改憲論議と「自衛」の実体

4月4日(日)「改憲と世論――問うべき論点」
「9条をめぐりましても、最近では改正派の方が各種世論調査では支持が不支持を上回っている状況」(山崎拓氏発言。氏のホームページより) 
 これが正しい情報だとしたら、平和の危機はまたさらに深まったと言える。
 尤も、国民が容認する「武力行使」とは厳密な意味で「侵略者」から「正当防衛」としてのそれであろう。今の時点ではそこにまだ留まっていると私は推測する。決して、「自衛」の名で、他国の領土内への報復攻撃も是とするものではないと思われる。ましてや、「我が国への侵略の恐れがあるとして、<先制攻撃>を行う」が如き加害者としての軍事行動を容認しているわけではないと思われる。
 憲法論議の際には、「自衛」とか、「侵略」といった<言葉>が飛び交うだろうが、その実体を明確にして論じる必要があるだろう。さもないと、好戦的な改憲論が国民の含意とは差異をもったまま国民自身の過半の支持を得てしまう恐れが多分に存すると思われる。その点について十分な警戒が必要である。





4月6日(月)「自衛の実体と憲法論議」
 山崎拓氏は、自身のホームページでこうも言っている。「『第○条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、自衛権を行使する場合を除き、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は、永久にこれを放棄する。」
 これだけ読むと、自衛のための戦争以外は放棄すると、まるで「戦争放棄」が主眼であるかのようだ。だが、もちろん、彼の真意はそこにあるのではないだろう。この文面は逆に読まれなければならない。つまり、「自衛のための戦争は放棄しない。行うのだ」というようにだ。

 この「晩鐘抄録」の読者の中には、それは津吹純平が言っていることと同じではないか。私が山崎氏の言論を批判するのは矛盾していると考える方がいるかもしれない。
 だが、私はやはり山崎氏のこの言論には大きな疑念を抱いている。
 問題は、「自衛」の在り方だ。何度も言っているように、私の言う「自衛」とは、完全に「守り」に徹したものだ。ミサイル攻撃にせよ、空軍による侵略爆撃にせよ、敵国の一方的な攻撃に対して、日本の主権と独立、平和と安全、国民の命と財産を守るために、やむをえず武力を以て応戦し撃退するという、真の意味での「専守防衛」だ。

 が、山崎拓氏の「自衛」はそうではないだろう。いったん相手国から攻撃を受けた場合、ほとんど無原則に反撃をすることも「自衛」のうちと考えているはずだ。敵国領土内への報復攻撃もそれが相手国の先制攻撃に対する反撃であるかぎりに於いて是認するのだろう。「自衛」という表現に惑わされてはいけない。
 近いうちに具象化するであろう「憲法論議」かつ「防衛論議」に於いて、その言葉の実体について、明確に論じ合わなければならないだろう。それぞれの含意をそのままに議論しても事の実態は大きく差異を生じるだけである。


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