〜現代思想と社会//テロリズム(破壊主義)と現代思想・哲学の潮流〜

2004'03/03

麻原の控訴。次の弁護団は麻原を精神異常者と見倣して無罪をねらうに違いない。
次回の麻原法廷までに、精神異常者といえども極刑に処することが出来るようなシステムにされておきたい。
精神異常者でも人を殺すに当たっての是非の判断は出来たという判定さえなされれば、死刑もやむなしとする、という法制度が出来るべきであろう。
精神異常者とて犯罪を犯さない人はたくさん居る。その人々の人権(人格保障)のためにも、精神異常者でも犯罪を犯した者は、精神に異常を持たないとされている通常の人間と同じ刑罰に処されるようにしなければならない。
人を殺した者は、人を殺した、(突然「一方的に」人生と生きる権利を奪われた人、またその奪われた人生は取り返しがつかない)という罪ゆえに――加害者の事情がどうあろうと――罰されなければならない。ものの道理としてもそうでなければならないし、今後も刑に処されそうになれば精神異常者を装おう、という手口がこれ以上のさばるのを防ぐためにも、人の生きる権利を奪ったものは、やはり己の事情の如何にかかわらず自分の生きる権利も奪われなければならない、ということが制度として徹底されるべきなのである。

犯罪を犯すほどの危険性があると見なされる精神異常者は、他の 犯罪を犯さないだけの分別を持つ精神異常者がそれと混同されぬためにも、また精神異常者「=」犯罪者・殺人者予備軍であるかのようなレッテルをはられ社会的に同様な扱いを受けたりしないよう、また同時に犯罪予備軍の精神異常者と、無関係な精神異常者との差異が不明確なままでいるために周囲の人間がいたずらな不安に曝されないようにするためにも、前もって隔離すべきである。

M.フコーがどう云おうと、人権派?の社会学的、法学的、精神医学的発想が依然としてどうであろうと、非-精神異常者たちは精神異常者(の優遇)のために生きているのではなく、ましてや精神異常者を装おう犯罪者のえじきとなるために、生きているのではない以上、ともかく誰にも迷惑をかけず、他者の人権を犯すことなく生きている人間の人権と生きる自由がまずもってきちんと確保される世の中でなければならない。
また昨今では人の善良さや信用、ひいては意識の前提の裏をかいてのさばる人間がこうも増えてきている。こういうような世の中では、そうした良識の裏をかき得ない制度というのが確立されることもやむ終えまい。
何れにしても、犯罪とは結びつかない精神異常者たちの人格保障のことを考えても、犯罪を犯すおそれのある精神異常者とはできるかぎり早急に区別されるべきてある。
精神分析学的に、危害をくわえうる精神異常とそうでない精神異常との<境界>が如何に語り得ぬものであるとしても、まして思想史的に、現代社会が如何に二元化どころか差異化すら容易にされざる情況にあるにしても、また人間的自然が錯乱せる自然から出発したにしても、だからといってそれらの理由は、そのままわれわれの日常生活のレベルで危害を及ぼすものとそうでないものがごちゃまぜに‘放置されていてよい’、という社会的現実容認の根拠には,ならないはずである。
(もし、そうなるというなら、これらの思想がイデオロギー化したことになる。それは彼らの“用意周到”な思想自身とも矛盾することになると思うが...)

とにもかくにも、精神異常者云々の問題と同時に何より「云われもない被害者」の人権が、加害者のより以上にまずもって優先されなければならない。


2004'03/04

ある思想「について語る」、もしくは「語り合う」のみで、それらについての彼らの個々の判断、功罪や今後の展望と課題、といったものを語らない(それどころか極力省く)姿勢を通してきた知識人・評論家とされるひとたちは、それ自身、これらの思想言説に同意し支持してきたことにならないだろうか。そういう‘彼ら自身のスタンス’を示している、とはっきり見なされてしかるべきではないだろうか

現状に対して分析し語るだけで責任を取らなくなった思想家たちと、そういう彼らの「言説について語る」だけの知識人たち。そしてまた、それをそのまま受け取る大衆...
そうして現今、己の無責任に開き直ってはばからない、クズのような人間がはびこる世の中...
それらは、連動していないと考える方がむしろ不自然である

ニヒリズム〜アナーキズム〜不可知論とそれらの社会への殆ど無批判な敷延は、結局ビート武や麻原のような愚にもつかぬ人物が堂々と開き直って出現してくる素地を作った大きな構成要因となったのである



