☆ 横浜美術館 *セザンヌ展* の印象 ☆

                                                                           12月7日鑑賞



 再入場券、などというのがあるようだった・・。東京や横浜近郊に住んでいたら、あと二度くらいは足を運びたいもの。
 風景画に関しては、二度繰り返して記してみよう。一度は、できるだけ風景画として風景そのものとして見えたままの視線で。(そして後の画家の誰を彷彿するとか、そういう視線によるのでもなく!)そしてもう一度は、セザンヌ自身の言葉による――円錐・円筒・球体として風景を見る、という――あのモティフの視線から、私なりに…
 そしてできるだけこのまなざしのまま、風景画や人物画に移っていこう。



       
 初期の作品には、題材としても一寸意外なものが・・。
 ドーミエを思わせるのはわかるとしても、何やらルオーにつながっていくものも感じさせたれた「宗教的な場面1860-62」。そして、ルドン風にもみえる、雲と空との辺境の彩りなどは幾分かターナー風でもあるような「城館の入口1862-64」…などなど。
 こんな題材を扱うことがあったのだ…。



☆セザンヌ展(資料, 以下)
〔全般概観〕
◎Nikkei net topics(“横浜美術館にもオルセー展から名作4点”)
http://www.nikkei.co.jp/orsay/topics/19990917kh29h000_17.html
「首吊りの家、オーヴェル=シュル=オワーズ」・「カードをする男たち」
ともにオルセー美術館

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◎JDNセミナーレポート「横浜美術館・開館10周年記念」セザンヌ展
http://www.japandesign.ne.jp/HTM/SEMINAR/991020/sezanne-report.html
「首吊りの家」:オルセー美術館蔵
「ガルダンヌから見たサン=ヴィクトワール山」:横浜美術館蔵
「カード遊びをする男たち」:オルセー美術館蔵
「水浴」:エルミタージュ美術館蔵
「テーブルの上のミルク差しと果物(静物)1890」:オスロ国立美術館蔵

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http://www.so-net.ne.jp/page/visual/contents/museum/new/
◎横浜美術館セザンヌ展1999
「マンシーの橋」:オルセー美術館蔵
「カードをする男たち」:同上
「ガルダンヌから見たサン=ヴィクトワール山」:横浜美術館蔵
「りんごとオレンジ」:オルセー美術館蔵
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http://www.mmjp.or.jp/fine-art/fine-art/sakkamei/sakka-sezannnu1.htm
◎{世界の有名画家の作品がご覧いただける美術館Netscape}より
セザンヌ
「エスタックの岩」:サンパウロ美術館蔵
「カードをする男たち」:オルセー美術館蔵
「シャトーノワール」:ブリヂストン美術館蔵

http://www.nittsu.co.jp/supp/1999kouhan/cezanne/cezanne_2.htm(画像大!)
「誘拐」:ケンブリッジ・キングスカレッジ蔵
「首吊りの家」:オルセー美術館蔵
「テーブルの上のミルク差しと果物」:オスロ美術館蔵


〔個別〕
【風景画】

*「村の道1872-3」(net検索上画像なし)
 まだ多分に印象派的。ピサロやシスレー、モネの描くような、しなる木々の描出と遠近感。
 一番面白いのは遠近法の消失点が幾つもあることと、おおまかには二重の遠近法と限ってみても、その主な二つ(ひとつはほぼ画面中央の黒い物陰、もうひとつは画面左端の中央)に向かって消える、家々の屋根や軒、壁下で辿れる、よく計算された線とともに、木々の枝のてっぺん・また枝そのものの描線etc同士をつなぐ線や、雲の線までが、よくこれらと平行し、美しい秩序を奏でている点だった。幾つも折り重なる(≫≪)遠近法の線でもあるとともに、ほぼ中央の、ちょうど曲がる道の比較的急な消滅ともかさなるその消失点には、放射線状に、その中心に向かって線という線が集約されていくようにも感じられる…。だがホッベマの「並木道」のようにはげしく求心的なものを感じさせないのは、なによりセザンヌの筆致のかもす比較的平らなニュアンスがあるだろうが、それとともに、先にも言った複数の消失点によるやわらぎのせいなのかも知れない。


*「オーヴェール=シュル=オワーズ / 茅葺きの家」2作 1872-73;73 (画像なし)
 この二つは同じ場所ならしい。でも正直いうとすぐには気付かなく、おや?と思って戻ってみたりした。どうして気付きにくかったのだろう?……前者(72-73)のほうが色彩的にはずっと明るく、RAUコレクシォンで見た「レスタックの海1876」にも通じそうな、或る対照的な諧調のもとにある(この澄んだ遠い空の青と屋根の赤のコントラスト!)のに較べ、73(冬)は比較的おとなしく、雲間から洩れる程度のあわい光のもとで描かれてる所為と、この印象的な家の赤よりはむしろ道――前景――に当たる光にアクセントが置かれ、セザンヌ自身の目線も道にだいぶ近いようにみえる…ことなど、色々あるのだろう。けれども殊に大きな違いは、ひょっとすると構図にあるだろう?――――つまり72-73のほうは水平線をほぼ画面の中央にわたし、家の屋根とその延長とでつながるX線(これも左下〜右上を走るものはほぼ画面を二つに等分割し、それと平行して左枝の線。またほのかに右の道端のカーブ。三つの平行。右下〜左上は、道の右の沿線がかもしだす延長と、赤い家の屋根の右がわの傾斜とのデュエットで描かれていくようだ…)とで構成されているのにたいし、
 73冬 のほうは、色彩的には道だけを照らすのでない、風景全容の明るさを保ちながら、水平線の横断よりは家の塔?の屋根に、遠近法の消失点効果をほぼ集約させる(道の延長ともほぼひとつになる!?)ような、求心的な形をとっているからなのかも知れない…。
 それにしても72は――道に全く影の射さない時間を選ぶとは……!ずいぶん難しい選択を己に強いている。。。73は私の大好きな光の時間を選んでくれているような気がした・・あの冷気。南仏の光を浴びてすべてのものが明るいけれど、空気はひんやりと張りつめている!……


*「医師ガッシェの家」1872-73(画像なし)
*「首吊りの家」;http://www.nittsu.co.jp/supp/1999kouhan/cezanne/cezanne_2.htm
参照画像
http://sunsite.sut.ac.jp/cgfa/cezanne/p-cezanne7.htm
The House of Dr. Gachet in Auvers, 1873:オルセー美術館蔵:
(のびて曲がる道、家・曇り空)

 見た途端宙に浮いたような感覚におそわれる……。が、左脇の崖や枝の高さから、すぐに高台にいるのだと気付かされる。(よく見ると、出会いたかった絵のひとつのアレなのだった。)でも見下ろしているにしては、目線に匹敵するか上まわる程の、高い家々の屋根や塔がそびえ、すっかり全てを眼下にできない複雑な起伏の土地を、あえて選ぶというのは……!つくづくセザンヌらしいかも。(#これは 「.首吊りの家」にも共通?)
 キュビズム的に分解すると、手前の道はむしろ極端にこちら側へ下がって、……というよりむしろ三角錐(?)のタテに降りる面(長方形)とも見まがうほどなのに、画としてはちゃんと道になりすまして見え、中心点の坂下の段差をも感じさせるところが、苦労の点としのばれる…。うーん、わざわざむずかしい構図を選び、あっぱれという処。
 それにしても道の片側を画面の中央にまっすぐに向かわせるのは面白いと思う。セザンヌの垂直?――だがそれでいて‘高台’のニュアンスを醸すというのは――その先のガクンとくる段差を、(これでは遠近法にたよることは出来ない。彼は排除している…)ただひたすら筆致のみで暗示するのは――、結構大変なことだと思うのに・・。
 この絵もまた、画面のほぼ中心にむかって線が集約されてく感じ?(この点も「首吊りの家」と一致…)
 ただこの作品ではその集約点が標高的にも頂点なの(であろう?)に対し、首吊りの家は画家のいる地点がもっとも高いように思われる。
 それにしても、うつくしい、上昇感のある空の青だった。――首吊りの家
 構図的には、あれ以上強調できない部分的色彩にすぎないのだろうけれど、なにか放射してるようで美しかった。


*「オワーズのフール界隈」1873
http://www.ibiblio.org/wm/paint/auth/cezanne/land/auvers.jpg
オーヴェール=シュル=オワーズのフール界隈:フィラデルフィア美術館蔵

 風景の前髪として、しなだれる木々の葉を垂らすのは、いかにも写真的構図だけれど、おもしろいのはもっとも前景の層である葉かげの運動が、中央の層であるはずの屋根にかぶさっていて、殆ど同一次元に見える点だった・・。(それともこの絵が立体的に見える鑑賞がありうるだろうか…)だから、手法は――すでにゴーギャン的?
 後の「レスタックの岩」の《重層性》とは対照的な手法かも知れない…。

*「オワーズの谷にて」1873-75
http://www.barewalls.com/cgi-bin/search.exe?searchstring=Cezanne&pageSize=20&D=1&ontitle=1&onartist=1&onprimeta=1&onsecmeta=1&rd= ;1;Dans La Vallee de L'Oise

 左の細い木々の葉の、ちょっと吹き上げるように風になびくさま、中景遠景の木々のなびき、……雲のたなびきとの呼応。それらがひとつになってほどよい体感を送ってくれ、何か涼しかった。木々の一見邪魔なアクセントが(これも近代的、写真的といえばそうなのだが)ないと、構図としては一寸平坦になるので、ちょうどいいのだろうか。
 (おおまかに言って)三本の水平線のもつ安定感と、木々や空のかもす‘動き’がちょうどいいハーモニーに混じり合っていたように思う。だが幾分平坦な……むしろ充分意識的でもありそうな二次元性への還元に、すでにタブローは向かっていそうだ。中央の赤と白のインパクトに、青赤緑のコントラスト、くすんだレンガ色と淡緑(モンドリアンも好みそうな。この中間色は、同タブローのあちこちに使われてる青と赤の混じり合いの調和を感じさせる…)この色がふしぎとよかった。

