〜マルクスとウェーバーの「社会的行為」理論〜

2004'12/02

ここ「書斎」の中で載せているが、かつて記した「大学ノオト(小説風)」第29章日記(83'2/5付)の中で、大学三年時に私が触れたK.マルクスとM.ウェーバーの「社会的行為」理論比較[*URL] について、やや複雑な記述をした部分がある。そこでは十分に具体的な説明が不足している点がずっと気になっていたので、一度記して置きたく思う。

大学時代、哲学科生であった私は、三年時に自由枠で履修した社会学の方の講義に時折出席していた(マルクス主義理論-副田教授)。
学期末に社会的行為理論のレポートを提出しなければならないというので、講義に出ていた諸理論のうち何と何を比較検討しようかと迷っていたが、当時やはりあまりにも典型的=一義的な社会的行為、というのよりも、個人の至純な自発的=創造的行為が図らずも社会的行為と化していく地点(行為する本人の意図と、これを受けとめる他者乃至社会の構造の間にズレが発生する交錯的地平、ともいえる)に興味を覚えていた私は、マルクス主義理論とウェーバー理論を比較しようと考えた。

上部構造と下部構造のそれぞれに充実した探究を施しながらも、終局的には下部構造が、上部構造を支配する、という地平で締めくくるマルクス主義理論と、労働に於てもあくまで個人の主体性と意志のレベルを尊重しようとする傾向の強そうなウェーバー理論、というのが、正直、講義を受ける前からの、また講義を受けた後でも未だ何か、漠然とした印象としてあったことから、レポート作成前のごくごく平面的な予測としては、おそらくマルクス理論以上にウェーバー理論のほうが、私が比較検討の対象として設定したモデルケースに、よりよく射程するであろう。というところではあったが、ともするとマルクス主義理論によっても、これが案外どこまでよく射程するかも、同じくらい興味深い点でもあった――というのは、意外なことにマルクスは、そもそも「労働」というものの起源(労働の類的性格)を、強制されたニュアンス、疎外的状況のほうにでなく、むしろ労働が過酷に抽象化される以前、つまり自発的なニュアンスのほうに、置いているのを知ったからである。

以下に、当時のレポートをおおまかに記述する(※不明確な言葉遣いなどを、適宜修整)


2004'12/03

【レポートの規定】

【1】設定した社会的行為を述べよ
【2】 a.社会的行為設定の背景を述べ、
   b.講義で学習した諸理論効用への意図を述べ、分析以前に予想をせよ
【3】理論学説の効用を記せ(理論適用と比較検討・分析)
【4】結果と発見を述べよ

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【1】私の設定した「社会的行為」

・9歳の少年。(不当労働)
・工場内の陰惨さ(労働の過酷、労働環境の不衛生や閉鎖性、長時間労働、低賃金
 など。工場内の他の労働者の荒れた、もしくは虚けた雰囲気、親方の怒声etc...)
 その中で緻密さの要求される人形細工作りの間断ない仕事。
・客観的には強制労働であるが、そのような状況下、ガラス細工の人形づくりの仕事に
 おいて少年はある偶然を契機に芸術性の追求を志向しはじめるようになる
 (自発的労働、創造的行為へのめざめ)
・少年のあくなき、地道な自己錬磨の作業にも関わらず、その労働は客観的には搾取
 であり、不当強制労働であって、彼の作品も大量生産下安値の商品である事の
 不変。また経営者を利するだけの雇用者の不当労働である事の不変。

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【2】a.社会的行為設定の背景

ここで取り上げたモデルケース=社会的行為とは、自己による自己のための――もしくは何らか目標や理念のための――純粋に私的・精神的レベルでの創造的行為であるはずのものが、《図らずも》これ(社会的行為)に移り変わるところのもの。
また、この初発性がひとたび他者、不特定多数の人間たちや組織に引き渡され受けとめられる行為となってからは、ここからまさに否応なしに利害関係を発生し、この位相とは別の意味(労働者・行為者の主観とは別の意味)を持つ「経済的行為」となって出現し、社会的有機体の中で交換されて行く、というモデルケースである。
両義的・可塑的・また包括的地点としての社会的行為。

(1)個別の行為の主観性は、利害関係の固有の法則がみづからに及ぼす拘束性から、
 <精神的レベル>での固有で自律的な法則性に乗って開放・超越され得る
(2)しかし個別の精神性に拘わらず行為の<経済的意味合い>というものもまた現状
 として在りつづけるのであり、これが個々人の精神性を二次的に左右する

