2004'02/14

Aide-Memoire part2を作った。

音楽;楽曲分析・演奏所感・その他雑感と、
それ以外:芸術一般、哲学・人文・文芸批評etc.のジャンルを分けることにしたのである。

楽曲に就て、連載ものでひとつのテーマを居っている際も、何か全く別のものを別の位相や角度からフイっと記したくなる、しかしそれ迄の楽曲分析記述と同じ場所には飛び入りさせたくない気もする、ということがあったので、思い切ってCGIを分けた。

カレンダー式でないので、たまの書き込みでも何ら呵責もなく、OKである。



2004'01/31

「麗子の書斎」とうたって、これまで私のやってきたことは一体何だったんだろうと時折思うことがあった。
yahoo登録は哲学のジャンルに属してはいるけれど、最近やっているのは寧ろ芸術――音楽や美術のことに関してばかりだった。
だが、ここの所で自分のしてきたこと、したいことの全体の趣旨がようやく理解できた。私というもの、表現したいことの全容が掴めだした気がするのである。
それで、HTMLに記する「麗子の書斎」としてのdescriptionも、あらためてこのように記すことにした。
"現象学,解釈学,弁証法的思考,反省的思考の哲学,現代宗教哲学的思惟を音楽・美術などの芸術作品鑑賞を通して、また長編童話や大学ノート風小説の創作を以て追求する。"

これで、来月からものろーぐを、芸術人文関係の日記 及、当雑記帳とは別に、文字通り「ひとりごと」、公式の表現から洩れ落ちたためいきのはけ口として開始することにする...



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〜創造と救い――芸術と宗教〜

2004'02/23

Aide-Memoire1の方で、先日このような事を記した。

>バッハの音楽は、つねに生み出せ、
>構築せよ・構築せよと言っている。
>結局は構築すること以外に、ひとが
>救われないことを証明している。
>逆説的に響くかもしれないが、
>或意味で、半音階性の極意とも言える
>バッハの音楽性ほど、懐疑性を露わに
>したとも云うべき表現もこの世に他に
>無いほどだが、それは言い換えれば
>こういうことにほかならない。
>懐疑するにしろ、徹底的に構築せよ。
>構築し、解体し、再編し再構築する、
>そうしてただひだすら構築する以外に
>は、懐疑すら成り立たないのだ、
>そう言うかのようなメサージュに充ち
>ている。
>懐疑もまた、徹底的構築作業なのである。

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宗教的分野として作曲されたものは勿論のこと、それ以外の分野の作品に於ても、多分に宗教「性」にみちた作品を残したバッハは、何故創造すること、精巧緻密な構築作業にみづからを捧げていったのだろうか

多くの宗教は、はからい、行業にではなく、祈りに救済があるとする。
仏教では、解脱(乃至、明知)は行為によって実現され得ないものであるという。『解脱はつくり出されるものではない』と。仏教で云われるそれは、「解脱が結果であるというのは、未だ存在しない新しいものを獲得する、という点で云われるのではなく、束縛の滅亡、=元来具わっていたもの(本来性)の成就として云われる(現れる、ことなの)である、という意味に於て、元来語られるし、そうであるべきである。
だが、それらの意味が、しばしば解脱を目的とした行い(遂げること)自身よりも明知そのもの、解脱と、及びその「境地」自身に力点の置かれた言説を説かれる、ということになりやすいように思われるし、より大衆化された次元では、ひたすら教を唱えることで救われる、といった理解に敷延されるようである。
またキリスト教では、神をまねて何かを創り出そうとするのは人間の傲りである。祈りによって、ひたすら信仰によってのみ人は救われるのである、といった言説にすらなる。
こうしてしばしば、宗教では、業――苦行や祠祭のみの意味ばかりではなく――創造的行為(獲得せんとする営為)そのものを、忌み、あたかもそれと対峙するものとして静慮とか、止観、そのものに意義が置かれる、ということが、ありがちである。

