「明白となった新選挙制度の欠陥」


えええええ津吹 純平


                                                         

     「自民党の勝利?」

 今回の選挙は、選挙制度が小選挙制比例代表制に変わってから初めての選挙であった。少なくない批判にこたえることもなく、いわば政治決着という形で導入されたこの制度だったが、やはり、懸念していたことが現実のものとなった。
 マスコミなどでは「自民党の勝利」が大々的に報じられたが、本当に勝利に値する結果だったのか。
 実は、小選挙区における自民党の得票率は38.63%に過ぎなかったのである。もし、民意を正確に反映させる比例代表制で行なわれていれば、190議席程度となっていたことになる。それが、議席の獲得率は小選挙区で実に56.3%にも達した。
 この選挙制度が大政党に有利であり、一党独占支配を生みやすいという批判の正当性が明らかになったといえよう。


     「重複立候補」

 この重複立候補の矛盾については多くの識者や市民も触れているので、多言を要することもないだろう。とにかく、小選挙区で4位の落選議員が比例区のほうで復活当選というのは民意の反映に真っ向から背くものだ。
 ただ、この問題で指摘しておかなければならないのは、重複立候補制の否定を、単純小選挙区制導入に結びつける議論が出ている点だ。
 重複立候補制の矛盾点は、いくつかあるが、前述のように、民意を反映しないという問題も強く認識されなければならない。とすれば、今以上に民意の反映が薄くなる単純小選挙区制への移行など、全く論外である。
 その批判の根拠を無視した暴論には、強く反対の声を上げたいと思う。



     「疑惑議員の当選」

 この小選挙区制導入に積極的だった識者、例えば福岡政行白鴎大学教授らが強く主張していたのが、小選挙区制になれば、過半数の得票を必要とするので、疑惑議員などが当選することは困難になるというものだ。有権者の側からいえば、落したい候補者を落すことができるというものだった。
 結果は、中村喜四朗議員をはじめ、過去リクルート事件などで疑惑の対象になった灰色政治家や有罪判決を受けた政治家などが悉く当選してしまった。
 制度との絡みで言えば、先の重複立候補制もその原因となっているほか、ほとんどの選挙区で3名以上の立候補となったため、過半数を得なくても当選できることになったことも大きな原因であろう。
 そもそも、福岡氏らの「過半数云々」という主張は、机上の空論に過ぎなかったのである。勝手に2大政党制を前提にした議論だったのである。
 これについて、今回はまだ初めてだったから多数の立候補者が出たが、いずれ2大政党制に収斂されるはずであり、その時点では、過半数の得票が必須になるという言い訳をする識者もあるが、これは、現実を無視した観念論だ。
 現実には、日本共産党という存在があり、世界的な社会主義・共産主義政党の退潮のなかにあって、日本共産党は壊滅の道を歩んでいるどころか、不十分ながら旧社会党支持層の一部を取り込むなどして勢力を伸ばしているのである。つまり、日本共産党の存在があるかぎり、特に都市部では、過半数の得票がボーダーラインとなる状況にはほど遠い実態を示すことになるはずである。
 ここ数年来の国民の意識の大勢は、決して保守二大政党制に傾いているわけではないのに、政治の世界だけで事をそのように運ぼうとすることには矛盾が生じざるを得ないだろう。
 それとも、福岡氏らは、持論の欠陥を、日本共産党のせいにして開き直るつもりであろうか。



     「金のかからない制度?」

 小選挙区制導入論者は、「お金がかからない制度」であるとも強く主張していた。
 実際は、どうであったか。
 国民の血税を政党が助成金として得たにもかかわらず、企業献金を自粛することもなく、多額の選挙資金を投入したのが実態であった。
 或る政治家が言っていたが、小選挙区になったので、今までのようにある程度おおざっぱに働きかけるというわけにはいかず、選挙民全てを対象にしなければならないので、電話代だけでも以前より嵩むのだそうだ。
 それに、金がかかる選挙になる根本の原因は、政策論争の実践よりも、金に頼る風潮があることだろう。結局は、金をつぎ込んだほうが勝ちという意識が候補者たちの本音としてあるのではないか。
 ともかく、この選挙制度にしても、「金のかからない選挙」の実現はほど遠いというのが実態であった。