2004'04/05

イラクに駐留する一般米国人を、イラクの民衆が焼殺した上、さらに遺体を殴打し引きずり回し、吊り上げるといった映像が問題になっている。

日本のマスコミは専らイラクの民衆のがわに行為の正当性を見出し――9.11の時もそうであったが――、何故このような仕打ちを受けるのか米国人は考えるべきだとするばかりである。

今回のブッシュ政権がしでかした事に就て厳しくなすべき一連の責任追求とは別に、反米感情もここまで行くとどうかしている。

否、この問題はけして独立した問題でなく、ここ十数年のアメリカの一国主義的暴走に貫通している傲慢さの問題であり、ひいてはイスラエル-パレスチナ問題を象徴的に、ユダヤ-親ユダヤ 対 イスラム-親パレスチナの問題が根深く横たわっている、と言うにしても、また先進国 対 後進国、帝国主義 対 貧困国の問題としてあるのだ、と言うにしても、だからといってそもそも9.11のような直接罪のない一般大衆をねらう「テロリズム」という手段の行使とその常習化、また今回のような暴力行為というものが、これらの問題の代償として認められるべきではない。

マスコミによる、不自然なほどのこうしたイスラム加担は、なにゆえだろうか。

私には、レヴィ-ストロース、構造主義的発想が文明国 対 未開の問題に対して行った理解と、これ以降哲学・思想界に蔓延していった不可知論的潮流が、言論界〜マスコミジャーナリズム界へ与えていったであろう影響、そこで形成されていった風潮というものが、「時代」のものの見方・考え方として大きくこの問題に関わり続けていると、近頃つくづく思えてならない。

哲学思想の世界に於て、この時代、レヴィ-ストロースなどの構造主義的思考は、たんに西欧主義・近代主義を批判したのに留まらず、民主主義、また(広い意味に於る)弁証法[的発展法則]までをも批判し、その価値を相対化し否定した所に、問題の所在があると思わざるを得ない。

近代文明主義批判、西欧中心主義批判が、“民主主義をも”含むとしたら、話は全く別になってくる。未開であろうと文明国であろうと、その社会がそれぞれの文化的個性を携えつつも、時間をかけて次第に民主主義的な方向(一定のルールの確立)へと進むべきであろうこと、は、否定されるべきではなかった。

民主主義…。それは西欧が「生み出した」相対的価値にすぎぬもの、であったのではない。相対的価値をしか持たぬ「文化」であったのではない。そうではなく、西欧云々以前に人類共通のルールとしてもとより通底さるべき次元の価値であったろう。ひとつひとつの異なる文化の中でも同様にしてある、虐げられた人びとが、虐げられた位置に甘んじることを乗り越えていく、人類共通の財産であるとされなければならない。またそうやって西欧自身も、己の近代主義と帝国主義を乗り越えて行かねばならなかった、そういう問題であったように思われる。

民主主義は、西欧主義(葬り去られるべき先進国の価値問題)の中に組み込まれるべきではなかった。

イラクの民衆にとっても――今現在虐げられた情況下に置かれた人々にとっても、――宗教・文化の枠を超えて、民主主義は、志向され、通底されて行かなければならない。
そのステップとして、テロリズム、及びそれに準ずる手段――すなわちテロリストのみならずもはや民衆自身が潜在的にテロリズムを内包しているとでもいうべき、今回のような残虐な手段――の放棄は、アメリカ帝国主義・一国主義のそれと同様、国際社会から絶対的条件として表明され追求されて行かなければならない問題である。

地球規模の民主主義の早急な樹立が必須となっている今日、アメリカ帝国主義はその罪を国際的なルールに乗っ取って断罪されこれを超克する手段が全世界に要求される。
まさしくそうした観点から鑑みる時、すなわち民主主義というルールから見た時、テロリズムは、帝国主義=覇権主義と「同等に」断罪されるべきである。
破壊主義は、異文化社会の有つ権利だなどとしてその存在を認められるべきではない。彼らを甘やかしてはいけない