*「マンシーの橋」1879-80:
 http://www.so-net.ne.jp/page/visual/contents/museum/new/
 この絵もぜひ見たかったものだ。あってよかった…
 この前にはかなり長くたたずんでいただろうか。美しい立体図としてばかり画集では見ていたのだけれど――何故この橋の角度を選んだのだろう?――
 ……と思ったら、実物は 水面の深い碧が、わ〜んとこだまするような奥行きをもった空間であることがわかり、と同時に橋とともにちょうど中央に当たる煉瓦の橋脚のゆっくり描く弧が、映る分身とともにきれいな円をかたどりはじめ、眼で追ううちによく陽の当たる白んだ右橋脚の下ろす直径に、そっと断ち切られてしまうのがうつくしかった。
 そうか……図形としてはちょうど弧が画面の中央で橋をささえるようになる為なのか?眼でおぎなえば3つの円筒。水平垂直と、橋の坂にも呼応する枝の斜線。橋の錐形。傾斜をつなげば見えないピラミッド?……いいハーモニーだった。



*「丘の上に立つベルヴュの家」1878-79(画像なし;参考資料あり)
 ほどよく衝撃的な、そしてちょっと無機的な丘の光だった。なんてゴーギャンが好きそうな色! X線、途絶する平行線。どーんと構える飛び出す丘の光の浴び具合と青とのコントラストも。おもしろい構図…。
 殆ど押し出てくるように立体的のようでいて平らかな(?)坂にもみえる丘。
(両義性)――と、すでにキュビズムを彷彿させる、背景の城の立体展開図・・・。

*「プロヴァンスの風景」1879-82(画像なし;参考資料あり)
 初期モンドリアン、ブラック、ゴーギャン、フォーヴ、色んなものが集約されている。
 それにしてもまばゆい、プロヴァンスのひかり・・。
 急な丘の傾きが天に向かってエナジーを上昇するような葉のうごめきにみちびかれ、青へと吸収されていく一方、それを照り返すような屋根の赤・・
 こんもりした木によってなお強調される、どんと手前に突き出した丘にも、よくみると背後のこの家の壁と赤屋根の光の強度は、負けていなかったようだ…。この家の壁もキューブをほのめかしている。
参考資料(画像)
☆キュビズムを彷彿する建物とそれに明暗を与える光(反射)――
 プロヴァンスの陽光――の描き方

#「プロヴァンスの風景」または「丘の上に建つベルヴュの家」の参考資料
http://www.ibiblio.org/wm/paint/auth/cezanne/land/cezanne.hfarm-bouffan.jpg
「ジャドゥブーファンの家と畑」(Maison et ferme du Jas de Bouffan=House and Farm at Jas de Bouffan)1889-90:Narodni Galerie,Prague; Venturi no. 460

http://www.ibiblio.org/wm/paint/auth/cezanne/land/cracked-walls/cezanne.cracked-walls.jpg
「壊裂れた壁の家」(The House with Cracked Walls)1892-94:Collection Mr. and Mrs. Ira Haupt, New York

http://www.ibiblio.org/wm/paint/auth/cezanne/land/cezanne.gardanne.jpg
「ガルダンヌ」(Gardanne)1885-86:The Barnes Foundation, Merion,Pennsylvania

http://www.ibiblio.org/wm/paint/auth/cezanne/st-victoire/bibemus-quarry.jpg
「ビベミュス石切場」(Bibemus Quarry)1895:Museum Folkwang, Essen;Venturi 767

http://www.ibiblio.org/wm/paint/auth/cezanne/st-victoire/cezanne.corner-quarry.jpg
「石切場の角」(Corner of Quarry )1900-02:The Barnes Foundation, Merion, Pennsylvania
cf)レ・ザリスカン・アルル(ゴーギャン/オルセー美術館展)
http://www.nikkei.co.jp/orsay/gallery/gallery4.html

http://www.ibiblio.org/wm/paint/auth/cezanne/land/montgeroult/montgeroult.jpg
「モンタギュの曲がった道」(Turning Road at Montgeroult) 1899:Collection The Hon. and Mrs. John Hay Whitney, New York (#キュビズム/後のゴーギャンを彷彿・「ビベミュスの石切場」的色彩)

http://www.ibiblio.org/wm/paint/auth/cezanne/land/millstone/cezanne.millstone.jpg
「粉ひき石のある森」(Woods with Millstone)1898-1900:Collection Mrs. Carroll S. Tyson, Philadelphia(ゴーギャン風色彩・面;ビベミュス)

*「レスタックの岩」1879-82
http://www.mmjp.or.jp/fine-art/fine-art/sakkamei/sakka-sezannnu1.htm
 いろんな場所で出会う有名な絵なはずだが、知人のひとりが言っていた、まるで「飛び出す絵本」の世界!としても、この絵は一番端的だったかと思う。だが実物をはじめて見て驚いたのは、まさに飛び出す絵本であるうえに、画面の半分まで突出する主題の岩が、立体(量塊)としてよりはむしろ、この絵の構図をなす重さる層のひとつとして在ったことだ・・。つまり、この絵は山の尾根の幾つもの「層」によって出来ているが(8層くらい?おおざっぱにいっても6層)、その一つひとつが、立体としてよりはまさに「層」(面;次元)として存在しているように思えたのだ・・。
 だからよけいに、飛び出す絵本?……飛び出す絵本は何層にも折り重なっているけれど、一つひとつは面だった。……つまり画家自身が、いかに層の重なりとして風景を捉えたかを、強調したかったのかなぁと思ったりもした。
 筆致としては、バーなど街の人物たちを描いた頃のマネや、女性の背中を描くドガのそれに通じるような、草をなでるような斜めの筆線のかさなりが見えた。(こういう筆線は、次の「エクスの北」、にも!)
 このレスタックの岩の絵の場合、山の斜面と直角に陽の射す方向へと立ちなびく筆致。むしろ立体感を極力押さえるかのタッチだ…。それにしてもこの岩の独特のふくらみは、水浴図の女の人達――不器用に もこもこした、あの裸体のふくらみにも似ている。
 色合い的にはゴーギャン辺りも彷彿させるかも知れないが、構図としてはすでにモンドリアンの、しだいに物象同士の密度をたかめて空間*を無くしていく、あの手法につながるものがあると思う・・。( *…後述)


23.「レスタック」1882頃(画像なし;参考資料あり)
 この時間帯はみごと・・。この光の時刻まで、画家はいつも待っていたのだろうか。
 右下を斜めに走る道にも、かすかなカーヴを描いて降りる幾本もの畑草の線にも、まったく影の射さない時刻。この構図を邪魔する自然の斜線をまったく取り除いた、まさに光が影を食べつくす時刻だ…。かろうじて太陽の方向を示唆するのは、左の木立が道沿いに右へと落とす影だけで――これは西へ?=影の伸びる向き――あとはほどよくまばゆい照り返しの世界のみ。ちょうど道の消えかかる地点からタブローをつたって降りてくる、畑の斜線は、絵には描かれてないけれど、ちょうど太陽のありかを中心点として出来る円の、幾重もの弧にもみえるのだ…。(何だろうこの秩序、うつくしさは…、としばらく首をかしげていたのだが、きっと。)
 すると、その眼にみえぬ中心をほのめかすように、これへとたちのぼるような雲の傾斜も、それでおのづから理解できそうな気がする・・。いい構図。
 目立ちすぎず押さえすぎずの色合いとともに、とても気に入った‘風景’のひとつだった。傾向としてはピサロなど印象派にまだ近いかも知れない。RAUコレクシォンでの「レスタック」にも、もっとも近い作風かも知れない。もっともRAUでは、前景の木立はタブローの中心を横切る斜線(それがあの海辺の風景を、此岸と彼岸 二つの次元にみごとに分割するのだった!あれは境界線というよりはむしろ、れっきとした分断線に思われる)に隔てられた、陽光にかがやいてひたすら静止する世界の水平線の青と、ひとときも吹き止まぬ風に身をくゆらし続ける動の世界、木々のみどりとの 協奏曲だったのに対し、今回のレスタックに於ては、動静の対象を見出すなら、むしろその逆――近景は影もなくひたすら陽光にたたずみまどろむまま。だが地中海をおおう、遠くまばゆい雲のほうが、水平線に散る光の遊戯を仕切りにそそっているかにみえるのだ・・。
参考資料(画像)
RAUコレクション「レスタックの海」は残念ながら画像なし
http://www.nikkei.co.jp/orsay/gallery/gallery4.html
レスタックから見たマルセイユ湾の眺め(オルセー美術館蔵/オルセー展)nikkei net:
オルセー美術館オンラインギャラリー4)人間と自然


*「ジャ・ド・ブーファンの大きな樹木」(画像なし;のち、参照画像あり)
 これは一番気に入ったかも。
 美術館を立ち去るまえに、もう一度ここへ帰ってきたほど。筆触はけしてそうではないけれど、典型的な写真的効果。(遠近法を光源とその放つ光線であらわす手法)
 この場合、画面の中心よりは、かなり下にすえられた光源――もちろん、遠近法の消失点なわけなのだが――から放射されるみごとなX(ななめ十字)の光!そしてその周りのあちこちにも、垂直に重なるおびただしいX字の光の反映…。すっくと伸びる樅の木立ぢゅうに、それはもうあちこちにこだましていた。
 これは実物の効果ならではのリアリティ…。 印刷で見ても、きっとこの十字の交差のこだまは、――わかりにくいように思う。
 この放射線、ふさふさした樅の枝の緑と黄色とで織りつづる、光のやわらかさに比してはややするどい角度で放たれ、森ぢゅうに響いていたのも、かえってちょうど唱和するようで私にはよかった。
 なんといっても画家が思い切ってかなり下げた光源の位置が、立ち上る木々のじつにのびやかな姿と、すっくとしたその幹の描線たちが左右から織りなす見えない円錐への効果ときたら……絶句。草の地面の、ドローネーの「窓」を呼び覚ますようなまだら織りも、光源と対峙する彩りにみちた、木の上方に宿るちょっと神秘的な収斂点のまだら織りも、とてもうつくしかった。(後述)
 このまだら織りの美は、「風景」1885-87などにも通じていると思う。どこか水彩風 でもあるような…。と同時にモンドリアンのコンポジションをも彷彿させる。(後述)
 それにしても物体ばかりか〈光線〉まで飛び出す絵本とは。。。


*「大きな松」1887-89
http://www.ibiblio.org/wm/paint/auth/cezanne/land/great-pine/great-pine.jpg
「大きな松」(The Great Pine ):ブラジル サンパウロ美術館蔵