しかし少なくとも宗教哲学的知見から言えば、仏教では、悟り(本来性成就)としての直観の生起から、「行為」を切り離したり、敵視しているどころか、むしろ解脱成就も、間接的原因乃至、副次的原因――明知そのものが直接的原因とした時の――としてもいるのである。(哲学でいえば、動機付け、とされるといってもいいであろう)
だがこうした点が、――徐々に大衆化される程、或いは福音されていくにつれ――ないがしろにされていきがちなことは否めず、むしろ敵視さえされかねない傾向をもち、これが宗教というもののあり方の特質にすら、なっているように思われる。

大衆化した宗教は、むしろ創造・労働(地道な生産や技術の向上)と祈りとを分離し、その融合に救済を求める、という形を、人々に“あえてとらせない働き”すらしているかにみえるのである。
信仰に於てはただひたすらひれ伏すことと、他方日常生活に於ては貧困の中で物を乞うか、さもなくば他人の構築物を破壊するに及ぶ行為を繰り返すのみ、そうした、信仰と日常とのふたつの側面が、救済(すなわち労働として合一化した意味と形)として融合することなく奇妙に分離・両立したままのひとびとの姿を見ていても、宗教が如何なる影響をもたらしているかが伺える。

私が宗教に関心を抱きつつも或る地点から宗教的な方位との分岐点を感じる思惟観念のひとつは、このような問題であり、また芸術と、宗教との間で結局の所芸術――創造行為を専ら尊重し最大限にこれを生きることを通してこそ至る解脱と明知――のがわに軍配を揚げるのは、主にこうした問題意識からであると言ってよい。
またそれは、宗教それ自身に見い出す宗教性よりもむしろ芸術(創造行為)に見い出す宗教性によって救われるし、また国や文化を超えて違和感無く専ら自発的に身近に感じうる要因ともなっている、といってもよいであろう。
創造行為「に於て」もしくは創造行為「を通して」見い出す、さらには創造行為へのひたむきな「追従を以て」見い出しうる宗教「性」のほうが実際はるかに本来性への帰還という恩恵と救済力をもたらしうるということでもある。

何故なら芸術に於ては、創造行為と明知は不一不二であり、創造的自発性と構築作業という努力[なしに]涅槃も明視も純粋な祈りもありえないからである。
無論そこ――自発性の発現と超脱作用の恩恵の享受、みづからとおのづからの一致と自由、すなわち本来性の回復――に到るまでには、多くの場合がむしゃらな努力を要する。がそれは必要不可欠の過程であり、(自覚的であろうと無意識のうちにであろうと)「動機づけ」でさえあって、これなしに最高我の合一などありえないからである。また、このような構築作業・構成作業は(一種の「労働」でもあるといってもよい)、芸術世界に於ては――殆ど、といっておくが――敵視(蔑視)されることもない。
多くの芸術作品から、(それが宗教的Genreであるなしに拘わらず)或種の宗教性の体感――解脱感、瞑想感、開放感、また至純な祈りの境地、救済etcetc.――を得られるのは、もとよりこうした自我の構築作業の営為と自発性の恩恵との間の#えもいわれぬ相互作用、##芸術そのものの奥義 に依るものでなくして、何であろうか。

ぜんたい、宗教というものは、或種の静観、スタティクな境地を至高の地点であるとする向きが共通してあると思われる。
それはしかし、私にしてみれば、それこそが実際「至高である」という理由によるというよりはむしろ、元来宗教(性)というもの自身が、自我がスタティクな境位に至った時点で発生する観相だからである、という方が正しいのである。だからといってそれが価値的な意味に於ても至高であり、同時にそれに至るまでの営みよりその境地自身(静観性自体)に最終的な意味があると断ずるとすれば、それは宗教的地点と枠内に癒着して生じがちの発想、ものの「見え」方であり陥穽であって、宗教の驕りだと言うべきであろう

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2004'02/24

補記

>多くの芸術作品から、(それが宗教的Genreであるなしに拘わらず)
>或種の宗教性の体感――解脱感、瞑想感、開放感、また至純な
>祈りの境地、救済etcetc.――を得られるのは、もとよりこうした
>自我の構築作業の営為と自発性の恩恵との間の
>#えもいわれぬ相互作用、
>##芸術そのものの奥義 に依るものでなくして、何であろうか。

