ご冥福をお祈りいたします。合掌)
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次は小澤修二さん撮影の写真です。山小屋の二葉を戦前から昭和30年後半まで経営していたました。
ご自分で写真の現像や引き伸ばしをしていた方です。昭和元年のお生まれです。
鮮明に、その時代の事を記憶されていて、単なる記録としてではなく生活観のある貴重な話お話を
聞くことが出来ました。膨大な写真をお借りしましたが、その一部です。
二度と見ることが出来ない池のくるみスキー場 銀座スロープ S25年頃
も 白樺湖がまだ池になっては居ないS21年頃
池のくるみスキー場・山小屋開設20周年記念の一枚 。S27年 池のくるみ山小屋 。S25年頃
池のくるみ山小屋 。S28年頃 道は牛車が通る道 S25年頃、 池のくるみ山小屋。後ろの小屋と同じ位置に旅人木が建つ
池のくるみ山小屋 。S29年頃 池のくるみ山小屋 。S29年頃
池のくるみ山小屋 。S25年頃 池のくるみ山小屋 。S21年頃
く草刈
小澤さん
草刈 写真はS25〜35年。 このな様子でS36年頃まで草刈は行れていた。S34年伊勢湾台風で諏訪湖の周りの田んぼは全滅した。
此れを期に区画整理をして、あぜ道を広げトラックや耕運機が走れるようにした。それまではあぜ道は狭い、お米を少しでも多く収穫する
ためだ。その為、牛や馬や人しかあぜ道は歩けなかった。
農業の機械化で牛や馬は要らなくなり生活様式も変わり、草を使う用途も無くなり徐々に草刈は行われなくなった。
大昔からの草刈はここで終わった。
スキー場にするには草刈りをする必要が無かった時代から、スキー場の為に草刈や火入れがこの時代から行われる。
池のくるみにリフトがあった時代 。リフト乗り場 S31年 池のくるみにリフトがあった時代。左端が小澤さん
蓼の海のスケート場入口、このリンクで多くの日本記録が・・・・。 蓼の海のスケート場、
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次は、お客様の桂川様よりの提供です。
この方は、昭和37年3月・第1回霧ヶ峰大回転競技会・少年の部の優勝者です。
その昔 旅人木の前身である「みゆき」のオヤジさんに大変お世話になったと2016年に来館、宿泊して頂きました。
60年以上昔からの常連様です。昔話に花が咲きましたが、2023年ご逝去されました(合掌)
その後、御子息様から手紙とお写真を頂きました。写真は大変希少なものです、ここに掲載いさせて頂きます。
第1回霧ヶ峰大回転競技会賞状・昭和37年3月14日
賞状授与式 50年以上経ち、2016年久振りの来館
//////////////////////////////////////////////////////////////////////////朝、水源迄の水汲みの手伝いをしてくれたみたいです。
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次は、「向山節子氏」からの提供です。諏訪のお医者様です。
戦前の霧ヶ峰高原 夏 昭和9年 池のくるみミカド食堂 祖父が3年間程経営
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明治30年代 上諏訪駅・並木通り・遊郭・高島城跡・
.長野県県庁の主張所??などが写ってる。
面白い話を沢山聞かせて頂きました。
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小松昭太氏からの提供です
S30年代初め諏訪駅前 諏訪バス S30年代初め強清水 木のリフトが見える
S18年学徒動員で白樺湖を作りに行く S18年学徒動員で白樺湖を作りに行く
白樺湖はその昔は無かった。農業用水として川を塞き止た。水温を上げ米の生産を上げる為だそうだ。
現在でも、作業に参加した旧諏訪中学(現青陵高校)生徒は「白樺会」として年1回、各クラスで東京でお集まりとか・・・
お歳で集まりが悪くなって来たとか、何時までもお元気で居て下さい。
旧諏訪中学(現青陵高校)スケート大会 し昭和30年代 霧ヶ峰池のくるみ
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岩田隆氏よりの提供です
ヒュッテ・カルペディエム 「岩田 隆」氏のコレクションから提供されました。
昭和10〜15年頃(1935年)の絵葉書とパンフレットです。
池のくるみ旅館街 ジャンプ台を見ながら池のくるみへ登る
池のくるみスキー場 池のくるみスキー場
池のくるみスキー場 池のくるみスキー場
1935年 昭和10年のパンフレット カボッチョ小屋