 初冬の高原の光と、北から八ヶ岳おろし吹きすさぶ、家の近所の森の入り口、あの松の木を、ありありと思い起こす…。風に打たれ馴れたのをしめす、幹のしなり…。
 南西へと傾く枝の張りぐあい。常緑樹の円錐。先の黄ばんだ枝の緑。。気の対流に押し流される、躯全体のたわみ。――渦を巻くようにぐるぐると頭を旋回させてわななく木の姿を見ていると、耳もとで風がヒューヒューうなりそうだ。にもかかわらず、天へ天へと生の飛沫がたちのぼる…。生命・・・
 筆致の方向付けにはすばらしいリズム。風の向きとそれに引き越こされる運動をすべて物語る。細かなコマ送りの映像を感じる…。木の幹の傾きと呼応して、手前の水平線も傾斜しており、垂直線のたわみは不協和音ではけしてなく、弦楽器の低いうねりのように、すべて風の方角と軌跡――ひとつの運動と、呼応する生のエネルギーを示唆するように思われた。(直接にはゴッホを喚起するのだろう。)


*「ガルダンヌから見たサン=ヴィクトワール山」1892-95
http://www.japandesign.ne.jp/HTM/SEMINAR/991020/sezanne-report.html(実物はより朱赤を帯びるもの)
 この絵は印象的だった…。
 ガルダンヌという土地そのものに遍在する光が異色なのだろう、独特の光を帯びていた!これは(もう少し平面的ニュアンスにすると)ゴーギャンにもつながりそう。
――典型的にはオルセー展で見た「レ・ザリスカン;アルル1888」――。
http://www.nikkei.co.jp/orsay/htgallery/gallery4.html
そしてこの或る種無機的な情緒を呼び覚まさせる、風景自身がもつのであろう几帳面な構図性が、いつもセザンヌ自身の「プロヴァンスの山並 1879」(これもじかにキュビズムやブラック、ゴーギャンを呼び覚ます…)や「シャトーノワール」(私の知るのは2点)、また「ビベミュスの石切場」関連(そこから見たst.ヴィクトワールを含め)の構図の均衡、几帳面さ!……をも同時に思い起こさせる。(再度の「風景画」にて後述;参照)
 そればかりかこの、景色の「立体図形」性の強調、と同時に画面の圧縮した二次元性は「レスタックの木々」「レスタックの家」(ともに1908)の頃のブラックをもろに彷彿させられる……。(後述;参照)ほんとにもう、殆どキュビズムそのもののようだ。安定感、風景そのものが持つ立体展開図的ひろがり(回転性?)、構築性…。
 何かふしぎな秩序感がある。
 この実物をみて妙に印象的だったのは、山の尾根をひとつひとつ、円錐の断片の折り重なりとして見、まるで数学の合同問題の消去法を当てはめるかのように等しい形同士で消していくと、(st.ヴィクトワール山以外)最後に残る空間は、ど真ん中のもっとも濃い色の朱赤の三角形なのだ…。すべてが集約してるのに、すごく取り残される感じ…。いったいこれは?と思ってしばらく立っていたが、あまりに色彩そのものとしては美しい。ほどよく(――だが何にとって?!)即物的で、無機的で…。照射を帯びているようでもあり、内側から光を放っているようでもあり、何も意味していないようでもあり(笑)…。でもこれはたしかに画家がもっとも重きを置いている点であり、いわば遠近法の消失面でもあるように見える…。(山の中心がら放たれる、雲の放射線の遠近法的効果を含めれば。構図のみでなく色彩で、その放射線は助長されてみえた…。)
 そういえばこの絵も、朱赤、手前の緑、空の青の濃淡が、よく見るとタブローぢゅうに散りばめられていて、気流のうごめきとともに何かリズミカル。
 構図の幾何学的安定性(わるくいえば平坦さ)を効果的におぎなってるようだ。かなり気に入った絵のひとつ。

<その他>
「シャトー・ノワール」石橋財団ブリヂストン美術館蔵(あとの人物画にて参照で触れる)
http://sunsite.sut.ac.jp/cgfa/cezanne/p-cezanne5.htm
「シャトーノワール」:ワシントンナショナルギャラリ
http://www.ibiblio.org/wm/paint/auth/cezanne/chateau-noir/chateau3.jpg
「シャトーノワール」:NY近代美術館(MOMA)




【風景画】(ふたたび)

 ここまで、できるだけ‘風景画として’見、感じた風景のみかたを、今度は(別な日に再び美術館に行ったつもりで…)できるだけ「立体」的構成の視点で捉えなおし、その視線のまま静物、人物画についての感想へと延長して記せればと思う。セザンヌ自身の意図とはおよそかけ離れるかも知れないが……。


*「村の道」1872-3
 かすかな傾斜の上り坂道と見、したがって大地(己の視座)は円錐として捉えることもできるのだろうか。すると足場もすべての光景も厳然としっかりしてくるようなのだが…。円筒としての家、錐体としてかかる屋根、その他、家の屋根や集積した木材等のおりなすピラミッド(一部目線で補強)の平行移動の調和。またいっとう近い家の屋根・壁の延長がかもす遠近法の集約性。これをフォルテ(f)とすれば、(pf)くらいにこれを包み、延びてゆく並木の延長としてある第2の集約性。
 これらを、ともに遠近法の媒体である(横にした)円錐の頂点を志向するものとして見た場合、これと交錯する中景の小さな円筒円錐たちとかもされるハーモニー。
 その他、あわい木々の曲線の描く律動との調和。空気を取り込みつつ、光の方向へと木々の暗示する、おのれ(画家・鑑賞者)をも、すべての光景とともに取り込むかも知れぬ、みえない円錐(=林;枝々〜空へ)のアトモスフェール。
―― この解釈、懲りすぎだろうか(?)


*「オーヴェール=シュル=オワーズ;茅葺きの家」2作1872-73;73
 72-3年作:台地としての円筒(の際)。その先に典型的な赤屋根の錐体。アクサンとしてのちいさな円筒・・。その他家々の小さな錐体や円筒。これら垂直線の複声部に木々のゆらめく垂直線のアクセント、これらすべてと中央で交差する、緑の台地(遠景の水平線)の通奏低音。林の木々の織るかすかな円錐――和声の残響。。。

 73年作:遠い台地の通奏低音はなく、左景の屋根が示す水平のみ。
 ゆらぐ木々の垂直線とともに、大気とともに、上へ上へと昇華する。赤、黄色(日溜まり)たちの青への吸収――


*「医師ガッシェの家」;「首吊りの家」1872-73;73
 ガッシェ:面としてみれば上り坂の円錐、だけれど立体としてみれば下り坂の円錐の傾斜面でもありそうな、崖の上の道。ここから見おろす眺望。でも目線以上に立ちはだかる画面中央、やや遠くの円筒。周囲の錐体や小さな円筒のむれ…。
 この崖の道を台地としてみれば、ちょうど棚田のような段層の、左から右へと不連続に降りてくる円筒の断面のひとつとしてある、己の立つ道。
 木々のなんとはなしに象る、球体(うがってみれば地球儀の骨組みに黄色いライトの点滅するかのようなオブジェ?)としての手前の黄葉樹。また対岸の球体の断面のような木々。(笑!)この土地全体が、何か広大な円筒の台地とその大気に取り巻かれているような、遠近感。。

http://www.nittsu.co.jp/supp/1999kouhan/cezanne/cezanne_2.htm
 首吊り:一度目には放射状の線の集約点として言った、やや低い遠近法消失点でもある、急な坂道の底(視野から消えている)。でもこの立脚地そのものを、横にした円錐のカーヴの上に立っているとすれば、ひろがる風景のいくつもの錐体と小さな円筒たちすべてが裸の木々の垂直線、遠い水平線とともに大気という円錐の頂点へと吸い込まれていくようにも。?


*「丘の上に立つベルヴュの家」1878-79 (参照画像あり)
 いくぶん無機的な丘は、なだらかなピラミッドのようにも映るけれど、円錐といえば円錐。二層の円錐の重なりともいえるだろうか…。赤と緑と青の円錐による、一点消失法とみることも?そしてすべては結局青へ吸収される感じかな。
http://www.allposters.com/Galleryc.asp?aid=99869&parentaid=0&startat=viewcard.asp?card=31930-25-117943;Cezanne;4;Houses At the Estaque
  同   Cezanne;10;Interpretations Cezanne II
(手前の丘は、「丘の上にたつベルヴュの家」のようなピラミッド型ではないがプロヴァンスの光、色彩は似ている)

*「マンシーの橋」1879-80
http://www.so-net.ne.jp/page/visual/contents/museum/new/
 先に或る程度触れた形になると思うが、橋とその分身全体が、横にした大きな円筒(ないし遠近法にもとづけば底面から覗いた円錐)と、小さな円筒(円錐)の3つによって構成され、橋の水平と木々の垂直によってシンフォニックに立体構成された森の共鳴体。


*「プロヴァンスの風景」1879-82 ;(参照画像あり)
 色彩はいかにもフォーヴィズム系のようだが、ビベミュス石切場、レスタックの岩らの連作と共通性がある画面構成は、いかにもキュビズム(ことにブラック)の先駆。
 それは色彩とともに、またゴーギャン(レ・ザリスカン…)の先駆でもあるだろう。
 手前の、風に揺れる常緑樹らしい森のたてがみは、ゴッホ的なゆらめきがある。またモンドリアンのレスタック習作の頃の濃密な立体構成がひそむとも思える。
 奥の家の屋根は、はやくもキュビズム的時間軸のズレ、緑の運動の起こすベクトルとの几帳面な対応による)ゆがみを示しているし、空色の筆の斜線(気の流れ)と、木々が陽光を反射し、ざわめき立ちながらコマ送りの風を吹かせ対流するさまは、たしかに風景といえば風景だけれど、すでに自然の大気の空白感はなく、すべてがへだだりなく濃密で、有機体それ自身の呼吸、という感じとは別の空間を形成しはじめていると思う。
参考資料
同セザンヌ(#建物の、立体の分析的-綜合的な感じ、木々のニュアンス)
http://www.allposters.com/Galleryc.asp?aid=99869&parentaid=0&startat=viewcard.asp?card=31930-25-117943;Cezanne;10 Interpretations Cezanne I・II