#・##…我われが人間(相対的存在)である限り、自発性の発現〜本来性の現出は、――それはまた〈世界〉という体験は、と言い換えられる――もともとこうした構成作業を通してしか至り得ないのである。それ以外の方法やら境地を考えようと発想するのは、またこうした静観的「本来性」に永遠に即したままで居ようとするのは、といってもよいが、己があくまで相対的存在、人間であることを忘れているか忘れようとしているのであって、それが可能であるかのような幻影を抱き続けるのが宗教的発想の陥穽である。

宗教が一様に、相対的存在を軽視するのと同様、労働=〈図らずも〉の世界とその恩恵「に至るまでの作業」;構成作業を厭い、###「非-本来的」状態として軽視する傾向にある のは(この二つは同じ根から生ずる)、宗教的ドグマの裏返しであり、けして偶然ではなかろう。
これはまた宗教的ドグマと或る種双子のような関係にある不可知論的・破壊主義的哲学の影響下にある一部の芸術も同様である。



>宗教が一様に、相対的存在を軽視する
>のと同様、労働=〈図らずも〉の世界
>とその恩恵「に至るまでの作業」;
>構成作業を厭い、
>###「非-本来的」状態として軽視する
>傾向にある

###…宗教に於ては、とかく行い・はからいは自我の悪として語られエゴイズム、非-本来性としてのみ処理される傾向にあり、
いわゆるエゴイズムによる〈我田引水な世界〉としての、自己肯定のための構成作業――サルトルのいう「不純な反省」の作用――と、すぐれた芸術等に通じる反省的=弁証法的な構築作業(=開かれた主体の営為として必然的に相互自発性と本来性現出の動機付けとなりうるようなそれ、言い換えれば解釈学的に肯定されるような意味と方法でのそれ)との区別を、あまりしないで来たと言える。

地味な建設的作業に対し批判的・乃至、犬儒的に構えるこうした傾向は、不思議と近代哲学の不可知論的空気にも通じている。それは近代哲学もまた、――宗教の本質を突いているようでありながら、――なおこうしたドグマと共通した根を保ったまま脱皮しないでいたからでもあろう。


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〜バッハ考;アファナシェフ考;グールド考〜

2004'02/26

アファナシェフが平均律クラヴィアに寄せた「バッハへのオマージュ」:‘狂気’から

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狂気

バッハの音楽のもつ射程はあまりにも広く、バッハ自身、その領域についてはほとんど何もしらなかった。どういうわけか私は、狂気の誘惑というものに対してバッハはかなり鈍感だったのだと信じている。
少なくとも、ライプツィヒでのバッハ・コンクール(1968)と今回のレコーディングの準備のために参照した多くの本には、バッハ発狂のいかなる痕跡も認められなかった。
……(略:ここでアファナシェフは、友人宅を訪れた際偶然見出した、モスクワ音楽院のあるピアニスト――情勢不安定で帝国主義・全体主義の酷な残骸が「雪解け」後もまだ満ちあふれていたモスクワから西側へ離れることを、他の多くの芸術家同様、望んでいたピアニストであったらしい――がドイツ滞在中に行ったリサイタル録音テープに就て触れていく)
...
ただバッハの前奏曲とフーガだけは例外だ。
あたかもバッハの前奏曲とフーガには狂気のための余地が存在するかのようである。
(狂気、破綻、孤独、ミスタッチ、不正確なリズム、そして才能を枯渇させ、友人を失い、最終的には自らの人生まで失ったピアニストの哀れな苦しみ。バッハはすべてを受け入れ包む。裏切りさえも。)
平均律第1巻の最後の前奏曲とフーガには狂気の気配がある。...