こうした、諸位相別々の自律的法則性を以て進行するものの絡み合いとしての、交錯した綜合性(全体的因果関係・構造の成り立ち)というものを考えたい、その中で「社会的行為」というものを捉えたいという意図。

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【2】b.効用(理論適用)への意図と予想

このような認識をもとにして始めに漠然と立つ予測は以下のようなものであった

*ウェーバー理論は、主に(1)の部分により優れて射程するだろう
 (創造性→社会性)
*マルクス主義理論は本来(2)の部分の分析と追求に優れているはずだが
 (社会性→個人の精神性・主観性)、
 今回この私の設定が、或る意味でこれとは逆説的な位置を採っているので、
 あまり行き届いた適用はなされないであろう。

これを各々、逆に言い換えれば

*マルクス主義理論からは、一体どの程度・またどんな仕方で、純-個人性
 (精神性・創造性)のつよい社会的行為にも、射程するだろうか
*ウェーバー理論は、行為の因果関係としての社会的意味合い=外的・
 客観的意味合いに対し、またそうしたものが行為者の主観云々に拘わ
 らず厳然と存在することに対し、どれ程切実な認識を忘れずに持っており、
 また“実際的に”どのように、この部分への効用を可能にしてくれるであろうか、
 という期待を抱く。



2004'12/04

【3】理論学説の効用

(A)マルクス主義理論の適用

まずこの理論の社会的行為への規定から、今回の私の設定の、社会的行為としての判断妥当性を検証しておきたい

マルクス主義に於る「社会的行為」3側面と言われるもののうちのひとつに、これは妥当する。
〈新しい欲望の生産〉
――満足された最初の欲望・技術・材料らを果たし使うことから、更に多様な欲望が展開する。というもの。

これに就ては少年の労働の情況は、決められた労働仕様を遵守する目標を超えて新しくニュートラルに芸術的な向上心と技術の発展を自発的に希求・実現するに至り、これに妥当する。
また、歴史と社会を動かす力としての社会的行為の成立因は、労働と生殖に分けられるが、そもそも今回設定の行為は労働であるから妥当する。
年齢に不相応な程の、至高な魂と志、云々といった少年本人の主体的事情に拘わらず、行われているのは雇用者に雇われた状況下の過酷な「労働」であり、生産の構造に組み込まれた社会的行為であり、経済的行為、である。
(商品を生産しており、労働=交換条件が成立している) 即ち、

〔1〕少年の生産物はこのまま交換過程を経て商品形態を取る(場の中で取らされる)。亦
〔2〕労働力は商品に転化される

つぎに社会的行為としての労働を、人間の本来性、また労働の起源(本来的意味合いの労働を生み出す場としての、労働の起源)にある「類的性格」の状況下での労働と、非人間的状況――“疎外”的状況――下の労働とに分けると、このケースの少年に当てはめる場合、その「どちらにも適用」することができる。

※1 少年の初期に於る労働――疎外
すなわち自由で意識的な活動としての労働の本来性を失っており、強制的ニュアンスを以て、人間が労働力として<*1:抽象化>されている。類的性格の人間精神の具現体としての生産物であったはずの事物(もの)が、価値逆転して人間を(人間の精神状態や利害状況を)支配している。
このように事物・労働・類から、とあらゆる<疎外>の状況の下での労働である。
また上記の*1の意味からも美徳の商品化の意味からも、物神崇拝的状況であるといえる。

※2 少年ののちの労働――類的性格の労働
こちらは現実的状況に「反して」、マルクス自身の労働の定義に即した、起源的労働である。「どのような状況に於て」か(「どのような状況にも拘わらず」か)、といった問題の有無に――マルクス自身、非重要 と云うとおり――左右されることなく、実際少年の主体的-主観的現実として、いみじくもここでは、同じ工場内で働く他の労働員たちとは違った起源的労働が、行われている。

労働の定義――内部の外部化、どおり、少年の美的・芸術的センスの発揮、丹念さや優しさ、精神の自由自律、不屈さ、勤勉、etcetcあらゆる能力が事象(もの)を媒介として<表現>される。少年の精神性は事象(もの)を支配しえている。或る種の自己表現が成り立っている。自由で意識的活動であり、肉体的欲望から解放されており、状況から不断に自律し、(主観的には)人間性を回復している。
彼の主意主観に於ては、あくまでも事象は表現手段であり、行為は私的生産行為(創造)であって、これが“図らずも”社会的行為でもある(社会的行為と成り換わる)といった様相である。


