2002年12月12日 (木)

明け方、母親も私も猫に起こされて起きたまましばらく眠れなくなってしまった。
そのとき、母親がテレビをつけたら、NHKで花火大会の模様(ドキュメンタリー?)をやっていた。とてもきれいだったので、半ば朦朧としながら見ていた。羅もういい加減眠くなってきた頃、ラヴェルのボレロが花火の競演風景の背後に流れていた。たしかに風変わりなうつくしさを持つ曲である…。

ラヴェルの音楽はドビュッシーとどうちがうだろうか。弦楽4重奏などは、この点あまり差違がないかもしれないが、オケやピアノ曲などでは、ラヴェルには多く一種ぞっとするものがある。それは滅私的な快感の一種ではないだろうか、とフッと思うことがある。そしてそれは或意味でエゴ(もしくは自我肥大)にも通ずるのである。そういう密かで したたかな狂気である…。己を消し去ろうとする(ことに快感を覚える)自己は、ややもすると他を抹殺することにも馴れることがよくある。そういう種類の、自我の「透明さ」なのであろう。自分の影を隠滅するという事は、時に奉仕ともなりえ、時に自虐と裏腹の他者の実存否定にもなりうる。。

言い過ぎかもしれないが、ボレロのじわじわした狂気なども、そういう面につながる要素を持っている気がするのである…。
言い過ぎだとしても、少なくとも私は彼の音楽は少し意地悪だと思うのである。。。扇動しつつ罰する、風な或意味女性的?な側面もあるかもしれない。
ピアノ曲などでも感じる。
(スクリャービンなどの狂気の方が、まだ「自」滅に向かっている。)

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 2002’7/22

 Schumann/Violin Sonate(A-moll) op.105/(d-moll)op.125について――
 #Album Fur die Jugentに似ている点

 Vn Sonate はちょうどクライスレリアナ、グランドソナタなどピアノ曲の全盛期の
 音楽性と、最晩年の厳選された、殆どElementのみによってなりたつピアノ曲(殊に
 短調の作品群)のもつ、simpleさと同時に精神的異常性(瞑想・沈潜しがちにも拘らず
 透明-硬質なる狂気*)の兆し を多分に孕む?
 Album Fur die Jugentの作品番号、年代を調べてみたく思った。
 (*――晩年のVnConzertの、耳鳴りのような破綻の持続、ほどではないが…
  むしろSchubertの弦と、及びBeethovenにも通じる、ある種の虚無。また、くるおしい情熱)

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 G・Gould と Juilliard String Quartet による Schumann弦楽四重奏曲op.47

 これに於ける緩徐楽章でのGould=Brahms間奏曲集の演奏での、他意のなさ
 ――Romanticismの良質な部分に対する拒絶や黙殺といったもののない、率直で、
 早熟なあの姿勢を彷彿
 他方、他のUptempoの楽章においては、Bach――Goldbergでの演奏を彷彿するような
 音律に対するControlと自発的運動の再現・体現能力の圧倒的な確かさ。媒体者として
 の過不足なさを示す、急速で的確な演奏をしている。
 (それでいてSchumannの一種独特の 飛翔的で錯綜したRomanticismの要素を損
 なわない、等々)
 だがあの多分にprestoな諸楽章は、おそらくSchumann自身のtempo指定より速い
 はずである!(笑)Gould以外のPiano担当者には、弦楽器のあのup tempoなトレモロ
 と完璧に同時的な音律を、Pianoの打鍵において刻むなどという芸当は不可能な技に
 思われる…
 緩徐楽章の‘開始’は相応な気がする。が以後についてはもうすこし緩くたっぷりとし
 た 溜め や休止が、欲をいえばほしい気がする。

 追記) Schumann弦楽四重奏曲op.47について
     Beethoven後期弦楽四重奏をも想起させるSchumannの弦4声の交錯箇所。
     (第3楽章、ことに緩いTempoの部分)――瞑想性 と、精神性。同時に
     きわめてSchumann的夢想性――
     或いはBrahmsの弦のそれ。BachーBeethovenを基調とするが 同時にRoman
     派の ある種極限的要素。



 2004'02/18

ここ数日は真夜中でも春一番が吹き荒れて、家中の窓ガラスがガタガタ踊っている...

