2004年01月13日 (火)


思いがけない用事で途絶したまま随分と時間が経ってしまった。

以前、多くはミュンヒンガーの弦楽合奏を、また時にヴァルヒャのオルガンを耳にしながら追っていたスコアの所々に見られる走り書きも、自分が書いたものであるにも拘わらず、今となっては意味がわからなくなってしまった。
何故こんな所に文字が走らせてあるのか、何と何をどんなポジションから連関させていたのか、どんな直感や思考に基づいていたのか、意味不明である(笑)

それで、あまり全体、乃至在るべき終局から部分(各コントラプンクトゥスやカノン)を聞き取るのではなく、とりあえず最初から一曲ずつ感じること、また気づいたことを、演奏への感想とともに記すことにする。

そうしているうちに耳もまた馴れてくることであろうし、全容をもう一度再考できていくと思う。
が、

それにしても、フーガの技法の場合、一応の目途を立てておかねばならない。一曲一曲を綴るには、互いの連関が濃厚でありすぎるだけにかえって虚しい。
また 毎日、一曲について記す為に、考えの外に置いておくには行かぬ全体というものにも幾らか配慮するべきとはいえ、毎度毎度ただ漫然と聞き流して行くには、その全体はあまりに長すぎるし、巨大でありすぎる。

そこで、Cp11番迄で、前半を一応区切ることにする。
バッハの発想、思考がここでひと区切り付くように思われるし、何より聞いている方の意識としてここで区切りを強いられる気がするからである。

また、このCp11は前半(?)の差し当たりの集大成というべき壮大さを帯びていると言っていい。
これ自身、未完の終曲に直結しうる大きな要素が多分にある。
またCp1〜11までの連綿とした世界は、それ以降(Cp12〜未完f)の世界がどちらかというと自存性?のつよい一曲一曲の統合体、ともいうべき世界なのであるのに比べ、その連関性・一貫性がずっと揺るぎがたく思われる。

フスマン、ダヴィッド、グレーザー等、曲順に関しては幾つかの有力な人々による解釈の余地がある中で、ミュンヒンガーもバルヒャも、グレーザーの解釈に依っているようであった。それは私の手持ちのスコアとは曲順が違う。(スコアを追いながらという形ではまだCDの前半しか聞いていなかった。)
バルヒャのCDに添付されて解説書を読んだところ、これは出版原譜の曲順と、バッハの意図していた真の(と思われる)曲順との差異からならしい。

ということで、諸々の問題――バッハ当人によるいきさつやその後の解釈――から、やはり後半?の曲順はバッハ自身に於ても!、また「フーガの技法」研究者による全容の把握の仕方に於ても、幾つかの解釈の余地があるのである。




2004年01月14日 (水)

眼と頭が痛くでてモニタを凝視していられないので箇条書きのみ。
Cp8…未完フーガ第3主題/未完フーガ第2主題
   との要素(?)

落下のテーマ(注:私の付けた呼称…113〜117/117〜126小節など。ちなみにこれはCp11の117〜最終小節へと発展する)と、
これとよく呼応する

・レードファシシ♭ラレ(ラソラソラソファソ=tr)ファソラソラーレ(Cp8冒頭) 

・ラーシ♭ファドド#レラミーファミレミレーラ(Cp11-27小節、上の転回系とみられる)

これらの半音階的絡みが、もたらす意味
B-A-C-Hへの伏線。




2004年01月17日 (土)

一曲ごとへの記述に入る前に、補筆。
Cp.11が、何故濃密に未完フーガと通じるか、に就て。

Cp.11-第1主題…冒頭主題の第4次変奏(Cp.8の転回形)

Cp.11-第2主題…Cp.8で最初に登場する別主題(B)#の転回形ダッシュ

#…これは、Cp8に就て触れる際詳しく述べる

Cp.11-第3主題…Cp.8で最初に(第2主題として)登場する別主題(C――先日「落下の主題」と呼んだもの)##の転回形

##…これも、Cp8に就て触れる際詳しく述べる

こう見ても、如何にCp.8と11とが、予め緊密な織物として連携させられているかがわかるのだが、
驚くべきは、そうした経緯を以て到達して来たここCp.11に於て、織り糸とされるこれらの主題(1・2・3)が、どれも最終フーガ(未完)への意味深長な前触れとなっている点である。