2004'12/05

(B)ウェーバー理論の適用

こちらの理論からも、まず社会的行為としての判断可能性を検証しておきたい。

ウェーバーの「社会的行為」の定義は「行為者の考えている意味が他の人の行動と関係を持ち、その過程がこれを左右する行為」、ということである。

さてウェーバーの場合、社会学の方法の原則として、#すべての行為はその担い手の主観的意味に還元されねばならない。とある。

たしかに、これが今回のこのケースの延長上に適用できれば、少年の重層的-終局的な意味に於る「疎外からの解放」の未遂行は、この理論による発展的効用をすれば無事成就されることになるであろう。が、色々な事情から、この場所のコメントは削除せざるを得なかった。
その理由を以下()内に記しておきたい

(#…これは、行為がこれを受けとめる全体に対し、どういう機能を果たしているかは見ない、ということではあるまい(?)。主観的意味に拘わらず・また行為者自身が気づかぬとも、他の・或は多数の主体にその行為が及び受けとめられ、何らかの機能を果たす以上、行為者の主意主観とは別の意味を帯び、状況を作り替えるか若しくは逆に状況に支配されうるetc.はずだが、こうした何らかの“社会化”の過程を経て、尚行為者本人の主観・本意と同一なものに帰還されなければならない、という倫理、という事として、この定義の意味を捉えるべきなのだろうか。

とすると、その<行為者の本意への意味帰還>を促しこれを支えるための理論を、ウェーバー理論の中に見い出せるのであろう(?)、という期待が生じる。

が、少なくとも先生の講義の中ではこうした
「社会現象として現れた時の意味性」という項目は、ウェーバーのものとして紹介されたことは無かったように思う。また、たとえ当項目が有るにしても、実際的適応の段階になると、この行為の初発性が再び<行為者の本意への帰還>を果たす、その為の「方法論」が、詳細に述べられている場所を発見できなかったようにも思われる。

ひとつ、「合理的-目的論的連関の、因果連関への組み替え」―大塚久雄氏の「社会科学の方法」―というのが、これに関係しそうなものとしてあるようだが、これの実効ある適用方法を、その書物に於ても見出せる場所がなかった。

そうこうする訳で、こうしたあるべき<初発-本来性への帰還>も、結局何らかの意味で#2有機体的把握にならざるを得なく、行為者本人だけに通用する主観主義・主意主義に陥らぬ様にするための、「外側からの意味把握」までは、少なくとも現時点の私には、不可能に思えたので、こうした側面への理論適用を不本意ながら削除した。

#2…というのは、或る主体の行為が別の「特定の一人」(対等関係などでの)に受けとめられ引き継がれる、というのではなく、社会的行為というものは、大方の所、不特定多数に向かって行き吸収されて行く事情もあり、また行為というものは必ずしも「行為者の」主観的事情や意味性に迄はいちいち還元された形で他者に受けとめられるものでは、現実問題としてない以上、個々のレベルで把握し切れぬものとなるのは仕方のない事のように思う。
したがって、当座重要なのは、むしろ不特定多数や組織によって一度解体され意味変換されてしまいがちな本来の意味性というものを、どう行為者本人も、同時に社会的にも、奪還するか、その方法論なのではないかと、思われる)


※1 少年の初期に於る労働
さて、初期に於る少年の労働行為を、その主観的意味に還元して捉えると、強制された仕事としての意味が、支配者(雇用者・組織)とのまた工場の流れ作業の中での同僚たちとの関わりの中で、自己の行為のあり方を決定づけられる為、ウェーバー理論からも、社会的行為である、といえる。

ウェーバーの分類仕様による少年の行為の意味づけでは、
仕事のテンポ、雇用者への余儀ない服従など外的強制力を受け、「伝統的行為」である。
またその外的要因が内面にも影響を与え自らに追い打ちをたて、食欲や肉体的要求などの支配下にあって「感情的行為」、ともいえる