同セザンヌ(ビベミュス・プロヴァンス関連)
http://www.ibiblio.org/wm/paint/auth/cezanne/st-victoire/cezanne.corner-quarry.jpg
「石切場の角」(Corner of Quarry )1900-02:The Barnes Foundation, Merion, Pennsylvania
ゴーギャン
http://www.nikkei.co.jp/orsay/htgallery/gallery4.html
「レ・ザリスカン・アルル」(ゴーギャン/オルセー美術館展)

ブラック
http://www.allposters.com/Galleryc.asp?aid=99869&parentaid=0&startat=viewcard.asp?card=31930-25-117943;Braque;1;La Roche Guyon 1909
http://www17.freeweb.ne.jp/art/jjdorian/B/Braque/Braque.htm
Houses at L'Estaque;L'Estaque, [August] 1908
ちなみに
セザンヌ「シャトー・ノワール」(濃密な二次元性の空間)
「シャトー・ノワール」石橋財団ブリヂストン美術館蔵(あとの人物画にて参照で触れる)
http://sunsite.sut.ac.jp/cgfa/cezanne/p-cezanne5.htm
「シャトーノワール」:ワシントンナショナルギャラリ
http://www.ibiblio.org/wm/paint/auth/cezanne/chateau-noir/chateau3.jpg
「シャトーノワール」:NY近代美術館(MOMA)



*「レスタックの岩」1879-82 (参照画像あり)
http://www.mmjp.or.jp/fine-art/fine-art/sakkamei/sakka-sezannnu1.htm
 すべてが円錐の断片の折り重なり、という感じだろうか…。でも先にも触れたように、それは立体というよりは、むしろ層(位相)としてみえた。(ことに岩。これはタテ線だけ!の綿密な筆触のせいもあると思う、山の斜面は太陽光線に直角の斜線の筆触なのだが・・)これもやはりゴーギャン(色彩)、キュビズムの面同士の合体にちかい濃密さ。
 色々なものが彷彿するが、とくにモンドリアンの「しょうが壺」の連作の頃の物象(もの)と物象(もの)との隔たりのない画面構成を思い起こさせる。
参考資料
モンドリアン
http://sunsite.sut.ac.jp/cgfa/mondrian/p-mondrian4.htm:1912(StillLife with Gingerpot)
Haags Gemeentemuseum,


*「レスタック」1882
http://www.nikkei.co.jp/orsay/gallery/gallery4.html
 先に放射線だの太陽を中心点として見える幾重もの弧、と見た畑草の線も、道ののぼる円錐体の傾斜の連続線とみたほうがいいのか、とも思わせる……光。
 地中海の青と空の青とを隔てる水平線と、木立や皎々と日を浴びる建物の断続的な垂直線・円筒との織りなす和声と、畑の斜線のハーモニー。
 畑の細やかな斜線は次の「エクスの北」や「レスタックの岩」、「大きな松」etc.にも数々みられると思う。


*「ジャ・ド・ブーファンの大きな樹木」1885-87(画像なし;参照画像あり)
 低い水平線、光線と交錯しつつ上昇する(ほぼ)垂直線のほかには、むしろ見えない円錐を見出すともいえるだろうか。林で織りなされる円錐と、太陽から放射される光線という円錐と…。
 さきに触れ忘れたが、草地や樅緑のうえに反映するまだら織り、この諧調は、こだまする緑と空の青と樅の幹枝の地肌(プロヴァンスのそこかしこに宿る光!)の色の変奏曲でつづられて、すべての要素の反映という感じ。水彩的でもあるけれど、St.ヴィクトワル山の連作にも見出される手法のようだ・・。これはドローネもおそらくそうだし、クレーの或る時期の諧調やモンドリアン(夕暮れの風景など初期)、フォーヴィズムなどにも引き継がれる面がある気がする・・。
参考資料(画像)
セザンヌ;Mont・st.Victoire
http://www.ibiblio.org/wm/paint/auth/cezanne/st-victoire/cezanne.1897.jpg
http://www.ibiblio.org/wm/paint/auth/cezanne/st-victoire/cezanne.lauves-802.jpg
http://www.ibiblio.org/wm/paint/auth/cezanne/st-victoire/798/798.jpg
ドローネ
http://www.allposters.com/Galleryc.asp?aid=99869&parentaid=0&startat=viewcard.asp?card=31930-25-117943;Delaunay;Formes Circulaires-Soleil No 3
クレー
http://www.allposters.com/Galleryc.asp?aid=99869&parentaid=0&startat=viewcard.asp?card=31930-25-117943;klee;1〜4 

 こうした、タブローにあるすべての色の要素を濃淡で同居させ、変奏させる色彩感覚の原点は、セザンヌの実物の色遣い、とくに静物画をみて――ことに壁紙、テーブルクロス、テーブルなど、ふつう主題とはならないものの中にある、色の宿り に――開眼させられる。(セザンヌに於いて、静物と自然(風景)は同質である…。それも含め、のちほど静物画で―――)


*「大きな松」1887-89
http://www.ibiblio.org/wm/paint/auth/cezanne/land/great-pine/great-pine.jpg

 これを見ていると、何か円錐だの円筒だのといったことを言うのも憚られる!…
 赤〜黄〜緑〜青。潜在する色調が、やはりここでもみごとに細やかな配色によってリアルな運動性とともに生かされているかのよう。・・こういう生のベクトルはやはり モンドリアンの木の連作にも、より図形的・無機的に再現される気がする。
参考資料(画像)
モンドリアン「the Red tree / the Gree Tree」
http://www17.freeweb.ne.jp/art/jjdorian/M/Mondrian/Mondrian.htm

 もうひとつ有名な木の絵――構図としても日本画ふうでおもしろく近景にわざと大きな木を置く(垂直の幹と放射状にひろがる枝えだの隙間から背後の景色を描き出す)――のがゴッホの構図などにも典型的に見いだせる発想の、「大きな松と赤い大地」。
http://www.allposters.com/Galleryc.asp?aid=99869&parentaid=0&startat=viewcard.asp?card=31930-25-117943:Cezanne;11;Grand Pin Et Terres Rouges
(手前の松が緑の傘で起伏にとんだ大地を覆い、その木蔭をのがれた大地は、プロヴァンスの容赦ない陽光を浴び、黄金の放射を発している)

 そこには、――葉陰と風の絶え間ないゆらめきはあるが――どちらかというと静的で、むしろ色の諧調の変幻する織り物としての効果(クレーやドローネら、もっと細分化していけばある時期のピサロ、レスタック1906 の頃のブラックや一部のフォーヴィズム、シニャック、スーラの点描画…へ)が目についたりするけれども、この絵(「大きな松」)の場合むしろ運動性、コマ送りの時間軸のダイナミックな効果的変移として、間接的にはキュビズム以降(未来派)なんかに影響を与えもするのかな…。


*「ガルダンヌから見たサン=ヴィクトワール山」1892-95
http://www.so-net.ne.jp/page/visual/contents/museum/new/
 そもそもこの絵に触発された一番の{意味}は、この朱赤の一種の空虚さ、無機質に精神的な(脱-自然的な)「空」の感じが、モンドリアンの三原色のひとつである中間色の赤に、受け継がれていく気がする、ということだ・・。
参考資料(画像)
モンドリアン
http://www.barewalls.com/cgi-bin/search.exe?SEARCHSTRING=mondrian
Composition with Color Areas

 これも、現物ならではの実感。ことに色彩‘と同時に’、風景が次第に簡略な 線 に還元されていく仕方、たとえば彼の「木」の連作――「赤い木」1908 〜 「花咲くりんごの木」1912〜「木」1912 へと、物体と空間の差異の無化として移り変わっていく、線の捨象と厳選、あの方法につながっていると思われる。(「木」の例は曲線の還元ではあるけれど、発想としてのパラレル。)実際モンドリアンは、直線(垂直-水平)の簡略化をも、コンポジションによって果たしていく……。
 セザンヌが、自然に内在する色から、あの画面中央の朱赤のような精神的な色を、おそらく意図的に抽出したのかも知れない、その原点としての意味と、その後代への受継を感じるものだろうか。




【人物画】

*「聖アントニウスの誘惑」1874
http://www.nittsu.co.jp/supp/1999kouhan/cezanne/cezanne_2.htm
この作品や「水浴」シリーズを見ていると、ピカソを感じる方は多いのではないだろうか。「ハーレム1906」や「アヴィニョンの娘たち1907」とか…。それ以降のピカソのすべての女性の裸体作品に通じるものがある、とさえ言っていいくらい。デフォルメの仕方に、空気と化した虚無感――その生ましめる、或る発想と、特有の「秩序!」(逆説めくが)の通じているのを見出すのかも……


*「アントニー・ヴァラブレーグの肖像」1874-75 (画像なし)
 絵の前でいつまでもニヤニヤ笑ってしまった。デフォルメといっていいのかどうか。だがまるで風景画や静物画に見出す図形・立体と同じように、顔の輪郭や姿態を扱っているのだ? この絵は肩幅から頭頂へとつなぐ錐形。顔が平行四辺形の立体版。
 とくに印象的なのは男の人にしては異妙に下がった肩の線が首をX字に交差して反対側の頭の角へ至る線と、口ヒゲの八の字の角度、蝶ネクタイのリボンの、Xの角度。すべて同じ、平行移動。V字でいえば、額の線、眉毛の角度、鼻の脇の線、顎の線、首のワイシャツのカラーの線…。みんな正確。
 チョッキが後頸から胸下まで降りて来てワイシャツの白にえぐれた面積も顔の面積とちょうど相和している。引きしまった、すごい均衡…。ユーモラスな構成のなかに、筆致にはどことなくモデルへの信愛の情を感じる気も?
 (だが彼は人物画から、すでになにかを剥ぎ取っている。風景画と同じように!‘形’というもの――生きて、呼吸する具体的なもの。それらがセザンヌにとって、またそれ以降の絵画史にとって持つ意味とは何だろうか…。)


*「アルルカン」1888-90 (アルルカンがひとりバレエポジシオンさながらに立っている)
参考資料(画像)
http://sunsite.sut.ac.jp/cgfa/cezanne/p-cezanne14.htm
「マルディグラ」(Mardi Gras):プーシキン美術館蔵(or個人蔵?)
Stiftung Sammlung E.G. B?hrle, Zurich.
(アルルカン衣装の男と寄り添う白いピエロ。二人の図)