眼の調子はまだよくなかったが、兄も母も出かけてしまったので、昨昼留守番にNHK中部の「クラシック倶楽部」を見ていた。木曽音楽祭である。木曽福島の、総檜のお寺だったか神社だったかでひらかれた。

私が見た時、ちょうど日本人ばかり4人の編成で、ナント、シューマンの室内楽を!やっていたのである。かなりレベルの高い演奏なのに驚き、薄目を開けながら第四楽章までじっと聞き入っていた。

自宅のTVで聴いた限りでは、バランス上、ヴィオラの音量をもう少しあげてほしかった気がするが、全体にテンポ、リズムアクセント、弾力、4人の呼吸と「溜め」、緊張感など、あのシューマンのP四重奏曲に相応しい演奏だった。
さすがに第三楽章は、日本人らしい衒い?からか――シューマンのロマンチシズムを、いわゆるロマンテイックなもの、と気恥ずかしく感知するのであろうか――やや素っ気ないほどのアップテンポで処理しており、あのシューマンの魂にしてようやく訪れえた、稀な平安の情緒を、あっさり省いていた感があるが、全体としてかなりレベルの高いすばらしい演奏であった。とくに第四楽章の弾力と緊張感、意気投合には感動した。

野島稔氏のPianoの澄明な音色、また音の粒だちは、すばらしかった。きわめてシューマン的フレージングでのリズム感なども、早いパッセージでは出しにくいと思うが、なかなかたっぷりとしておりみごとだった。日本人であのような深み・厚みのある澄んだタッチと、実在性ある音の拡がりを同時に持つのはむずかしいと思われるが、努力の人である...

極東の小さなホールに、日本人のみによるあのように生き生きしたシューマンの音楽が、鳴り響いていたひとときがあったのだ



 2004'12/01

点描画法と分割描法

先日土曜日早朝のTV美術番組が、セガンティーニのスイスアルプス風景画と分割描法について触れていた。
恥ずかしながらこれまでセガンティーニのごく一部の作品―(象徴画・世紀末画展などで目にした、その路線の彼の絵画ごく数点)しか知らずに居り、そうした方面自体にさして関心の無かった私には、長いこと取り立てて向き合う画家でなかったのだけれども、先日ようやくTVの画面を通してではあるが幾つもの彼の作品――若い頃独学で画を学んでいた時期の、幾らかバルビゾン派〜写実・ロマン派めいた仄暗い色調の美しい作品から、アルプスの強烈な光線と自然豊かな風景を描写した作品――に触れ、驚かされた。

セガンティーニの細密な自然描写法、分割描法は、点描というよりは線描である。

http://www.ohara.or.jp/pages/tenji_pages/tenji_segantini01.html
http://www.olff.net/swissinfo/Segantini.htm
http://www.segantini.it/quadri/mezzogiornosullealpi.htm
http://www.segantini.it/quadri/lavita.htm
http://www.segantini.it/quadri/lamorte.htm
   *******************
[http://www.segantini.it/Opere.htm]