     「非活発な政策論争」

 同士打ちとなる中選挙区制と異なって、小選挙区制では党対党の戦いになるので、政策論争が活発になる、というのが、小選挙区制導入論者の主張だった。
 これも、実態は、もののみごとに、その期待を裏切るものとなった。
 原因の一つに、自民党と新進党、それに民主党の間に、大きな政策上の差異がないことが指摘されている。いずれも、今回の争点になった行政改革問題では、改革推進の立場を取っていたため、論争が起こりにくかったというのである。
 たしかに、嘗ての自民党対社会党のような対立は存していないという意味ではその通りであろう。だが、そもそも民主党が誕生した背景には、行革をめぐる自民党や新進党との相克があったはずだ。また、行革そのものにしても、総論賛成でも、具体的な各論の位相では、各党の意識や対応には少なからぬ相違点が存するはずである。
 論争すべき争点は存していたのである。(より根本的で恒常的な主題としての、歴史認識や国際貢献の在り方などの問題でのなされるべき争点は別にしても)。
 それが、現実には活発な政策論争はほとんど皆無に等しいものであった。はっきり言えば、政治家たちに、論点を明確にする思考力が欠如していることが最大の原因であろう。これは日本人全般にも言えることだが、対話能力の欠如こそが政策論争を不毛なものにする最大の原因だと考えられる。
 加えて、政治家たちが、政策論争では、票は得られないと観念していることも原因の一つであろう。有権者には、むずかしい政策論争は受け入れられないという本音を多くの政治家たちが抱いていると思われる。残念ながら問題によってはそうした場合もあると言わざるを得ないが、とにかくそうした観念のゆえに、彼らは政策論争に挑まないのである。いや、正確に言えば、政策論争に挑む能力の欠如を自己認識することなく、方便として、国民の意識の低さを大義名分に政策論争を回避してしまうのである。そして、自らの品性の貧しさもあって、ああした愚劣な非難中傷合戦に無駄なエネルギーを注ぎ込むのである。
 いずれにせよ、こうした政治家自身の知性と人格の向上がなされない限り、選挙制度の改変によって、まともな政策論争を行ない得るというのは、幻想に過ぎないのである。



     「投票率の低さ」

 民主主義の観点からなされた、小選挙区制が極めて危険な選挙制度であるとの批判に対して、ほとんどまともな反論ができ得なかった小選挙区制導入賛成または容認の識者やジャーナリストたちの最後にして唯一の論拠は、中選挙区制における「投票率の低さ」という問題であった。
 なぜか、投票率の低さが「選挙制度」の所為だとして、中選挙区制否定を合理化させ、これまたなぜか、小選挙区制が投票率の向上をもたらすと期待され、その導入が支持され容認されたのである。
 投票率の低さは、なんといっても、殊に支持政党無し層の民意を反映している政党や政治家の存在が希少であることに最大の原因があるのではないか。
 もちろん、それ以前の問題として、現実政治の場で、国民を無視したり裏切ったりなどする暴挙が重ねられてきたことへの反発や不信感や諦観があることは言うまでもない。
 そうした政治や政治家自身の在り方にこそ、投票率の低さの原因は存するのである。
 それを、選挙制度を改変することによって向上し得ると期待するのは、はっきり言って空論であり、観念的である。
        *
 以上、今回の新しい選挙制度の欠陥を指摘したが、その欠陥のほとんどは、今回は初めてだったからそうなった、何回か重ねれば良い結果が出るなぞと強弁できるものではない。むしろ、矛盾は拡大され固定化する恐れすらあるだろう。
 やはり、今回の選挙制度は、即刻改めるべきである。
 とは言え、そのことは従来の中選挙区制に戻すということを直ちに意味するわけではない。そこにも問題が認められるのであれば、改めて充分な論議を重ねるべきであろう。小選挙区制廃止論者を政治改革に否定的な保守主義者と決めつける暴論は、厳に慎むべきである。そして、小選挙区制推進論者や容認した識者やジャーナリストたちは、謙虚に、反省し、自己批判すべきである。




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