 キュビズムと言っても、風景にはおもにブラックへの変遷、人物にはおもにピカソへの変遷を感じやすいのだが、偏っているだろうか。。。アルルカンはもう直感的にピカソを感じてしまう…。たんに題材(ピカソにはたしかに曲芸師系――ピエロ、アルルカン…などは多い)うんぬん以上の何かだと思うけれど。というのも「アヴィニョンの娘たち」以降の殆ど全てのピカソの人物における幾何学性には、このアルルカン(幾何学性?)を源泉として感じてしまうから。そして悲しみ…。どう説明したらいいだろう?(笑)
 鏡の前の少女1932、泣く女1937……納骨堂1944-45、ほうろう引きのシチュ鍋1945(これは人物画でないが!)、シルヴェットの肖像1954、ピアノ 1965…… ピカソのこれらみなに通底する何か。そういえば、ピカソはアルルカンの連作以後、急にキュビズムになったのだっけ? なにか幾何学的な秩序――アンバランスのバランスとか――不意な別空間への転身と同居(両義性)とか――触発されるものがあるのだろうか、アルルカンの中に・・。
ピカソ(その変遷)
http://www.allposters.com/Galleryc.asp?aid=99869&parentaid=0&startat=viewcard.asp?card=31930-25-117943;Picasso;15;Harlequin 1923;
  同   Picasso;28;Couple
  同   Picasso;10;Enamel Saucepan
  同   Picasso;18;Guitar on Table (Litho)

 ところでこのセザンヌのアルルカン、一番さきに目が行ったのは、脚の開きの角度だった。ことに足元。この角度はバレエ的ポジションとして妥当なだけではなく、衣装を彩るヒシ形の図柄に触発される幾何学的秩序感をしのばせる、左のかかとから右の爪先(画面から途切れているけれど)をつなぎ〜膝の交点へと至る三角形と、膝の交点〜モデルが左手に持つ白いステッキへと至る三角形との、美しい合同。つまり足元の方の三角形の底辺の角度と、ステッキの方の三角形の底辺の平行関係?、さらに頸から肩の線とこれらの二つの底辺とも平行。(コマカイようだけれど、結構踊り子やモデルには要求される美だったりもする…!)そして何かよくわからない右下側のゆらぎのアクセント…。
 これによって、比較的するどい、平行四辺形(ひし型?)に歪んだ全体のベクトルを和らげる、何かほっとする効果がある気がする。モデルの後頭部の白んだ光源との呼応とともに――
 余談だが顔の単純化は、キュビズムはもちろんだがローランサン、マッケの「道化」あたりまで、ちょっと脳裏にチラホラ・・? 架空空間への幻想的なデフォルメというところか…。
 ここでも驚いたのは、壁の虹色の美しさ――この微細な変化の光は、見れば床の色合いとともに、すべてアルルカン自身に宿っている要素の淡色置換なのだった。


*「カード遊びをする人々」1893-96
http://www.japandesign.ne.jp/HTM/SEMINAR/991020/sezanne-report.html
 それにしても時間の経過(ゲームは中盤に差し掛かる?)と勢力関係を示すのに、テーブルはおろかビール瓶、食器棚?の線、部屋全体まで傾けてしまうのは…。
 この時代にはやはりすごい思い切りのよい発想とも。人物自身、部屋や椅子の傾いた作品は人物画にとても多い気がする。ガスケ氏、黄色い肘掛椅子のセザンヌ夫人、コーヒー沸かしのある夫人像……
 でもこの作品のほうが色調はずっと暗い。髑髏の絵ほどに。こういう暗い色調のもとになされる、或る種(一面的)事実でなさ?の断行は、もうひとつ私の興味を惹いたことのある作品「ギュスターヴ・ジェフロワの肖像1905-06」などにも言えると思う。
参考資料
http://www.ibiblio.org/wm/paint/auth/cezanne/portraits/geffroy/geffroy.
jpg「ギュスタヴ・ジェフロワの肖像」:1895
(※上記、3次元の軸ズレ;俯瞰図角度の差異強調を、ものの配置によって工夫)

 本棚や机が傾いているだけでなく、(机の角度のひずみが意味しているように)その上に置かれた本の一冊一冊がすべて俯瞰図的に見て、視角が食い違うよう配置されていた。だがそれは時間の経過という隠れた秩序にもとづいている……(この時間軸の断続的移動、言い換えると視点の転動による空間処理、はマレーヴィチのシュプレマティズム――「フットボールの試合1907など」的展開図――をも想起する…)
参考資料
マレーヴィチ(複数画像)
http://www.ibiblio.org/wm/paint/auth/malevich/sup/
http://www.townkiss.co.jp/guide/sightseeing/mm21/MUSEUM/object-age/

 これは静物画にもよく当てはまる処だろう。
セザンヌ
http://www.ibiblio.org/wm/paint/auth/cezanne/sl/plaster-cupid/cezanne.
plaster-cupid.jpg「キューピッドのある静物」:1895

 それにしても抽象画の確立の手前で(或意味で殆ど彼が呼び起こしたのだけれど)よくこういう発想がとれたとは思う・・おまけにこんなにもあまた刻み込んで。。。


*塗り残しのある作品
 ――自画像,座る農夫,(画像なし)麦わら帽子を被る子供(1894;1897;1902)

http://www.ibiblio.org/wm/paint/auth/cezanne/portraits/strawhat.jpg
「麦わら帽子の少女」:1902:吉井画廊(清春美術館蔵)
(水彩画めいた余白のある油絵 )

 これらには、このタブローの世界にすっ…と入り込める――自分があらかじめタブローの外にいるのではないような 自発的参与のための空間 を感じることができた…。
 塗り残しのハイライトに、日溜まり……視線という聖霊の差し込み のような、参与ができるための余白みたいで。また、その白んだ間隙に、むしろ不思議と対象への尊重を感じとるのは……?何か逆説めくが・・・率直な感想。


 


【静物画】

 静物画に共通した特徴は、りんごや梨、壺や瓶などの{図}と、テーブルクロス、壁など{地}が、ほとんど同じ丹念さと全体への効果を以て――つまり価値を担って――ほぼ{同一次元}として存在していたことだ。
 ことにテーブルクロスのリアリティは、日常的自然のテーブルクロスが持つ現実感(写実主義によって表されるような)をそのまま尊重したものではけしてなく、もう少し厚み、量感ある――殆ど果物たちの量塊感と同等なくらい――ものであったとともに、質感も強く独自に押し出されていた。(ことに壁やクロスに宿る虹の光沢……
 印刷ではまったくといえる程出ていなかった!、とても微妙で丹念であり、うつくしかった。)
 この図と地の関係は、風景画にもそのまま持ち越され、家々の壁や屋根・塔・木々・起伏にとんだ台地などは、果物やビール瓶・水差し・膨らんだテーブルクロスとおなじ。皿は畑や道なりの線・城や建物。
 一方、壁紙の模様やカーテンは、遠景の山並みや丘。テーブルのラインは、地平線・海。……つまりすべては構図として存在している。

 風景における「ふかさの青」の、空気 は?――静物画において、、、そういえば在っただろうか?――盲点(-_-;)。。もしかすると無かったかも知れない?…(だから圧迫感が風景画よりあったのかも?)もちろん隠れた色彩の効果としては、もう随所に潜んでいたけれど…。


*「ビスケットの皿とコンポート」1877 (画像なし;参考画像あり)
 何となくざわざわするというか雑然とした感じもあったが、景観としてはけっこう気に入った。左の皿のカーヴが、少し間隔を置いてそれに沿うように弧状に置かれた二重のりんごの群と均衡し、同時にりんごのカーヴは、まるですぐそばに迫る白い崖のような、右上のコンポートの描くカーヴと線対称になっており、美しかった。
 #こまかいようだが、このコンポートの弧とりんごの配置のかもす二次関数の曲線めいた線対称は、ちょうど壁紙の模様のほのめかすx軸y軸によって秩序感が補強されていたと思う。そうでないと、あの壁の模様の浮き立つような不自然なほどの強調は、構図として説明がつかないだろうので(?) と同時にあの壁模様の星の、とくに中央に位置する菱形は、その頂点の星から降りるスポットライトのような左右2つの線でテーブルに脚をおろし、ほどよい光彩の円錐を形象っていました。けっこうきれいだった。
 コンポートにのったりんごの丘は、球といえば球――楕円かな? 反対に左側の低い皿に盛られたビスケットは、ビルのような立方体を形づくっていた・・。テーブル中央の二重弧状のりんごの並びは、かすかにこちら側になだれ込んでくるようでもあったけれど、まだ極度に傾いたテーブルの感じなどはなく、俯瞰図上の時間軸のズレもひずみも殆ど見られなかった。テーブルの手前の描線は、左−右の端、もうすでにつじつまのあわぬ技法が…!テーブルの下面は、みごとに色も違っていたし。何故色を違えたのかしら。と思ってしばらく見つめていたがよくわからなかった…。(遠近法効果のウラを突く?)
 今思うと、左はテーブル下に何故か置かれた碧のビンの色に触発され、右はテーブル上のりんごたちの赤を彷彿させ、、、。ということなのか?――画家の意図。(全体に左から右へ行くにしたがい、色調はblue-green(寒色)系から朱/赤(暖色)系へと移行しているのはたしかだが。そして寒色系の画面においては近景が、また、かえって暖色系画面においては遠景が、故意に色彩を強調されて存るのである…。それと同時に、遠景であるはずのコンポートの土手が、異様な程に白光りし、手前のパン皿よりはるかに突き出した光沢を放ってもいる。X線――二次関数的に向かい合う コンポートの脚元に並んだりんごのカーヴを、まるで目線を奥へといざなう対向車線のようにゆっくりと後退させながら…。こうした逆説によって、画家は本来奥行きを求められる絵画の二次元性世界に、丹念なる〈平面世界〉を成就するようにみえる)
 そうであればあのテーブル下の、かすかにかしいだ碧のビンの存在は、テーブルが上下に隔てている位置(緯度)の差異を、それとは裏腹な ‘色諧調’のための巧妙な点々(アクサン)によって、テーブルクロスと密につなげている 媒介者のようにも見えてくる。…… と、テーブルクロスにも、壁にも、同じ色の宿りを見出せる(碧・青・幽かに黄色も?赤も!これが全体として寒から暖へと移行していくヴァルールの、密かな鍵を握っているのだった)・・・そうして赤〜黄〜緑〜青の諧調の変遷、すべてのエッセンスを、りんご、敷き葉の緑、ビスケット、瓶……すべての静物のなかに見出すことができるのだ。――凝っていること!