比較すると興味深いが、スーラやシニャックの点描画法が描き出したものは、「光」景であり、つまり光のトーンそのものであった気がする。

http://cgfa.sunsite.dk/seurat/index.html
http://cgfa.sunsite.dk/s/s-4.htm#signac

たとえばその舞台が公園や水辺など戸外であれば、その描かれた対象および主題は、人物でもなく風景ですらなくむしろ「戸外の光」そのものであり、分けても紫外線を、描出したのだとでもいえる程である。
またホールやアトリエなど室内の光景であれば、主役はこれまた人物たちというよりは、彼らを照らし出す照明であるとともに陰影である。
何れにしろ彼らの手法に於ては、風景そのもの、殊に人物たちは、光の背後に後退し薄められた形で存在し、どれもとってつけたように――まるで立像か殆ど物体さながらに――配置されている。それは謂わば照らすものとその作り出す影とを抽出するために置かれている、といった恰好である。けして彼ら自身がモデルでもなく主題でもない。当然ながら、光を語るための手段なのである。
人物たちはどれも、自然な所作を停止し、その挙動の前後は、ちょうど残響をそぎ落とされたホールでの楽器の音のように、きれいさっぱりはぶかれている。しなう腕や、服の袖のしわまでもが、時間と所作の流れの経過を物語るよりは、むしろ文様のようにその場と時に滞っている。
また雲の行方や木漏れ日が刻々織りなしていたであろう翳の揺らぎさえ、その余韻をものがたる事を差し止められている。こうした非連続性――時間と動勢とを犠牲にすること――により、任意に切り取られたほんの「一刻」が有した光の真実を、彼らの或る種科学的な眼は、カンバスにしっかりと保持させたのだ。

けれどもこの払った犠牲、自然の連続性、というものを、光の描出の真実と両立させる方法はなかったのだろうか、と思う時、それ以前の印象派の手法のほうに、やはり惹かれてしまうのをどう仕様もなかった。

だがセガンティーニの線描によって描き出されたものは、光と同時にそれを受け浴びて「生きている」地上のものたち、屹立する山々、流れる雲、また輝く水を飲み、山羊や牛を牽いて生きるひとびと自身でもあるのだ。
彼は描き出すべき二つの主題、光という生の「媒介者」とこれを享受し生きる者たち、「受肉者」とを、しっかりと同居させた。

人を圧倒するほどの広大な風景、創造行為以前に、もうそれ自身いやというほどの《光》に充たされ完結的に存在する山岳風景というものを、多くの画家はあえてカンバスに描き出してこなかった。主に室内から再出発した近代絵画の歴史自身もまた、そのように進行して来なかった。広大無辺な風景は、それ自体完成されており、強烈な光を受けつつもみづから放ってなによりも充実し、圧倒的にそこに存在している。
この強烈さは、写真として切り取ることは或る意味容易でも、これと差し向かい、丹念に描き上げていくのに適当な対象では、おそらくなかっただろう。
だがセガンティーニはこの孤独な作業を地道に遂げていた。

線描によると、点描とは違い、「自然」と「生命」は、光という“媒体”に負けることなくカンバスの中にそれ自身の姿を立たせやすい というのは、面白い。
スイスアルプスの地を覆う草たち、それらは、文字通り、輝く「線」で埋めて行かれるべきであろうというのは考え易い。それはたしかに、点で埋められるより一層自然なことだろう。光は、点としてよりむしろこれを受けて浴びる草みづからの姿を以て物体としての細密な線を、実際私たちに印象づける。
だがセガンティーニは、屹立する遠景の山脈の描出にも、この線描という手法を延長させた。それにより、緑草に覆われた山面は必然的にナチュラルな風貌をかもす。
が、露出する岩肌のがわにも、線はじつは或る種象徴的に、存在している。肉眼というよりは、それはむしろ望遠レンズ、あるいは顕微鏡のトリックを部分的に絡めたような効果といっていいかも知れない。
岩肌のみならず彼は面を以て反射するもの――雪や青空――にも分割描法をあてはめる。がそれはたしかに奏功している。
じっと相対していると目の前が暗くなりそうなほどの、あのスイス山岳の強烈な紫外線は、細密な線として描かれても尚――否、線として描かれるからこそ(?)――そのデリケートでたくましく圧倒的なまばゆさを刻み、またこれをみづからの身体に刻ませ、浴びる地上のものたちを生かす。

ここでは光も《存在》であり、光を享受するものたちも同等に、“背後の時間のながれとともに”、存在している。


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