第1主題…未完フーガの第1主題(レラソファソラレ)と第4主題(来るべき冒頭主題レラファレ…)
どちらの主題にとっても緊密な変奏曲的関係にある(中和剤、またはどちらへの発展性をも帯びる巧妙なる予備軍)

第2主題…落下の主題及びその転回形、どちらにも旋律上繋がりやすい、もしくは遁走上、きわめて自発的な交代性を持つ音列でありつつ、
未完フーガ第3主題(B-A-C-H)の予兆的性質を帯びる(この転回前――すなわちCp.8での第1主題時――はそのサワリが未完フーガ第3主題BACHと共通であり、同様の半音階性を有つ。と同時に、遁走性としては――2度上げられていることもあり――かえって転回前よりも未完フーガ第3主題BACHと呼応性を持ち、仮に同時に奏されてもよく共鳴する)

第3主題…(C=落下主題が)転回されたことにより直かに未完フーガ第3主題BACHの音列そのものを喚起する
未完フーガ第3主題とは、このCp.11の第2/第3主題の奇妙な融合であると言ってよい

蛇足であるが
ここ(Cp11)、及びCp8では登場していない、未完フーガ第2主題はといえば、両者の間に置かれたCp.9に於て十全に扱われているのである。



2004年02月01日 (日)

※補記
Cp.6の遁走に於ける全体的変奏スタイルのtheme性が、――短い音符・付点リズムにより独特の(フランス形)を帯びてはいるが、その為に有効的に――未完フーガ第2主題に、非常に密接に関わる、ということ。

3小節後半〜4小節のミファソラファミレド(ホヘトイトヘホニハヨイ)の上昇〜下降型、
18小節第1&2声部の旋律を予兆として
殊に26〜28小節(縮小形として)、また54小節〜(縮小形として)の第3声部の動き
(59〜61〜)62〜68小節辺りの3・4声部の動きは非常に如実な、あの未完フーガ第2主題の暗示となっている。
あの第2主題は、第1第3、また来るべき第4主題との接着剤のために唐突に現れたのでも何でもなく、主要主題の遁走の進展と必然性によって着々と事前から頭をもたげていたものであるといえる。


2004年02月02日 (月)

※補記
そして、昨日Cp.6で述べたことは、そもそもCp.2でもすでに、当てはまることである(未完フーガ第2主題への前哨線)。

(他方、翌Cp.3では、今度は逆に未完フーガ第1主題・第3主題――ともに動きの緩やかで半音階性のつよい旋律――の方を、予告させている。
周到かつ有機的な下地作りである。それはまた別記するとして)

Cp.2で、未完フーガ第2主題へと向けて、どういう点が予告的であるのかといえば、
ここでもCp.6と同様、付点リズムが特徴的ではある――この付点の躍動感・推進力(近代自我的・ベートーヴェン的音楽性)を、バッハは当然あのCp.9へと、最も的確な形で至らせている。そしてこれが未完フーガ第2主題へと及ぶと同時に、第2主題と、来るべき第4主題(冒頭主題でもある)の自発的遁走を十分に得心させる形を生み出す親と、せしめていく訳であるが、こうした旋律の躍動性にとって有効な付点を効果的に用いてバッハは、(未完フーガ第2主題にとっての)key旋律の基を幾つか作り上げる。

・第4〜5小節(ファ--ソファミレミレド-レドシ-)
→未完f第2主題:ファソファミレ#ドの下地

・第6小節(ラシドレミファレミファミレドシラ#ソ)→未完f第2主題:レラレミファミレファミラミファソファミファソラ...=(4度下)ラミラシドシラドシミシドレドシドレミ...に同じ、の下地
また高音部(第1声部の)

・第64〜65小節(♭シラソファミレド#レ「レミファソ」--「ファミファラ」)→未完f第2主題:レラレミファミレファミラミファソファミファソラ...