2004'04/06

昨日の問題。

構造主義的発想と同時に――西欧哲学思想史の上からは、一見相反するイデオロギーのようだが――もうひとつ、(マルクス主義を典型とする)革命主義的発想が、じつは同じ根底に存するだろう。
これへの憧憬を断ち切れない人々というのが、貧困社会もしくは異文化の主体尊重のなかに、テロリズム容認をも混在させてしまっていると思われる...そうした志向性を持つひとびとが、おそらくマスコミジャーナリズムには多々存在するだろう。
革命という手段は、厳密に言ってそれ自身、或る種の破壊主義を内包している。だがその破壊主義が、レジスタンスといったレベルに於て発揮されるのまでは許されることであろうが、テロリズム容認に至ってしまうのは誤謬である。レジスタンスの敵はほんらい圧制権力そのものであるが、テロリズムの標的は、*罪のない・殺される謂われのない一般大衆である。もともとのターゲットがそれなのである。
*…彼らはそうした人々をむしろ“積極的に人質にとる”。彼らの味方であるはずの異国人はおろか、同胞であるはずの自国民も――小学生や病院の患者たちでさえ――容赦なく人質にしてはばからない
(追記4/09)



〜不可知論的差異化不可能性と、現実を掬う弁証法のダイナミズム
          ――テロリズムに鑑みて〜

2004'09/13

日記の再開は、奇しくも9.11からのひとりごとと相成った...
イラクに続く戦闘は勿論、ここ数日の衝撃的なロシアに於ける北オセチアの映像を見るにつけ、従来より抱いてきたひとつの確信が、いよいよ強固なものになる。。

勿論私は、昨今では殊に露骨に帝国主義・独裁主義化したアメリカに相変わらずお追従をし同調する人々にも、さらにはその延長上に新−日本帝国主義をも再建しようと心づもる人々にも非難の眼を向ける立場にいる。
だが、同時にそれへの反発分か、あるいは自分たちのかつての「革命」への夢想を投じて?テロリストたちに同情的になるのか知らないが、えらくイスラム贔屓になる人種――ひどいのになると、9.11を目の当たりにしショックを受けている当事者達、被害を受けたアメリカ市民に、直接「テロリズムが何故あなたがたの国を襲ったと思いますか?今回のテロリズムを受けて、あなたがたのやって来たことを一体どう考えますか?」などと不謹慎きわまりない質問を投げかけて憚らなかった者もいる――にも、同じように非難の眼を向けたいと思っている。

或いはまた、実のところ実体のない理論的な境界線というものを作りあげ――つまりテロリズムとレジスタンスの間に――、そして《*はっきりとした区別が両者の間に付きにくい》事を理由に、事実上テロリズムそれ自身を擁護する人種、そういう「弱者?救済」定式、破壊主義擁護の不可知論的観念主義のトリモチにかかった人種にも、同時にはげしい疑念を抱いてきている。
そのスタンスは依然として変わらない。

*…だが、現状は、そのような「差異化」のむずかしいモデルケースばかりであるどころか、典型的に悪に属すると判断されるべきものが多いのが実体である。
(私の、疑問符に満ちた切実なるつけ込みは、いつもこうした点にある。)
真に柔軟な弁証法的認識は、そうした実体へもまた舞い戻り、諸観念間の可塑性・差異化云々を含んで尚、“現実との照合”に立ち戻るダイナミズムを以て理念と現実の間を絶え間なく往き交う生産的な構築作業を、施していくはずのものであろう。

第三世界賛美主義への疑念...
この確信は勿論、今回のロシア北オセチア共和国に於けるイスラム勢力の犯したあまりに無慈悲な計画的惨劇――この事件を、テロリズムよりは寧ろもっと端的にナチスがアウシュビッツにて犯した罪のほうと同質・同罪だと言い切ったコメンテーターがいたが、この点に関し、私もまったく同意する――を見ていても尚いっそう強まるばかりである。

テロリズムというのは、その不満の刃を、それを解決する手だても力も何も有していないどころか、何の罪も負わない人々――今回犠牲になった「学校=子供達」、というのはその最たるもので、絶対に侵されてはならない罪のない領域であった――に対して、向けられる卑劣なものであり、それがレジスタンスとの決定的差異である。
今回のイスラム原理主義組織のしたことは、残念ながらその極限的悪の典型である。

みづからの本質の極限に達したテロリズムは、それ自身、もとより有っていた主張の正当性そのものをも無効にする。
端的に言って、テロリズム(破壊主義)はそれ自身に本質的な自己矛盾を抱えているのである。
どんなに不満が鬱積しようとも、訴える手だてがその社会的立場上あまりに限られていようとも、やはり手段は全てである。手段の誤りは主義主張そのものの誤りである。

国家からの独立、という、それ自身何ら間違ってはいないはずの主張を、彼らは彼ら自身の手で無効にしたのである。



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