1999’6月


 朝から雨がしとしと……

 庭に小さな水たまりが出来て、降り注ぐ雨の矢がささるたび、わ〜んと幾重にも拡がる輪っかの的。
 この雨の矢…いつでもマトの真ん中に当たるんだナ、一寸ずるい(^_^;)
 そんな雨矢が落ちてはつくる、幾重にも重なる輪っかの上に、コブシの葉っぱが落ちてはまた壊れたりしている。

 小さい頃、水たまりをじーっと覗いてると、何から何まで逆さん坊になった魔物たちが、むこう側の世界――水面の下で、なにやらうごめき、わめいてる気がした。見入るほど吸い込まれて行きそうな、それは不思議な対称世界の遊技の感覚だった。


 水鏡に、姿を映される世界と、映る世界……。
 その二つの世界の役回りの、絶え間ない交換のトリックと、ひとつの世界への融合――混沌を、みごとに睡蓮の池にあらわしたのはモネであったけれど、……今日、ふと想い付いたのは、G・クリムト。。。

 とはいえ、私自身、まだまだおよそ慣れ親しんだとはいえない分野なのではある…。*-_-;)



 空間はたて(高さ)・よこ(広がり)・奥行(遠去かり)と3次元で出来ている…。絵画史のなかに、遠近法がリアルに確立されるまで、中世など昔の壁画や板絵には、殆ど奥行きというものが感じられない描かれ方をしていた。修道院の回廊にしても、その上のアーチの交差‘せり持ち’、林立する廊柱を介して垣間見える、神殿の奥。
 何となく、近くから遠景まで、〈空間〉が一つの面に圧縮されていた!――――(まぁ、絵画というもの自身、もとはといえばそういうもので、写実主義はむしろその最たる抵抗、ともいえるのかも知れないけれども…)

 そういう、奥行きの圧縮――空間の3次元を、あえて2次元、場合によっては遠近法以前さながらに封じ込めてしまう――描法。ひとつはモネなど印象派、もうひとつは、典型的にはラファエル前派、象徴主義.・ナビ、広くは表現主義なども含められるかも知れない世紀末アート、全般のように思われる。

 ところで今朝、クリムトの絵を見ていて感じたのは、モネなどの空間は、――点描画でもある程度まではそのように思われるが――2次元(高さ×広がり)の世界とはいえ、一定の奥行き(遠去かり)といったものは、確保されてみえる。

 http://sunsite.auc.dk/cgfa/monet/p-monet23.htm(農庭)
 http://sunsite.auc.dk/cgfa/monet/p-monet26.htm(庭の徑*)

 ところがクリムトの場合、遠近感の一層の消失がみられる気がするのだった。

 http://sunsite.auc.dk/cgfa/klimt/p-klimt38.htm(庭の徑*)
(上記monet26との対比)

 http://sunsite.auc.dk/cgfa/klimt/p-klimt36.htm(木)
 http://sunsite.auc.dk/cgfa/klimt/p-klimt1.htm(木々)
 http://sunsite.auc.dk/cgfa/klimt/p-klimt37.htm(庭)
 http://sunsite.auc.dk/cgfa/klimt/p-klimt11.htm(人間たち)


 たんなる圧縮とか、凝縮というのではない…。それは不思議と、タテ――垂直に「降りる」面――へのすべてのものの還元、であるかにみえる。
 いわば、高さ×広がりだけとなった「面」を、わざわざ直立させ――すべり台の勾配を垂直にまで引き上げて、直下する壁面にした?!――とでもいうよう。
 けして「平坦な」壁ではなく、むしろ色んな筆致が陰影と濃淡の妙にとみ、光が潜んでさえいる。が、全体としての効果は、やはり何だか直下している。――重力に逆らわないというのか…むしろ加速さえするような…


 アイススケートのリンクさながらの氷鏡を壁紙にしたかにも映るタテ(壁)と↓ヨコ(床面)。それらがひとつのタテの列になって表現されているようだ。
 http://sunsite.auc.dk/cgfa/klimt/p-klimt17.htm(部屋と婦人)


 同じ氷鏡(というより水鏡)でも、印象派――おなじ浮世絵の平面世界の影響を少なからず受けているとはいえ、――モネのそれの方がごく普通の‘広がり’があるような気がする。(映るものと映すものの交換、潜と浮の逆転はあっても)

 http://sunsite.auc.dk/cgfa/monet/p-monet12.htm

 そんな風にクリムトは、婦人の顔と、身にまとう服と向こうの壁紙の柄と床の柄と……すべての面を同一のタテの装飾面に還元している。(圧縮と言う以上に、むしろ「次元(的把握、概念形成そのもの)」を消失させてしまおうとでも言うように!?)
 