http://www.ibiblio.org/wm/paint/auth/cezanne/sl/compotier/cezanne.compotier.jpg
「コンポートのある静物」(Still Life with Compotier)1879-1882:
Collection Mr. and Mrs. Rene Lecomte, Paris
(コンポートの角度、その皿の 中と下 のくだものの感じが、参考になる。
ただし、参考資料の方はコンポートと下のくだものとの配置関係が二次関数線「 )( 」というほどの対応の精密さをもつ構図ではない)
※なお、「コンポートのある静物(参考資料)」は、「リンゴとナプキン」の参考画像としてもいいかも知れない。(壁模様の、<静物>と同等次元への浸透、クロスの立体的に巻かれた感じ)


*「7つのりんご」1877-78 (画像なし;解説図あり)  画:津吹Rei




 たしかにシルエットは効果的だった。中央Eのりんごの位置……
 ちょっとよくわからなかった気もする。ド真ン中の遠近法消失点??――と思えば(配色と影のつながりに出来る線から)そう見えなくもないけれど、それにしては二列目(BEG)のりんごたちの描くカーヴの方はごく微か……殆ど直線で(僅かに地をえぐるよう[=縦のひずみ有り]には見えるが、横の線としてはほぼまっすぐに見える)。もちろん画家はわざと直線を、選んだのだろうけれど。中央のりんごE、もすこし左にずらしてはいけないのかな?(隣列のDのズレに多少照応する程度に、だがこれよりは微かに。……右のたったひとつのりんごの、大きさ と 傾斜していく(くる)影の物語る、力学的均衡からすれば)。――というよりその上下のりんごたちの方(BEG)を左の一群(ADF)よりは平坦な、ごく微かな弧をえがくようにずらすとか・・なぜこれ程直線=垂直でなければならない?…)
 いくらこの作者はセザンヌなのであって、構図のなかに(ほぼ)垂直を、どうしても真ん中に欲しかったのかも知れぬとはいえ?(彼の「垂直-水平」の理論から)……
 ……とすれば、一列目と二列目のそれぞれ最手前の、二つのりんご、FGをむすぶ線(水平)とも、またやや傾斜してはいるが奥手の横3列とも、(彼の理論通り)ちょうど交わるし。
 するとこの秩序感は――わりあい彼独自、また彼の秩序価値にもとづくもの。それともむかしから絵画的ないし写真的構図としての美意識に普遍的なものとも言えるのだろうか・・。それにしても、

   A  B  C
  D   E)
  F   G

 中央列の3つのりんご(BEG列)の垂直線?に見出される湾曲、――厳密に言って目線に水平から見た場合、一直線の列ではなく、地をえぐるような湾曲を描いて見える――は、何を意味することになるだろう…。殊に真ん中の青いりんごEが、ぐっとくぼんだかのニュアンスをさえ帯びてみえるのは。。。
 それは、この左隣の3つの列(ADF)が、その真ん中のりんごDの、少しはみ出した配置のためにゆるやかな曲線を描きつつ、この真ん中のりんごDのズレ自体が、まるで宙に浮いたようにも見える(それは、移り変わる色彩の効果とりんごの<芯>の向きとともにほのめかされている)のと、対照的にみえる。浮き沈み;山と谷――二列の帯びる双方の逆の湾曲を、意図しているのだろうか…。

 そういえばこの中央のりんご(E)、タブローの中心にしては色もあおく、わりと存在感の消えかかった役割をしてみえたけれども……*左隣の列の真ん中のりんごDが(横=x軸の)ズレの効果とともに(縦=y軸)にも浮き上がっているのとは対照的。やはりそれも遠近法(消失点)のため?・・ そしてむしろテーブルの歪みと影の強調のため――

 全体の色の諧調としては、やはりりんごに見いだせる赤、黄、緑、青緑……すべてによる変奏が奏でられていた。手前のりんごの光沢とともに、あれはなかなかうつくしかった。(いわゆるりんご、には見えなかったけれど)
 ことにりんごの球をなでる筆遣いが、そのままテーブルへも――短調になって?やや褐色のトーンを帯びつつ――浸食していくような感じが、テーブルをうねる大地のようにも思わせてくれた。

さておそらく通常、この画を鑑賞する場合、画を図として自然とこう見るのが普通かも知れない。 (いわば見下ろす形で)

  A B C
  D E
  F G
 
と、それはたんにACとAFとが垂直な関係にあるというばかりではなく――A F C という三角形を認識するのかも知れない。(角Aが 90度の直角三角形)なぜなら、りんごの影の方位がそれを促しているのだから…(!?)――とすると、中央かつ手前の、目にもあざやかな黄色を放つりんごGは、de trop(余計者)…目立つものだけに、あらかじめ黙殺されるというよりはむしろ、鑑賞者に向かってはじき飛ばされ、(消える)格好になる――(もっとも、厳密にはAFCが三角形であるためには、辺ACは頂点Cのりんご自身より若干延長した地点、つまりCの影の長さをも内密に含んだ長さの辺でなければならないと思うが…俯瞰したとしても。でないとFから延長した辺が届かない)

  A   C

  F
 
奥まった辺ACのりんごの列は、テーブルに固定されたままセザンヌの‘影’と‘向き’の効果に触発されて殆ど無意識にFだけ浮上させてくる。(と彼は芯――〈ツノ〉をややこちらに‘外へ’と向けて、自分の放出されていくべき方位を暗示する)と、おのずと鑑賞者の目線は 少しづつ右に移動していく。
それで三角形AFCの位置が、
 A   C

F
であるかのように見える、のだ…。
 だが私にははじめから、りんごの構図は広角にみえていた。つまりはじめから俯瞰図的にではなく、いわばテーブル面から覗きこんだのである。

   A  B C↑
  D   E)
  F   G
と……。
 もしセザンヌの意図が、鑑賞者がまず俯瞰図的にりんごたちを見下ろすだろう、という点にあったとすれば、この作品に於いてはあえてテーブルの縁やナプキンを描かなくても、りんごだけでテーブルの水平を表現しうる、という試みでもあったのだろうが、或いはりんごの形態・大小の不揃いにもかかわらず、その方位(芯の暗示)と色彩の強弱明暗によって、いかに幾何学性と平面性をおびることに成功するか、という試みでもあったのだろうが、私には、はじめからりんごは直角三角形でないどころか、(直接三角形AFCとは関係のないBEGの列はともかくも、)AFもACも辺として 一直線上には見えなかった。のみならず、すべての列が上下にもあらかじめ歪んで(up・down)みえたのだ。(殊にEのくぼみに関しては、私は出来る限り気付かないようにしていた気がするのだが。)画家はりんごの大小と、影の方位の示唆する 別な意味 を克服する為にか、りんごの「芯」の向きによって、幾何学性――直角三角形を無自覚に私たちに前提さしめるもの――を、ほぼ確実に措定していたのかも知れなくても。……
 つまりテーブルがまるで庭の土のようにでこぼこと起伏を帯びて、見えていた。じっさいセザンヌの筆致に見られるように、彼が入念に落とした挑発的な「影(向き)」とりんごたち相互の「陰影」が、それをものがたっている。ADFのDは宙に浮き上がり――AとFに押されてはじき出されるように――、またテーブル(土?)は歪みつつも全体に左へ傾斜している。いいかえれば右、それも奥のCの辺りがもっとも坂の上になっている。Cの影はとびきり上昇しており、まるでこれからりんごCは離陸しそうな程だ。
また、ADFではDが浮上しているのと対照的に、BEFは弓なりに地下へとしなり、Eは身をひそめるようにくぼんでいる。
そのおかげで尖端のGがこちら鑑賞者の真正面に向かって離陸――はじき飛ばされてきそうなくらい。(笑)影とりんごの向き、配色のトリックのいわばウラ?をかけば、この画には、はじめから直線(テーブルの平面)などなかったのだ…。ということになる。
それが、「間違った観方」だとすれば、セザンヌ自身が施した能弁な影の“リアリティ”が自己矛盾になってしまうのではないだろうか…。
ADFを直角三角形とみなす事。それが画家の唯一の?ねらいであったなら、「辺」を構成するための<直線>をはっきりさせて、三角形であることを確定するために、Bは辺AC上になくてはいけなくて、点Eは辺FC上にないといけないことになるが、つまり たとえ中点が多少‘自然に?’ずれても、それが「ずれ」あるいは「遊び」だと思えるようにしなければならず、その「ずれ」がゆるされるのは――三角形ADFを確保するには――、せいぜいD(またはC)だということになるのかも知れないが、私にはその「ずれ」は、あらかじめあまりに大きく、浮上してすら居た…。Dは隣りのEの沈みと、じつに好対照だったように思う。Cは――いくら画家が周到にこの<芯>を鑑賞者の眼に向かって真っ直ぐに貫かせた(ABCを極力直線に近づけるために…)としても、私にとって、ABCの「直線」のためにはCのりんごは他より大きすぎたし、(存在感の希薄さにもかかわらず)浮上しすぎていた。(否、今にも駆け下りて来そうといってもいい?!…)またDは無邪気で身軽にすぎた。「辺」を構成する中点が、こんなにニュアンスに富み よそ見をするお喋りでいても、Aを頂点とする直角は可能だろうか。

 これらを、「ずれ・遊び」とみなす、確かな指標とは何だろうか…。――幾何学性が色彩と質量感を克服する、というテーゼを成り立たせるにおいて――
(それにしても用意周到なセザンヌが、たんなる「ずれ」や「遊び程度」の演出のためにのみ、ものの配置をするのだろうか。その方位――それが促す ひとの意識の志向性――、色合いの強弱、それによって帯びる静物同士の互いの力関係etc.には、多分に色々な意味を込めており、また見出しては描き加えてもいたはずと思うのだが…。)

 じっと静視していて、ある時急に画がものがたる(動く)効果を演出するためには、最初から「ぐにゃり」とした構図と見えないためには、テーブルの物たちを日常「見下ろす」ように――俯瞰図的に、いわば常識的に画と向き合わなくてはならなかったが、初めから、背の低い子供のように、脚を大きくひらいたCBADF(それはコンパスの脚というよりは幾分かゆるやかな弧を描いている)のりんごの列を覗き込んだ私は、正しい(意図にかなった)鑑賞が出来なかったのかも知れない。(?) ――もし、りんごが直角三角形である‘かのように’「見せる」(前提を植え込む)のがセザンヌの(唯一の?)意図だとするならば、だけれども…。