※2 少年ののちの労働

次に、その後の少年の労働行為を同様に捉えると、彼個人としては己の行為は、誰の為でもなく純粋に自己による自己の為の私的生産行為――創造的行為、であるが、この種の行為にも不特定多数(同じ条件下でも労働に対する別な意識と反応を持つ他者たちや、少年の労働の初発性を顧慮せずまる切り別な位相と動機にもとづいて動めく組織・機構)の想定としての他者経験を、幼いながらに介在させられ、自己認識・自己相対化作用をもたされるであろう為、これを社会的行為とみなすことも出来る。

ウェーバーの分類仕様による少年の行為の意味づけでは、
このような荒廃した場にあって、自己に細心綿密さを課すことが直接自己の利益や評価となって跳ね返ってくる訳ではないが、そのような奸計の介在余地なく真摯に美的信仰や自己の内的自由の回復尊重のため、労働(表現行為)に奉仕したことは「価値合理的行為」である。
また作品としての完成度や美的洗練、美術向上などの自己目的の為、生産物の出来合いへの予測と結果とを兼ね合わせ(幼いながらに多分に無自覚であろうと)理念を追求している意味で、「目的合理的行為」である。



2004'12/06

【4】結果と発見

マルクス主義理論に於ては、先にも触れたように“どのような状況に於てか・どのような状況にも拘わらずか”、という観点は、意図的に除外されているにせよ、創造的行為としてあらわれる<人間の本来性>そのものの姿には行き届いた観察を前以てしており、その土俵を謂わば代表的・象徴的に、労働、に見出すことが出来る。

(1)マルクスが労働の本質、その起源の地平を疎外状況にでなくむしろ類的性格の状況に置いているのは面白い。また、この視座がまずあってこそ、ここから見えてくる<疎外された状況>とは如何なるものか、が分析されてくるのである点が興味深い。
(2)しかも、ウェーバーとの比較に於ては、
・ウェーバーが、どちらかといえば「創造的行為」を、より理知的・意志的(意図・意志決定的)・自「覚」的ニュアンスで把え、抵抗的自由を力説するのに対し、
・マルクスは「創造的行為」を寧ろ無(前)-自覚性、自「発」性(ウェブレンなどでは本能になる)そのもののもつ自由に起因させ、〔労働に於る〕人間の本来的あり方としているようにみえる。
したがって、私の今回の設定の場合、(漠然と形成されていた)印象と予想に反して、マルクス主義理論のほうが無理なく適用され効用が見られた。
しかしこれはあくまでも私自身がこのモデルケースを、少年を取り巻く外的状況より、少年自身の内的情況によりウェートを置く形で設定したからかも知れない、という点と、
亦、起源的労働以外の土俵でも、マルクス主義理論が、人間に創造性の回復(奪還)の現象を認めるか、これを――例えば階級闘争、なとどいう限定された手段以外にも、もっと人間の創造性・労働の次元に於る個々の精神性をそのまま生かした何らかの仕方でなすことを――重要な点として顧慮しない傾向が、もしあるのだとすれば、別問題である。

他方ウェーバー理論に就て感じたことだが、
ウェーバーに於る「意志」への強いウェイトは、おそらく現実的情況――マルクスの言う経済状況;下部構造が否応なく決定づける、現実的情況――を乗り超え、或はここから不断に自律的に存立しようとする本源的力として、人間の本来性・創造性を考える故、必然的にもたらされたウェイトであるのかも知れない。
それは私にとって賛成すべきことである。
しかし私には、人間精神の創造性と自由は、強い意志と成熟した自覚、という次元以前にも、寧ろよりナチュラルに――非人間的状況に於てすら――自「発」的・自律的に現れうるもの、といえそうに思われ、その点ウェーバーの理論構築に、意外な物足りなさを感じた。
その不本意さは、謂わば――ウェーバーの言い分にも拘わらず――「意志」のニュアンスが強まれば強まる程、「社会的行為」の、人間の行為に於ける包括範囲が狭められて行くかの恰好にみえる。
但、疎外的状況「にも拘わらず」いかに人間性に充ちた行為が(主観的-主体的側面としては)成立可能であるか、は、私の目論見が元来此処にある為、またウェーバー理論の特質の為、云うまでもなくよく射程した。
が、実を云えば更に、主観的にはたとえ尊く解放された自由な魂を回復していても、これがけして<現実的>な解決を生んでいるのでないこと――行為者の主観が外的にも全く同じように受けとめられ通用し、思いがけない動機や巨大なからくりによってけして<利用>されない、という保障が何ら得られたことにならない、という状況の不変――を、私の設定は意図しており、できればこのテーマに対し、各理論からの有効な解決策を得たいと希んでいるのであるが、この点に関しては、マルクス主義理論からは、疎外と物心崇拝面から、このこと(前半)を鋭く射程出来た。
亦、ウェーバー理論からは、意外にも少年の主観としての非人間的状況(於:初期の労働)をば、捉えうるが、少年自身の内的自由と魂の充足・状況からの自律性を捉えることはできず(於:のちの労働)、同時に――逆説めくが――少年自身の主観としてはこの利害状況のもたらす拘束から解放されても、労働条件としての過酷さ・搾取は克服できず存続しつづけること、別な価値として利用されること、行為者本人の主観にとっては表現行為であり作品でも、利害状況としては依然商品であること、主観的には私的生産でっても利害状況としては大量生産下の一動因として転化されたままであるetcetc..といった現状分析は、少なくとも私の設定したケースでは、残念ながら行き届いた効用が果たされず、克服のための具体的方法も探し当てる事が出来なかった(*先述通り)