 初めのうち、美しい壁紙の人体へのはり付けと思っていたのだったが、よくよく見ていると、壁紙となった人体??でもあるかのよう…。

 恋人同士が抱き合う絵では、女の側の足元は崖であり、一歩先の‘垂直性’の落下を、彼女のまとう衣服から垂れる日本舞台美術の藤蔓めいた装飾とともに予感させたりもする…

http://art.hotspace.jp/K/Klimt/klim07.jpg

 そうやって重力に適ったまま落ちていきつつも、えもいわれぬはかない浮遊感をかもし出し、人物をたゆたわせてもいるようだ。上昇と下降、浮遊と圧殺、重力と愉悦……その不思議な共存。それはいわば、ダヴィッドなどの几帳面な程に地に足のついた人物達の、抜け目のない挙動などとは、たしかに対照的である…。

 下降感、また奥行きの圧殺――その一見不可解な意図。。

 遠近法の黙殺とは、絵画史的にいえば、ひとつにはアカデミズム批判なのかも知れない。ルネサンスにより中世を脱皮しても、いわばなお続いてきたキリスト教文化のしがらみの側面――性的題材の暗黙的不可侵条約?(題材にかこつけて巧妙に破るものも、ままあったにしろ)めいたものをはじめ、聖域的題材への偏り――への、果敢な抵抗と挑戦、というばかりでなく、同時に二次元性:<絵画空間>の、乗り越えとしての遠近法を尊重・ないし酷使する試みへの、NOの突きつけ。言い換えればまた三次元的存在としてつねに世界に身を呈する私たちの身体性の、ある種の素直で自発的な尊重でもあったであろう、遠近法の獲得と、その不屈の憧れ・営みへの、NOでもあり、またその歴史への黙殺、ともなっていたかも知れないと思う……。
 勿論その都度、画家たちそれぞれの意図は種々あるのだろうが、総じて言ってしまえば不可知論的な精神――知(理知)の支配する可能性に見切りをつけた――ということなのかも知れない。
理知が精神と身体とを統合しうるという想い、に対する諦め。またそれは、3次元的存在としての肉体が、2次元世界(絵画空間)においても3次元性を獲得しようとさえする理知性や精神の営みというものと、共存しうるであろうという希望――の、ゆきづまりのようにも想われる。 クリムトのようにあえて積極的にエロスをも題材とする絵画でなくとも、何らかの形でそれは言えるように思う。が、それが同時に崖に立たされた、またあえて重力に逆らわない有りようへの暗示でもあり、孤独や空虚感の表徴でもあることを、物語ってはばからないようにもみえるが・・・

それにしてもクリムトの絵は、配色・’発’色!全体に色使いがすばらしい…。金粉のようなものがちりばめられている…それは日本画の金箔のようでもあり、東洋的もしくはビザンチンのようでもあり、イコンなどを踏襲していたかもしれぬ祭壇画の装飾やテンペラ画の彩色、また或る意味ではルネサンスの隆盛期にすら見いだされる、つねに夕陽を浴びているかのような光沢のある聖性を帯びた人肌の発色にさえ、延々と見いだされる伝統なのかもしれないが、、。そしてまた、それはティントレットなどのよく描く聖臨の輪の光輝や神殿から、暗闇の中へと放たれていたあの輝きを通し、モンス・デジデリオの伽藍や柱廊の描き方のそれ、またローザ、マニャスコ、グロ、ドラクロワ、ジェリコーといった人々の不気味な光。或いはロココ絵画にも、またカラヴァッジョやレンブラントといった巨匠の、闇と対照的なあの光たちにも通底し、ひいてはモローの「出現」における銀の手法、ラファエル前派の人工的・神秘的な、文様ふうの植物描写と光沢、、etc..といった長きにわたる絵画空間全般に、ヨーロッパ金銀細工の伝統工芸と同じように縷々繋がっているものだろうか。。。
 と同時にここにみられるあらゆる文化圏の同居と競演は、金という色彩への憧れ、或いはまた金銀(とこれを活かす黒や闇、また空(くう)に対する)、親密さというものが、或る意味で東西越境的な、また時代を越えた人類の長きにわたる愛着なのかも知れないとも、思わされる。。。


 そしてまた、文様…。(これは主に人物の題材とされる画に見られるように思うが)オリエント文明のようでもありアルカイックなようでもあり、中世の聖書挿し絵図の装飾風でもあり、日本的文様でもあり曼陀羅風でもあり、ひいてはそれが印象派とナビ派の両側につながる橋のような空間把持と色彩感覚と相まって、恍惚としたエロティシズム享受の包囲として、殆ど窒息しそうな空気のように世紀末の人体を取り巻いているのを感じる……。



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