だがこの‘影’(方位)と量感の施しの極端さからすると、セザンヌの意図はもうひとつ、日常(りんごの、普段在る場所、という観念から鑑賞者が前もって解放されていれば、りんごらの微かに躍動し、見れば見るほど次の瞬間に起こるかのドラマを喚起する‘場所’が、いかにテーブル以外のものでありうるか、を 厳粛な遊びを通して教えてくれてもいるのだ、という風にも思えてくる・・。それでなくとも彼の静物たちをささえるものは、海であったり紅い落ち葉の林であったり、夕暮れた山脈であったりするというのに!*)
(*…後述)



*「ふたつの梨」1785 (画像なし)
 これはさらりとしていて(習作のようだったが)惹かれた。
 塗り残し、塗りムラ(?)がとても効果的であり、構図を引き立てていたように思う。赤は、ほんとの洋梨には無い色かもしれないが。でも未熟〜熟した梨 への可変性としてある、あれらの薄緑〜黄色、さらにかすかに朽ちていく褐色という微妙な変転に、この果物の赤は喚起のアクセントとして鳴らされる木管楽器のようで、人工的な施しとはいえ、調和してみえる。そして梨の周囲のジグザグ……付点のついた自在なリズムみたいで楽しかった。全体の感じを軽やかにしているようで! 双方の梨の{向き}とも相和していた。
 とくに右の梨……ちょっと長い角の生えたオツムが動きかかってるみたいで(…のぞき込むとすぐに消えてしまうのだが。閃きのように!――だが梨の四方のブレたような斜線の筆触が、いまこうして複写を見ても、たしかにそれを暗示する――)延長上の画布端の塗り残しが磁気を帯びて、傾いた梨の躯を引っ張り合っていたからかな。


*「りんごとナプキン」1879-80
http://www.yasuda.co.jp/museum/cezan4.htm
りんごとナプキン:1879〜80:安田火災東郷青児美術館蔵

 とてもこまかに律動的な感覚・・小刻みに一方向な筆遣いの所為だろうか?(ちょうど影の方向に沿っていた…。)無造作に配置されたようでいて、じつに精緻に計算されていた、りんごの半円周(その軌道から一寸逸れるものも。)・・この弧に中心から交差する、ふたつの直線。青黄赤のりんごの不統一な色の並びも視線の運動にはよかったのだろう。くるくる巻きにたぐられたナプキンは、いかにも直径らしくりんごの円を横断してした。(だが雪をかぶった山並のようにも、それは映る…。というのも背後の壁に浮かび上がった植物模様が、気のせいのような緑の光芒を放っていたから。)
しかし奥のテーブル側面を直径のように考えると、たぐられたナプキンの山並の左のうねりはちょうど半円をつくるために肩を貸しているかにもみえる。だが半円だけだろうか?
もっとも手前の紅いりんごと右手に奥まった物影にひそむ緑のりんごは、背景の壁のもように吸い寄せられて――雲間から降りる光線を浴びてもみえるが――二等辺三角形をもかもしている。ナプキンの中央の盛り上がりと伸びる影とに手伝われて、幾つかの別な三角形も存在する。……
 それと意外に美しかったのは、古びた木のテーブルのトーン……。どことなく秋の大地のようで。壁紙の青みがかった銀灰色とは対照をなしていた。


*「鉢と牛乳入れ;牛乳入れとレモン」1882-83(画像なし;参考画像あり)
 シャルダンとモランディとの中間にセザンヌが在ること――

参考資料(画像)
セザンヌ
http://www.allposters.com/Galleryc.asp?aid=99869&parentaid=0&startat=viewcard.asp?card=31930-25-117943;Cezanne;6;Kitchen Table
シャルダン
http://sunsite.sut.ac.jp/cgfa/chardin/p-chardin1.htm
Pipes and Drinking Pitcher, 1737, Mus?e du Louvre, Paris. 77KB
http://www.ibiblio.org/wm/paint/auth/chardin/goblet.jpg
The Silver Goblet,17??,Musee du Louvre, Paris
モランディ
参考資料
http://nagoya.cool.ne.jp/ange3/page16.html
http://www.fgallery.com/museum/1998/9805.htm
http://page.freett.com/monet/artist/morandi.htm
(形而上学的矛盾を入念な精神性によって静謐世界に閉じこめた という印象を受ける)


*「布の上のりんご」1885(画像なし)
 枯れて……しぶ好み。ちょっとにくいかも?……
 このクロスの自然なふくらみは――影にやどる銀灰〜青系色とともに――雪のようだった。(大地にうっすらと降り積もる)
 重なるりんごの暖系色のぬくもりがひき立って見えた。が頂点のひとつは、よくみればかすかに宙に浮いたよう。クロスのやんわりした包容感を、それはそそっていた。
 右下端のあわい青、碧、そっとくすんだ赤が、やわらかい雪の大地にしのびよる、蔭の効果をにじませてもいた。そして塗り残し…。向こう岸にぽつんと取り残されたひとつのりんご。その向こうにひろがるのは――壁の絵なのだろうか……まるで晩秋の紅葉めいた―― 不思議な光景だった。未完の美


*「テーブルの上のミルク差しと果物」1890
http://www.nittsu.co.jp/supp/1999kouhan/cezanne/cezanne_2.htm(画像大!)
http://www.japandesign.ne.jp/HTM/SEMINAR/991020/sezanne-report.html
ノルウェー・オスロ美術館蔵

 おいこら!と図画の先生に怒られそうな構図!? これじゃ左右のテーブルの脇線が間違っている、などと……でもじつは、正しい伏線をセザンヌはちゃんと引いていた(画面右端)。 そう、この影のような伏線の角度が、日常的には正しい食卓。(上に無造作に置かれた静物たちのたたずまいからすれば。)そしてしばらく意味のわからなかった、床と壁との交角をしめす黒い帯の異様な強調……(タブローから離れても返って異様に目に付いた。)これは?やはりテーブルの脇線の本来の角度を(その垂直な交わりである空間の歯止めとして、在らしめるせいなのだろうか…?)それにしてもセザンヌは、なぜ実際のテーブルの上面のかたむき以上に俯瞰図的に見下ろした構図を、選んだのだろう??
 一見無秩序にも思われる静物たちは、なんだか躍り上がってみえる。
 妙に印象的なのは、水差しの取っ手。なんでこんなに強調されているのか…形も、白光りする色も。カンバスの真ん中だから?(だがなんで取っ手!など中心に据えるのだろう?)などとしばらく考え込んでいた(笑)。水差しの取っ手下から、にょっきり壁下をつたうように、帯板は出ていく。その交点が――テーブルの水平線とともに――[厳密な]中心点だからなのかな。(だとして、それがどうしたのだろう?――それと俯瞰図的強調と、どういう関係が?)など…。
 テーブルの水平線(x軸)と、水差しの取っ手との境界線(y軸)との交差を、ひょっとして強調したいのかな。(それは何なのだろう?)と、そこまでは考えたのだが。。。
 それにしてもこの水差し、異様に無機的で幾何学的で。でも嘴だけは何か語り掛けているようでもあり…。そして、わざと間違っている。上口と底面とが呼応していないのだ…。上口は丸みを帯びているのに、下はどうして(テーブル面に几帳面に沿って)まっすぐに引かれている!……ほんとは曲がり角が必要なはずだけれど?手前に出っ張った角が。まっすぐに引かれた水差しの底面は、この面がテーブルという水平線=x軸 と交わる垂直線=y軸[としての円筒]であることを強調されるため?(その他の球体に対し。)
 ということは、セザンヌがわざわざ俯瞰図的な極端さを強調した、テーブルの脇線の垂直関係とも呼応するわけでもあってみれば?
 すると……水差しの、この真正面の面の隣、唯一影を帯びた、取っ手の出る面である右側の側面は?――この面をテーブルへと降りる垂直線をずっと延長すると、丁度テーブルの右下端の角にみごとにぶつかる。(実際みかん(?)みたいな小さな果物の暗示する点線にみちびかれ、皿の上のふたつのりんごをほぼまっぷたつに横切って、テーブルの角へと届いていく。これは、テーブルそのものをも二等分する線。目で補えるこの点線は、あの壁下をナナメに走る黒い帯板と、きれいな二等辺三角形を作るようにも見えるのだが……。(それはテーブルの脇線と垂直に交わる)
 これらが、一体何の意図のもとに?――――

 ようするに、水差しの上面(注ぎ口)とつじつまのあう、テーブルの脇線による垂直(俯瞰図)で示される平面上の次元(空間1)と、〔#この際重要なのは、壁の帯板があのような角度で部屋を突っ切ってみえる、その 視角こそが、この空間1(テーブルへの俯瞰図的次元)なのだ、――示唆性――という事かも知れない〕 水差しの下面(テーブルの水平線と密着;平行)とつじつまのあう、テーブルわきの伏線で暗示される平面上の次元(空間2)とを、ひとつの画面上に合体させようとした――セザンヌ’s バーチャルリアリティ という理解でよいのかどうか…。
 絵画の2次元空間を、何とか有効で多義的な超-日常空間にしようとしていたのか…。
 それにしても美しかったのは、もっとも手前に描かれた机の引き出しの面だった。塗り残しはあるけれども、ハイライトで輝いていて意外に質感が出ていた。テーブル脇の線の俯瞰図的つじつまからすると、ここの角度も間違いになってしまうのだろうけど(勿論故意に。*それはテーブルの外に施されている伏線によって示される空間2の角度に、むしろ対応するだろう。)
 何か異様な或る秩序へのこだわりを感じはじめる。――この辺り

 その意味でも のちのモランディあたりを彷彿するといえばする・・・?