・第76〜78小節(♭シラソ-ラソファ-ソファミ-ファミレ-シ#ド#ミラ)」)→未完f第2主題:ファソファミレド#〜ラソファソラ--ソファソラシ--の下地。



2004年02月03日 (火) 〜 02月04日 (水)

(他方、翌Cp.3では、今度は逆に未完フーガ第1主題・第3主題――ともに動きの緩やかで半音階性のつよい旋律――の方を、予告させている。
周到かつ有機的な下地作りである。それはまた別記するとして)

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これに就て。

いつかもざっと書いたことだが、次Cp4が「真」の転回形で有るのに対し、こちらは「調的」転回形である。
調的転回形の後にまたCp.4(真)が、ここに置かれ補強されることで、なるほどCp.9への自然必然性が高まり、また未完フーガ第2主題と、あるべき第4主題(冒頭主題再現)との絡みを意図しやすくさせている。
*未完フーガ第2主題との差異は、前進力と躍動性にみちた未完f2との絡みを演じる未完f第4主題が、転回以前(原型)なままであるのに対し、Cp4の方は転回形との絡みである点である。

さて今日のテーマの方に戻るが、
調的転回形であるCp.3であるが、何故これが未完フーガの半音階性際だつ第3主題と、上下動緩やかで荘厳なな第1主題を喚起させる、と直観されるのだろうか。

いつかも触れたように、最初の「調的」転回、つまり
第4小節――#ド--ラシ#ド(レ)(;本来ド--シドレ(ミ)で有る所)――の処理を契機に、
第5〜6小節――ド-シ♭シラ#ソラシド#ド、
13小節――レミ#ファソファミレ#ドレ、

など、ド(=C)・シ(=B)など同じ音の#乃至♭の脱着を開始している点である。
(これは勿論、未完フーガ第2主題でも頻繁に脱着される所の音である)

もうひとつ、未完フーガ第1主題をも彷彿させると感じるのは、何故か。
ところで元々、未完f第1主題とは、来るべき第4主題(冒頭主題再来)の変奏曲であるにすぎない。
だが何を目的とした――どこを志向した――変奏なのか。冒頭主題(第4)のほうが、躍動的な同第2主題との競演にマッチした個性であるのに対し、これの拡大的変形である第1主題の個性は、その中間――第2主題とも半音階性濃厚な第3主題とも呼応する、という性質を帯びている。


ところでCp.3に於る第1〜4声部の諸旋律の動きは巧妙にファジーで、お互いの可塑性を尊重しながら未完フーガ第1〜4主題のどれもに成り代わりうる、乃至暗示するに十分な運動を、連携プレーの中でゆったりと役割交換しつつ展開していくように思われる。



2004年02月19日 (木)

01/17記
Cp.11が、何故濃密に未完フーガと通じるか、に就てのさわり

Cp.11-第1主題…冒頭主題の第4次変奏(Cp.8の転回形)

Cp.11-第2主題…Cp.8で最初に登場する別主題(B)#の転回形ダッシュ

#…これは、Cp8に就て触れる際詳しく述べる

Cp.11-第3主題…Cp.8で最初に(第2主題として)登場する別主題(C――先日「落下の主題」と呼んだもの)##の転回形

##…これも、Cp8に就て触れる際詳しく述べる

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この、#と##に就て。

Cp8は前半の集大成ともいうべきCp11が四声三重フーガであるのに対し、三声三重フーガで構成されている。非常に物理学的秩序を感じさせる楽章である。

最初に登場する半音階秩序の不可思議な主題は、一見何かの目的のために便宜的に持ち込まれた、一見無関係の主題のようであるが、これ自身もじつは*Cp5(4声反行フーガ)冒頭で出てくる基本主題の変形の転回形――これを4度あげたもの*――といえる形の応用である。もっと言えば、その付点をとり去ったものを、原型としたものの応用・変奏なのであって、その証拠に実際、ここCp8自身に於て91小節から、この付点を取り去った形のものが、第1拍目にシンコペーションを伴って登場する。(91小節〜。)これが基本主題のCp3,4的転回)の再現である。

じつに論理的なつながりがあると私には思える。(それだけに、同時に演奏してもおそらくよく共鳴する)

*…それは、元はといえばCp3・4の基本主題の転回形――調的・及び真の――からおそらく生じているだろう...