昭和10年のパンフレット
昭和10年のパンフレットの地図 赤文字は後から足した文字、右書き文字と左書き文字が混ざる変な地図ですね。
昭和10年のパンフレットの地図2
八島湿原へ滑る 八島湿原へ鷲ヶ峰が目の前に
当時の絵葉書パンフ類は貴重な資料ですね。
草を刈りのおかげ、その草を牛車で里に下ろし家畜の餌や畑の肥料に?昔の農家の方々に感謝・・・・おかげで大草原と雪原に。
消防設備も無い時代、草原が燃えたら小屋も燃えてしまった事でしょう。
作者に許可無く無断転写禁止 岩田隆Ⓒ 旅人木Ⓒ
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「ロベンドヒュッテ」皆川 隆氏よりの提供。先代より引き継いだ写真です。
昭和38年〜40年頃、岡原 茂氏の撮影(クムルプヒュッテ松浦氏の証言)
車山肩の小屋郡を望む・八島湿原・北アルプス連峰まで見渡す。木は無い、 ビーナスラインも無い。
池のくるみスキー場では 田畑の機械化が進み牛や馬の餌の草を使用しなくなり草刈りが行はれなくなり、
昭和36頃より火入れをして草を焼きスキー場とした。、焼いた場所が一部分かる貴重な写真。
池のくるみスキー場。ロープトロイカと呼ばれる乗り物 八島湿原 遠くは美ヶ原
池のくるみ踊り場湿原 車山肩辺り 日光キスゲ群
スキー場のリフトが無い車山
作者に許可無く無断転写禁止 皆川隆 Ⓒ 旅人木Ⓒ
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では、高原ロッヂ 旅人木の昭和戦前の絵はがきのコレクションです、英語は左から日本語は右から書かれ手ます。
絵葉書きを入れる封筒 池のくるみに登る山道と、スキージャンプ台の飛距離や飛型を見ると思われる塔が立っている
ハイヤーがこんな所迄登って来ていた。後ろの山はカボッチョ
池のくるみスキー場 池のくるみスキー場
池のくるみスキー場 池のくるみスキー場
池のくるみスキー場 池のくるみスキー場
池のくるみスキー場 池のくるみスキー場
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ では、旅人木に残るアルバムに戻ります。
高原が藤森正さんの小屋、隣が現在の高原ロッジ旅人木の位置
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昭和25年頃の子供の写真。服装、ストック、スキー、ソリ、どれを見ても面白い
昭和25年頃の池のくるみ踊場湿原の全景が浮かんで来ます。
↑昭和20年代 草を刈り乾燥させ、この牛車に積み運んだそうです。
↑昭和30〜40年代の山小屋群落・ S33年 高島小学校・角間新田分校の蓼の海のスケート教室
左端は旅人木のおかみさんです。下駄スケートです
↑昭和30年代・・看板も左書きから右書きに変わてる。山小屋とおかみさんの両親
↑ 昭和30年代・池のくるみスキー場とスキーヤー
↑昭和40年代の山小屋群落・その前で
昭和35年頃・池のくるみスキー場・ロープトロイカと言うソリの大きい乗り物
でリフトの代わりにしていた。スキー・靴・ストック・スキーパンツも現代の物に
近づいている。冬の写真が多いのは、冬季しか営業しない為である。昭和30
年代後半から夏季も営業を行うようになった。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ここで、アルバムは終わっています。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
旅人木が出てくる前に終わってしまった。ここまで好く見てくれました。
旅人木 の事は、つい最近の事なので。やはり戦前、戦後30年代の時期が面白いと思います。
高原ロッヂ 旅人木の女将さんのアルバムより
それでは又・・・・・・・・・・・・・
昭和53年の池のくるみスキー場の草刈
草刈の風景です。草原に火を入れて、その後を更に鎌で刈っていくのです。
足元の黒いところは燃やした跡、手に持っているのが鎌です・・・・・・・・・・・。
写真の無断使用禁止
後記
昔、ここら一帯は農家の草刈場でした。そんな時代に、霧ケ峰池のくるみに小屋を立て、商売を創めた人たちが居ました。諏訪市の角間新田のお百姓さん達でした。時代と共に、その人たちは立ち去り世代は変わり、他の場所から移り住んだ人々が大半を占める時代になりました。昔の事を、知る人も語れる人も少なくなりました。現在、90歳以上になり、その昔ここで仕事をしていた方々から話を聞き、ここに記しておきます。昔の事を知りたい時に見て頂ければ幸いです。ここの女将さんも、その昔から代々続いてここで商売している唯一の方です。
写真とお話の提供