としている。

・・・・・・・・・・・・・・・

バッハには狂気が見出せないと言う時、彼は正しい。だがまた、平均律第1巻の終曲(24)prel&fugaには狂気の気配がある、という時、これも正しい。

バッハは奉仕的な程勤勉に、ひたすらに構築した。アファナシェフも「『自己犠牲』に至るほど極度に個人的に楽曲へ取り組むことによって達成され」うるところの、謎、すなわちバッハ作品の無限性、に言及している。
――この自己犠牲的、という言葉の解釈を、「個」を犠牲にするという意味では断じてない、と注意深い注釈を沿えながら――。

そして平均律は、身震いと畏怖の念、尽きることのない情熱と敬意をもって取り組むべきものであるとも語る。
バッハの楽譜のどんな一頁も「『特性のない男』のように途方もなく大きい」、「そしてすべてを内包する、協和音と不協和音の、数学的ともいってよい巧みな連続であり、その唯一の目的は、物事に束縛された私たちの荒涼たる物憂い存在を浄化することにある」、「その調和は普通でありながら並外れている」と言う。

アファナシェフは、平均律の音楽性、また平均律に見いだせるバッハという人間像を非常に的確に認識している。それはまた、全体にややスタティクではあるが地道で高度に思索的な姿勢として、彼のバッハへの広大なる敬意の表明でもあるように、彼自身の同曲集の録音にも現れているように思われる。

私自身、こうして多くの日数を要して、フーガの技法を聴く時、アファナシェフのそれとも通じる所の多いこうしたバッハ感は、ますます深いものとなっているのを感じる。

バッハは勤勉である。ひたすら自発的に奉仕的な、構築作業。それは非凡な努力の途方もない連続であり、バッハという個から発している純-自発性のたまもの――人格的エネルギーの純な発露――であるとともに、広大無辺、非-人称世界と云うよりはむしろ全-人称性とも云うべき、そして畏怖にみちる程に立体的な構築物の成就を動機づける自発性=生物学的・数理学的な摂理ともいうべきの自発性への合一体である。
すなわちバッハの建造物とは、至純な個の自発性の発露を通しこれを鼓舞し、否定しつつも誘い超出していく運動の連続的結果としての、普遍的自発性の秩序との合致、の姿である。
こうしたひたむきな構築的運動の原動力となった力は、ニイチェ的な力への意志・権力への意志ではない。本質的に、既成の権力への抵抗の裏返しにすぎぬエゴイズム(自我肥大)のエネルギーではない。他の強大な権力を否定するあまり自己の権力の拡大を肯定しみづから助長し、結果破綻する、といったエネルギーではないのである。
だから、それは他に破壊主義的なエネルギーとして作用することもないし、そのエネルギー自身のもつ自己矛盾によって或る時点から自爆性自壊性へと転化する(自己自身を破滅に追いやる、謂わば呵責のある)エネルギーになることもない。すなわち仮面を要求するような永劫回帰的エネルギーに終始することもない。
またそれは、不可知論的な逃走の磁力になることもない。

それは表現としても精神としても、ただひたすら自己と他者のすべての自発性をして必然的統合へと向かわせるのである。
そうした意味で、バッハの音楽は(バッハ自身の筆と解釈によれば)ただ神のみのためにある、Service&Sacrifice*の連続体であり、結晶である。
*…この場合のService&Sacrificeは、私見に依れば自己犠牲が専ら犠牲(いけにえ)のまま終わるもの、レヴィ=ストロースがその贈与論で未開社会に於て事実上肯定してしまった、非-人格的・奪-人格的種類のもの、ではない。それどころか逆にこの奉仕によって実は自己自身もが他者と同時に救済される(乃至、世界の出現とともに本来的自己も現出する、という類の)或る種の奉仕=参与である。
こうした意味に於て、バッハの音楽は、基本的に狂気(破壊及び自己破綻)と無縁である。