しかも、このCp8の最初に登場するこの主題は、何とも不可思議で効果的な半音階性を付与されていることによって、当然未完フーガ第2主題を暗示させてもいる。
この半音階性の濃い主題は、ミュンヒンガーCD添付解説では、第一副主題とされている。

ところでこの半音階的主題は、39小節以降に現れる、私の言う落下の主題と、非常に呼応する。(ミュンヒンガーCDの添付解説では第2副主題とされている)

何故、この二つは呼応するのか。
また何故、落下の主題は、出現しうるのだろうか。
落下の主題は――ちょうど紙を、高い建物から落としたような線を描いて聞こえるので仮にそう名付けたが、面白いことにバッハの対位法の工夫により、他声部、主に低音部の援助によって、この主題は、まるで紙を投げ落とした窓から落ちていくものを見るようにも、逆に建物の下から落ちてくるものを見上げるようにも聞こえる――そもそも何処から生じたものなのか。これも、けして唐突に現れたものではないと私には思われる。
一番近しいところでは、この発想のもとになっているのはCp5(4声反行フーガ)の基本主題変形(同冒頭)及びその転回形(4小節〜)が、基礎であると思われる。この適度の躍動感は、落下主題の小刻みなリズムに移行しやすく、呼応もしやすい。
そしてまた、これらは先ほど述べた基本主題のCp3,4的転回の再現とも、呼応する(148小節以降)

すると、このCp8を構成している3つの主題は、――副主題とされる、無関係で便宜的な挿入と思われるものも含め――みな同じ親(A及びその転回形∀の系列)から生じているにすぎないことがありありと浮かび上がって来るのである。



2004年02月20日 (金)


フーガの技法を毎日毎日聴くのは、実のところ平均律を聴くより余程厳しいものがある。平均律の時は――記すことは少しは大変であったけれど――毎日が楽しかった。しかしフーガの技法にとことん付き合うのはまだシンドい面がある。
音楽それ自身の巨大な重みと、一瞬たりとも気を抜けぬ精巧度の問題だけでもなかろう。あの長大かつ凄絶な世界観、あの精神世界である。

それとバッハ自身の音楽性が、たとえば平均律第一巻などと較べて二巻の世界がそうである以上に、いよいよ人生の終局フーガの技法にあっては、純-音楽的な自発性というよりはむしろ合理的・物理学的・思弁的自発性(生命秩序といってもいい)ともいうべきものが、彼の音楽の本質を担っており、そのおそるべき科学的有機性が「すなわち音楽的」自発性となっている、という桁外れたたくましさと厳しさに貫通されているために、それと長い時間対峙しているのは、さすがにしんどいのである。

しかし勇気もわく。バッハの音楽は、つねに生み出せ、構築せよ・構築せよと言っている。結局は構築すること以外に、ひとが救われないことを証明している。
逆説的に響くかもしれないが、或意味で、半音階性の極意とも言えるバッハの音楽性ほど、懐疑性を露わにしたとも云うべき表現もこの世に他に無いほどだが、それは言い換えればこういうことにほかならない。
懐疑するにしろ、徹底的に構築せよ。構築し、解体し、再編し再構築する、そうしてただひだすら構築する以外には、懐疑すら成り立たないのだ、そう言うかのようなメサージュに充ちている。懐疑もまた、徹底的構築作業なのである。
そうやって不可知論にも、安易な相対主義にもうち勝つように、バッハの音楽は、フーガの技法は、言っている。
どんな哲学者よりも社会学者よりも、宗教家よりも真正な、弁証法的摂理――「真に」弁証法的思考と精神とは何かを、彼自身の音楽を以て全身全霊、体現してくれているのだ。ほんとうに貴重な宝物をのこしてくれたのである。

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明日から第一曲目からの分析に入りたい


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