藤原春吉(故人)、藤原政子(故人)、滝口薫 子(故人)、藤森正(故人)、小澤修二(故人)、鈴木里子、藤原芳春、藤森健司、岩田隆、皆川隆、滝口実、桂川氏
1998年6月記述 1998/6/11・・・1更新 2003/4/1・・・・2更新 2005/12/10・・・・更新 2012/6/15・・・・更新 2020/8/15・・・・更新 2024/3/15・・・・更新
(いろいろな方から聞いた話を口述筆記し参考にして編集しました。具体的な事実関係の間違い等は修正せずに皆様のお話のを基に記述致しました。年号なども記憶された年号で正確ではありません。)
ここの書かれている事を、そのままコピーなどしてご自分のHP等に貼り付けて使用する方をお見受けしますが、間違いなどが有りますのでHP等に貼り付けて使用する事はしない様にお願いします。写真の使用もお断りいたします。
では・・・・・・・・・・・、写真で見る高原ロッヂ旅人木の歴史そのA、
これより高原ロッヂ旅人木の始まりです。
NO,1・・・時代は昭和25年頃、前の持ち主の銀嶺だった頃
銀嶺と書いてあるのが「旅人木」。右側はお隣「高原」。
左側にもう一軒「銀世界」があり、その銀世界と銀嶺で
昭和56年旅人木となりました。
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NO,2・・・・・昭和56年春、初めてここ霧が峰池のくるみにやって来ました。
どこにあって、どんな所かも知りませんでした。その時の旅人木です。
旧、銀嶺山荘の看板のままです。
始めて来た時の裏側
始めて来た時の側面
とにかく、建物が傷んでいました。
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NO,3・・・入り口、玄関ホール。傷みが激しく、どの様に直すか友人と
悩んでいます。これからは、友人と私と修繕改造の毎日でした。
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NO,4・・・修繕が終わった入り口、玄関ホール。当時は、単車の
お客さんが多く玄関ホールは単車で一杯でした。
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NO,5・・・・これが厨房、保健所から許可が下りませんでした。ここだけは
プロの大工さんに修理をお願いしました。
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そして、こんな風になりました。
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これが食堂
NO,6・・・・古い食堂も改造して下の写真の様になりました。
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NO,6・・・・1981年11/24より、山小屋・旅人木はスタートしました。
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NO,7・・・・・初期のパンフレット
霧ヶ峰高原池のくるみ地籍に座し、踊り場湿原を裏庭とし北は飛騨山脈、南は赤石山脈東に八ヶ岳蓼科西に木曽山脈を見渡し
春は蓮花つつじが山を染め、夏には日光キスゲが満開に秋には松虫草が咲き乱れ、冬はすすきヶ原が荒涼たる雪原となる・・・
朝、湿原より陽が昇り日暮飛騨山脈に陽が沈むさま、見事なり。
独り草原の風に吹かれるのもよし、山小屋にて見知らぬ人々と語り合ひ、又心ゆく迄歌ふもよし自然を欲する人々の宿たらん事を
一度こられたし 主人敬白
(この文章は先代の女将が高原ロッヂ 旅人木のパンフレット用に出筆して頂きました。)
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NO,8・・・・・ 営業を始めて5年目の夏。昭和63年の様子
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NO,9・・・・・そして平成3年に今の高原ロッジ旅人木になりました。そして令和4年・・・・・・・・・
2022年に、先代「みゆき」より累計で創立90年を迎え・高原ロッジ旅人木としては41年経ちました
尚、先代「みゆき」の三代目は車山高原でプチホテル・サンルーフとして経営しております、宜しく
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すいません・・・・・・・・・・・,
こんな詰まらん写真と文を見てくださいまして
有り難う御座いました。
では,又・・・失礼します
終り