2004'12/07

>(*先述通り)

*…「社会科学における人間」にウェーバ理論としてある、合理的−目的論的連関の、因果連関への組み替え、といわれるものを、具体的にどう適用したらよいのか。――少年の行為を直接・間接に受けとめる人々・組織の個々ひとりひとりに還元する訳にもいかぬだろうし、第一それでは利害状況としての意味合いとは別の、ただばらばらの受けとめ方の羅列となるのではないか。さもなければ畢竟有機体的(一般的統計的)把捉というものになるのではないか。
それは、一体行為者の初発性と本来的意図を汲み取りねじまげずにそのまま社会的意味合いとして成就させる、事の達成とEQUAL(「=」)といえるだろうか。

ここで持たざるを得ない感想は、
かりにマルクス主義理論というものが概念実在論形の観念論に陥りやすい傾向があるとすれば、ウェーバー理論のほうは、逆に主意主義的観念論に陥りやすいけ素質を持っている、のでないか――各々、問題へのアプローチ・認識仕様自体に存する傾向として――ということである。

他方、マルクス主義理論のがわにもうひとつ云えることは、今のウェーバー理論に対しての保留点と同様なことが、逆の側面から(ウェーバー理論の傾向が上部構造優位主義への傾向とするなら、こちらは下部構造優位主義ということになろうか、)云えるように思われる。
それはこういうことである。
逐一の主観的情況に拘わらず利害状況としての現実が在り続ける、のと同様、個人の内的次元での(それひとつひとつとしては無力な・尊い)利害状況の克服・超脱という、もうひとつの“現実”も、存り続けるのであって、この尊さと倫理を、より有意義に普遍的に、<社会的存在として存立させ機能させ>ること、それによって経済的位相での健全な発展を追求する、ことへの努力を学的-理論的に追求することが求められるのではないか。ということである。
またウエイトの置き方も、下部構造(労働の行為者の主体的情況を支配してうごめく経済という地平とその包括的なからくり)に較べれば、たしかに量的にも、その及ぼす力としても微力なはずの、“個々の行為者”レベルの初発性・創造性(上部構造)。だが、これが巨大な下部構造から不断に自律的に超脱し、この過酷さと非情さを超克する力を持っていると云うこの淡々たる驚異、これ自身の力というものを、「終局的には下部構造に支配される」として閉じて、済ませるべきなのだろうか。
むしろ、これを何とか尊重したまま個人レベルを超えた社会的-経済的システムに還元するような努力が要求されなくてよいのか、という問題があると、思われるのである。

<精神的現実>が確かに存る、ということ。この、ひとつびとつの力としての微弱さ。がそれと、このものが「現状として認識」される必要性-重要性の尺度とは別であること。
この点の認識に顧慮し、絶えず理論として帰着されて行きたい。その社会実現のための方策は、何も階級闘争に限られるものではないように思う。資本家・雇用者が、労働者・個々の創造者と、同じ創造性と想像力とを有しつつ、この目標をより包括的組織的に遂げるように努力し、両者が同じ人間的-生産的な目標へと向かうようにすること。社会がそのような方向性を以て動くために理論構築をすること、が求められるのではないか。