だがその音楽とそれを生み出した実存が、絶望や破滅、懐疑や破綻、狂気を「知らない」性質のものかという問題は、また別の次元として存る。
それどころかバッハの音楽は――アファナシェフの言う平均律第1巻24を含め、同巻の他の幾つかの作品、また第2巻の多くの作品、無伴奏チェロ組曲、殊にフーガの技法などは――まず途方もなく拡がる深淵なる虚無、また底知れぬ絶望と懐疑にみちた世界ですらあり、破綻や狂気をも嫌と云う程熟知しているはずのものが、並外れた根気良さで以て創り出した音楽であると言っていい。
全てを知り尽くした者...それでいてこの創造者自身が破綻を免れているのは、このひたすらに根気強い構築作業そのものが、或る種彼自身の虚無と絶望の「救い」になっている、ということでもあろう。
バッハ自身、このひたむきな努力を以て或る種普遍的統合体の自発性との出合いと合体という恩恵を必ずや受け得る、ということを体得し、また構築作業の現場のあちこちに於てもおそらく確信し得ていたからである。
バッハのエネルギーは全人格的な自発性にささえられ、もっぱらこれに即していたからこそ、その裏に在る底無しの絶望と狂気――己自身の破滅のエネルギー――をすら、その不断の運動体のさなかで可能な限り獲りうる俯瞰的視野と同時に、次々と生まれいづる個々の素材の帯びる実存的運動エネルギー(生き生きした生命体)への的確な斟酌とを以て克服し、その運動と運動の結果としての圧倒的構築性を、可能にせしめていたのである。
バッハの音楽とは鈍重な勤勉によるのでなく、寧ろ全てを知り尽くしつつこれを不断の建設性を以て乗り越えたものにしてはじめて到達可能な、至純で強靱な統合体としての精神世界である

                    =====

2004'03/01

グールドの運動性は、不可知論的逃走と遊戯として捉えるべきなのか


・・・・・・・・・・・・・・・

グールドの音の運動体は、逐一がすぐれて粒立って能動的、実存的リアリティに充ちているが、乾いている。そして、急いている。
それはたしかに現代人のものである。が、それは不毛地帯の乾きであると言うよりは、自己肯定「=」他者否定的、さらには自己拡大「=」他者殺戮的であるような意味で都会的・競争社会的な乾きというものを本能的に避ける人間、避けなければ己の生き物としての純度を保てない、という種類の人間の乾きであって、他者破壊的であるがゆえに自己破綻性を孕むような意味での生のエネルギーに充たされることで存在しつづけ得る人間のそれではない。
他者破壊的であるがゆえに自己破綻的な意味をも内包する生のエネルギーに充満した世界から、自己をもっと自由で素直で本源的な世界へと誘導するエネルギー――それは芸術世界であり、殊にバッハの構築的運動世界が象徴的に及ぼすエネルギーである。それは単にタコツボ社会的なものや予定調和的なものであるどころか、逆に自己・他者否定の対立拮抗と、調和的対話の裂け目、葛藤・緊張感をも頻繁に抱えつつ、これを乗り越える、寧ろその裂け目の及ぼす変奏や他主題の第三者的介入が思いも寄らぬ新しい秩序、各声部の自然な‘主体性と自発性’の再構築の「磁場」となるような仕方をすら演出しつつ)構築物を、創りあげる…そういう共生的自発性と運動性のエネルギーである――に即させるのである。
この世界は彼を、より自由に本源的エネルギーに息づかせる。彼はそれに積極的に即し、またみづからの全身体もこれを不断に内側から生み出しつつ生かす。
こうした否定性を含みながらも脱-犠牲的エネルギーによって動かされる運動性と構築体のみが彼自身を不毛世界から逃走させ自由に遊ばせる。
グールドの音楽の中に、乾きとともにある逃走性とは、むしろそのような不可知論とディオニソス的エネルギーに対して逆説的意味合いの込められた《現代的》なものであると思われる。