*「りんごとオレンジ」1899
http://www.so-net.ne.jp/page/visual/contents/museum/new/;オルセー美術館蔵
http://www.artchive.com/artchive/C/cezanne/appsorgs.jpg.html (拡大:from Meyer Schapiro on Cezanne)
 有名な「りんごとオレンジ」…。やはり実物も、かなり密集性ありというか。
 そして美術館では、これと全く対照的な「瓶のある静物1890」とたしか隣あわせだった。
 (空気間の有無の比較;極彩色と枯淡色の比較――効果的配置)
 りんごとオレンジにおける、この物体と物体間の空白のなさ・濃密さは、「しょうが壺のある静物」のモンドリアンや「レスタック…」のブラックの空間構成をやはり物語っている処があるようだ。セザンヌ自身の風景画との比較でいえば、やはり「ガルダンヌ1895」や「ミベビュス石切場1895」以降、「シャトーノワール1900」前後――空間の無化、といえるだろうか。
 この「りんごとオレンジ」には、――この後の「92.庭園の花瓶1900-04」とともに――妙に‘風景画’を暗示させられる。ことに「庭園…」のほうは、まさしく「シャトー・ノワール」そのものの世界だった。青紺と黄色(ゴッホなど彷彿)の色彩構成とドラクロワ〜ルドン〜ファンタン=ラトゥール路線へつながる気流の上昇感…等々。
(この庭園を背景に、筆触の暗示する気流の上昇とともに花瓶は宙に浮いている。)

 それはともかく、「りんごとオレンジ」。
 まず驚いたのは、テーブルクロスの虹の光沢のうつくしさ。これは落胆するほど、やはり印刷では出ていない…。襞の螺旋の渦奥にまで、よどんだ感じが全くなく、真珠のような彩光が白地に淡くにじんでとてもきれいだった。
 そしてもうそれ以外は暖色系統の集まり。背景のカーテン山脈までオリエンタルな、リズミカルな光彩を放ち「アルジェの女たち」風でもあった。
 勿論この模様も、りんご、水差し、深みどりのソファ、家具木材……すべての色彩の、カーテン生地への転身なのだったが。
 丸みを帯びた家具の上に丸みを帯びた静物群を置いていて、実に不安定な構図なのが、ちょっと現実とは別空間を、みごとに形造っていた。コンポート・皿・水差し、すべてが傾いており、またその傾き加減が一見ばらばら。だが右上から左下へと転回下降する俯瞰図的なコマ送りになっている(家具の傾斜を利用する形で…。)その旋回しつつ左下への傾斜を、すべてのりんごたち、食器たちの{向き}がそれぞれ自律的に暗示していた。起伏のはげしいクロスの裏へ遠回りしつつそっと雪崩落ちるような仕方で……。(渦めいてテーブルを降りるクロスは、まるで滝を演出している、だが中央のりんごはただちにそこへと落ちるのではなく、ソファの左傾斜――現実には水平なはずだが、緯度としては故意にデフォルメされている――に促されもう一方のゆるやかな左の滝の方位へと傾いている。それは、他のりんごたちの配置が示唆する、徐々に渦巻き降りるような運動の方向性と一致する…。)
 そうなのだ。とくに惹きつけられる、画面中心点のりんごのかたむき。何か絶妙だった。
 留まるでもなく、落ちるでもなく、転がるでもなく、、そして私たち観察者の真正面を向くでもなく、顔をそむけるでもなく…。そうして見ていると、すべてのりんごたちが、それぞれひとつのりんごの転回図の、一こま一こまの分身のように、転がりながら向きをかえて降りてくるようにも見えるのだ…。おそらく一つひとつ、ひっくり返しては並べたのには違いない…。
 色の諧調だけでなく、物体そのものの表情をもめくるめく転調させている、という感じ…。それにしてもまたソファ?の端と端のつじつまを合わせていない。

参考資料(画像)――for「テーブルの上のミルク差しと果物」「りんごとオレンジ」
☆構図における工夫;キュビズム-シュプレマティズム-未来派的発想の先駆
http://www.ibiblio.org/wm/paint/auth/cezanne/portraits/geffroy/geffroy.jpg
「ギュスタヴ・ジェフロワの肖像」1895: Collection Mr. and Mrs. Rene Lecomte, Paris
http://www.ibiblio.org/wm/paint/auth/cezanne/sl/plaster-cupid/cezanne.plaster-cupid.jpg
「キューピッドのある静物」1895: Courtauld Institute ofArt,London
#ともに、3次元の軸ズレ;俯瞰図角度の差異強調を、ものの流れと、それを喚起しつつ分断する、断続的配置(位相づくり)によって工夫


*「.瓶のある静物」1890
 これは静物画のなかでは、とくにとても惹かれた作品。画面としては不連続の連続的な静物同士の向き(回転する運動性)のようなものもあり、例によってテーブルの傾きと視角的な不統一(ひずみ)もあるのだけれど、印象としては非常に静寂というか……枯れた、静謐にちかいものがあり、内的には淡々と、しかし強烈な秩序を求めている、という感じを受ける。こうした意味でこの作品も、シャルダン〜モランディの系譜にあたるのかな…。色調的にはかならずしも彼らのものではないと思うけれど(その中間点?)
 静寂―― 一番の理由は壁とテーブル上の世界が、他の作品以上に均質であること。
 図と地の区別がない……もとより淡い色彩そのものからして。 とくに唯一の円筒である、瓶 の空虚な感じが印象的だった――

参考資料(画像)for「りんごとナプキン」・「瓶のある静物」
#背景カーテンや壁紙の模様とテーブル上の静物の同次元化 / 同諧調濃淡
http://sunsite.sut.ac.jp/cgfa/cezanne/p-cezanne2.htm
「水差しのある静物」(Still Life with Drapery)1899:エルミタージュ美術館蔵
――水差と皿2つ、(片方はテーブルからはみ出した皿)・白いクロス・背景カーテンの葉模様生地と同色諧調(濃淡差)の静物――

http://sunsite.sut.ac.jp/cgfa/cezanne/p-cezanne17.htm
「たまねぎとボトル」(Onions and Bottle)1895-1900:オルセー美術館蔵
#瓶・たまねぎ・ナイフ・傾いた皿。巻かれて降りたクロス・壁の色模様のにじみと静物の同諧調

http://sunsite.sut.ac.jp/cgfa/cezanne/p-cezanne18.htm
「静物」(Still Life):1890-94:個人蔵
#壁と静物の同諧調;濃淡


*「砂糖壺、梨とテーブルクロス」1893-94
 カーテンやテーブルクロスという{地}自体に図柄を込め、図と地の価値(次元)の差異をいっそう狭めるのは、さきのりんごとオレンジでも見られたけれど、この絵の場合、むしろ地を強調しているとすら思われる。図柄が白地に黒のいっそう幾何学めいた植物文様なのは、じかにピカソやブラック、キュビズムの黒い線を喚起する・・。
 #ピカソの「アヴィニョンの娘(ポートレート)」以降・ブラックの「サクレクール」 「マンドリン」以降。
 これに対して静物のほうも、発色のあでやかな黄色、鮮血色に近い赤とエメラルド色が用いられるとともに、その形態も球体というよりは先のするどさを帯びた洋梨が用いられている。左からなだれ落ちるようなテーブルの傾斜、呼応する梨の円錐たちの、皿の上と周囲で上下左右360度回転しつつ9の字に降りる様。右端で歯止めをかけるほぼ球形に近い、ひきしまったレモンの黄。
 また砂糖壺の白い球体は、テーブルクロスの曲線的幾何学秩序にまるで兄弟みたいに照応し、おつむの曲がった蓋ツマミや丸い取っ手を左右につけて、洋梨たちの細長さとのコントラストを強調しながら、画布の中央から立ち現れていた。(果物の死角から、皿の弧上と妙に不可分に足場を接する形で。)
 それと、これはクロスの黒い線との調和のためか、他の静物画よりいっそう、皿や果物自身の「蔭」たちが、まるで自らの形態を持っているかのように黒さも厚みも強調され、実在感をおびてみえた。だからなおさらキュビズム的?(気のせいか・・)
 筆致でおもしろかったのは、テーブルでの方向付けと、これをそのまま延長する壁での方向付けが、色の幽かな変化を帯びつつ、ほぼ同一次元の協奏曲ふうに右下への傾斜を鼓舞していて、まるで蔭の方位に刃向かっては上昇していたことだ……。
 一寸した緊張感。

参考資料(画像)
http://www.ibiblio.org/wm/paint/auth/cezanne/sl/peppermint/cezanne.peppermint.jpg
「ペパーミントボトルのある静物」(Still Life with Peppermint Bottle):1890-94:
ワシントン・ナショナルギャラリー蔵
#クロスの黒模様(キュビズム系の黒彷彿)くだもの・瓶・グラス

http://sunsite.sut.ac.jp/cgfa/cezanne/p-cezanne18.htm
「静物」(Still Life):1890-94:個人蔵
#カーテンの黒系(キュビズムの黒彷彿)壺・瓶・傾いた皿・こぼれ落ちかかるりんご・砂糖壺
(キュビズムをふちどる黒――変遷)
http://www.allposters.com/Galleryc.asp?aid=99869&parentaid=0&startat=viewcard.asp?card=31930-25-117943;Picasso;32;Guernica 1937
http://www.allposters.com/Galleryc.asp?aid=99869&parentaid=0&startat=viewcard.asp?card=31930-25-117943;Braque;6;Still Life
  同   Braque;3;Purple Plums / Round Table

*「三つの髑髏」1898-1990(画像なし;参考画像あり)
 髑髏は静物画に入れられてたのか。。でもほんとうは人物画?どちらに入るんでしょう? ドーミエが彷彿する頃の初期の作品に出てくるのはいかにも、といった感じもするが、シャトーノワールのような一種グロテスクな色彩とタッチに移行するころに!再び描かれていた・・。尤も髑髏描きは、画家の歴史にはけしてめずらしいものではなく慣習に近かった面があるかも知れない。
 それにしてもキュビズム的手法の立方体の合体のすきまをふちどるすすけた黒は、このセザンヌの髑髏の世界とはもう、ひとつの通奏低音で結ばれている……という気がするのは・・(ローザ,マニャスコ,グァルディ,ピラネージもだったりして?)
 即物性と魂、無機質と有機質の同居を、これ以上端的にあらわした題材はないのかも知れない。
参考資料 (画像)
http://www.ibiblio.org/wm/paint/auth/cezanne/sl/cezanne.pyramid-skulls.jpg
「ピラミッド上に重なった髑髏」(Pyramid of Skulls)1901:個人蔵

                                                      了

 
エッセイの目次   ☆「麗子の書斎」