2004'12/08

あとがき
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(マルキシズムが)やはりイデオロギー上、――下部構造が窮極的には上部構造を規定する以上(何故ここで閉じるのだ? これは弁証法なのか)――結局はそうした個々人の主体に於て貴重な自発性と人間性回復が、社会的次元に移行するなり価値逆転(物象化)を免れぬという地平に、終局するのだろうけれども。(=創造行為の単なる労働としての抽象化、その反映さるべき魂の商品・生産物としての抽象化、あらゆる数量化手続等々によって吸収されて。)

理解社会学〜社会的行為学派(主意主義的観念論への素質)と、マルクス主義(定型主義的観念論への素質)との「間」、あの可変的両義性に切実に付け込みたい哲学科的(現象学的弁証法?の)立場からすれば、マルクス自身にもっと、この終局の手前で、個人の創造力の初発性=前‐意志的動機が労働の本来性としての社会的意味性と変革的効果を以て現実の経済的・社会的システムに反映・実現させられていくための手段を、具体的に考案するための知恵を、積極的に貸して欲しかったものだが。

つまり逆に謂えば 願わくは〈不断に自律的〉創造力の側が、経済を〈制約〉しうるには?どうしたらよいのか、その困難窮まるダイナミズムを、良心的に開拓して行って欲しかったということだ…。

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と、大学ノオトNo.29で、このレポートに関して私は書いている。

今でもこの問題意識、すなわち
『下部構造が上部構造を支配規定した後に、再び上部構造が――上部構造は上部構造なりの自律的な仕方で――下部構造を規定する時が来るであろうし、社会と経済の成熟はそこにこそ鍵が有るであろうに、マルキシズムがこの手前で弁証法を閉じてしまうのは、かれらの云う「弁証法的発展」それ自身に、もとるのでないか、またそれ故に、社会と経済のダイナミックでかつ自発的な成熟のための方法論を、間違えたのでないか』
という考え、に変わりはない。

だがこの時は、未だその方法、“創造力の側が、経済を〈制約〉しうるにはどうしたらよいのか、その困難窮まるダイナミズムを、良心的に開拓”して行く仕方、について答えが見い出せないで居た。

少なくとも、世界史的に、資本主義未成熟国ばかりが次々と、資本主義(化)、という《過程》を飛び越え、貧困なままいきなり社会主義に移行したこと――弁証法的発展過程を、飛び越えたこと――、が、のちに社会主義社会が次々に崩壊する、最たる原因であった事は間違いないであろう。社会主義とは、(もしも成立しうるとすれば)資本主義社会が「もっとも」経済的に成熟し、――同時に精神的にも成熟しえたとすれば――、このシステムが<腐敗>する転換点をみづから迎えた時に、社会主義へ移行するか、少なくともそのイデオロギーのうちの良質な部分を、知恵として拝借するか、するのでなければならなかったのであろう、とはかつても今も思っている。

今、日本やアメリカのような資本主義国が破綻的状況を迎え、勝ち組と負け組との間の格差があまりにも開く迄に至ったこの時代、片方が妙にダブついていると思えば片方はこれ以上不可能なほど搾り取られている、といったこの時代、プロジェクトXなど産業の危機とその乗り越えのドラマを如実に語ってくれる番組が登場するようになり、或はまた先日ノーベル賞を受賞された田中氏とその周辺の態度など、拝見していると、
やはり思うのは資本家(経営者)と労働者(できれば自発的創意にみちた働き手)とが、同じ自己実現のための意志と意欲と良心を以て事に当たる。という当然のことが要求されよう。この際、後者は各部門や事象の細部にまで熟達した目で目標を探究しつづけ、前者はより統括的な認識が要求される、という違いはあろうが、何れにしても、最低限、両者の目標が一致していなければならないし、同じように、自分たちが従事する仕事と分野を愛し熱意を以て取り組んでいなければならない、という事であろう。
またそもそもこの点が不一致のまま進行するような経済システムは当然ながら疎外や搾取、経済格差を生む、ということにもなる。
雇用者・資本家自身のスタンスが金儲けの成功よりむしろ自己の携わる分野の仕事、プロジェクト自身を深く愛し、そのものの成就に栄光を求めるのでなければならない、ということであろう。

それには、社会の成熟、人々の精神的成熟と地道で不屈の創意が必要になる。

破壊主義に加担していくような現今の社会的風潮とイデオロギーがはびこっている末期的症状の社会には、健全な経済システムも成り立つことが出来ないであろう。

こうした問題意識が日頃強いことから、今回、以前に記し発表した記事を振り返る由となった..


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