グールドの音楽性は、‘稀なる生のエネルギーに支えられた世界とはいえども畢竟ニヒリスティクでエゴイスティクな力のエレメントに終始する’といった世界に、同意しみづからもこれを生き抜くことのできる自我から生じる音楽性ではない。寧ろその逆であり、自己を自由に生きさせ、みづからも生み出すとともに生かされると感じる所のものは、もっと自己及び他者、存在たちへの或る種の敬意と尊重にみち、対話と否定性(厳密な対峙)を含みながらもそこからたえず必然的に生じるクリエイティブな多元的自発性を裏付ける、また裏付けようと努力する、不連続の連続的運動性や構築性にささえられた緊張感のある共生的世界である。そうした世界でこそ彼は自由な呼吸ができ、無窮動的運動体として生きられもするのである。
バッハの構築したひたむきな芸術空間がなければ、ゲノムのような彼の休みなき運動も成り立たないし、自由な呼吸の空間も生まれ得ないのである。
ニイチェは芸術の魅力を知り、「もっと悪く」、と言うが、バッハの世界には「もっと悪く」は無いのである。(それはもっと悪く、を“知らない”のではない。知っている人間が、もっと悪く、「とは語らない」のである)
バッハの力と生の根源は、ニイチェの力と生の充実、それより深い位相からのものである。
バッハはその音楽の中で――たとえどんな遊戯性のつよい音楽の中でも――犠牲者を出していない。どれか或る音や或るフレーズのために、いけにえになったり、単なる踏み台=手段としてのみ終わらせられる不遇な音(orフレーズ)を、存在させておらず、またそのような周到な意図を汲んで演奏されることも望んでいたであろう。
どの声部も等価値に注意深く演奏されること、どの声部が自己自身であっても、われの声部がどの他者の声部と交換されても、同等に価値付けされていくと得心がいく、諸声部互いのその主体性と自発性とが時には不協和ぎりぎりの鋭い拮抗を生じることがありつつも、各自のモティフの意外な変換によって折り合いを付けつつ、オムニバスの有意味性を獲得し乍ら運動の中で可能な限りひとしく、価値づけされていくのを、また実際巧みにかつ自然に透徹されているのを、体感出来るよう、確かめながら奏でられることを望んでいたであろう。
そして実際グールドはそれを実現している。そこに彼の音のかけがえのない有機性が生まれるのである。彼の音の乾きと、停滞のなさばかりを聞き取ることで、彼の音の「有機性」、すべてにわたって神経の行き届いた緊張感ある実在性と有機性を聞き逃してはならないのである。こうした強靱なほどの有機性は、一方的に他者犠牲的(or自己犠牲的)、非-統合的な音楽性、生まに弱肉強食的な衝動過剰や衝動不満足のエネルギーをじつに短絡的・動物的次元のままつねに抱えたような音楽性、また自己及び他者の自発性を殺すべく作用するよう一義的で一方的な命令・禁止の秩序で脅迫的に成立する音楽的土壌から生まれうるものではない。むしろそのような短絡的情動の次元、乃至はこれを実況中継的に暗黙同意するだけの近視眼的世界を、丹念に克服した地平から生じる「素直さ」と強靱さによって支えられる有機性である。
彼の音楽に於る運動の「遊戯性」もまた然りである。グールドの遊戯性とは、弱肉強食的な土壌から彼を解放させる位相に、より厳密には解放させて行く運動性を「通して」生じる、他意のない種類のもの(開き直りも哄笑もないもの)であり、またみづからもその自発的運動性を刻々成就するよろこびを表現する種類のものである。
その自由な運動を追う影があるとしてもそれは競争社会の他者不信から来る、或いはまた彼を取り巻く得も言われぬアナーキーなエネルギーから逃走する彼自身の壊れやすい自意識の運動のいたたまれぬ作用であっておそらく彼自身がよく知っているところのものである。
それは彼が現代人であってもけして都会的人間でないことを証している。

バッハの音楽はディオニォス的ではない。それはディオニソス的なものを含まないのではなく――ニイチェ自身言うように、芸術とはアポロ的なものとディオニソス的なものの二重構造である――その丹念な構築によってディオニソスを超克するものの音楽である。その超克者はアポロというよりは人間(それも戴冠せるアナーキではなく湧出する多元的自発性)である。
そしてまた、グールドに生を享受させ戯れさせるのもまた、そうした世界への運動である。
他のものごとの成り立ちと同様、芸術に於る構成作業も、存在欠損とその充填(補完・若しくは超過)の作用という無限運動によって生じるのであり、だからこそ弁証法的なのではあるが、だからこそ、弁証法を突き詰めるということは差異化を知らないということになるのは一面的見識である。それは古型の弁証法だけをモデルにしているのである。差異化もまた弁証法の過程であるに過ぎない。
欲動のダイナミズムの律動性を、如何に脱-犠牲的・非-暴力的なダイナミズムへ、みなが納得し積極的に同意しつつ関与しあう、連携的自律運動性に生きる多元的自発性のダイナミズムへと昇華させていくか、弁証法的再構築の作業に、まさしくそれが問われているのである



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