<思 想>

「近代理念・戦後民主主義批判の陥穽」

                 ――――新日本主義者たちの思想基盤

                                         津吹 純平





   近代・戦後礼賛の罠

 いつの頃からであろうか。保守派の知識人たちが言いたい放題になったのは。特に、西欧近代と戦後民主主義にたいする批判が厳しい。ひところのように、共産党やマルクス主義、日教組など、特定の左翼組織に向けられるのではない。もちろん今でもこれらは批判に晒されはするが、むしろ嘲笑の対象になることのほうが多い。それほどに問題にされていないのである。少なくとも表面的にはそうである。彼らの標的になっているのは、そうした個々の存在ではなく、近代そのもの、戦後そのものなのである。
 言うまでもなく、近代理念であれ、戦後理念であれ、絶対価値と見做し、完全無欠と崇拝するのは、偏った態度であろう。この当然のことが、日本人のあいだで顧みられてこなかったきらいは、たしかにあると言わなければならない。それは、戦前の天皇制絶対主義、儒教的封建主義、日本主義等々の価値を狂信したことと類似である。そこでは西欧近代と戦後民主主義にたいする過剰な期待と志向があった。それらの弊害や欠陥や陥穽などにたいする充分な警戒と配慮に欠けていた。それらによって非難され否定されたもののなかに、実はこんにちもわたしたちが失ってはならない美徳が存してあった。
 戦争に敗れ、アメリカの占領下におかれた特殊な状態での再出発がなさしめたことであろう。それもまた致し方あるまい。が、経済力がかつての戦勝国にも優るほどに達したと言われる今、喪失していた自信を回復し、他者批判に精を出すのも、また事の成り行きかもしれない。殊に、日本の成功が、継子扱いされてきた日本の伝統的観念、秩序体系に負うところ大であるとの声も聞かれる今、戦勝国の価値体系の外に出ようとするのも、敗戦国の民族の必然なのかも知れぬ。
 このような認識を抱くわたしとしては、昨今の近代批判、戦後批判を、それだけで、「反動」と非難するつもりはない。



   近代批判・戦後批判の二つの罠

 ただ、昨今の近代理念批判、戦後理念批判には、些か疑念を抱かざるを得ない点が存するのも、また事実だ。
 結論を先取りして言えば、二つの点で問題があると言えよう。すなわち、一つは、近代理念批判、戦後理念批判のなかに、近代と戦後の立場から見て、明らかに濡れ衣と言うべき誤解・誤謬が存することである。また、もう一つは、権力犯罪や社会悪や体制矛盾にたいする批判が著しく弱いということである。この二点において、わたしは、その近代理念批判、戦後理念批判にも、納得できないものを感じているのである。
 問題をもう少し具体的に論じよう。彼らの近代主義批判のなかには、なぜか、「近代資本主義」が入っていない。いや、資本主義を否定しないのが悪いと、言っているのではない。ただ、現代社会と日本人に弊害をもたらした原因の一つとして、資本主義の問題がまったく視野から欠落している点に、疑念を抱かざるを得ないのである。
 ここで資本主義というイデオロギー問題を出すことに抵抗があるのなら、もっと一般的に経済活動の問題と言い換えてもいい。60年安保以来、日本は政治の季節から経済の季節に転換を遂げたと言っても過言ではないだろう。それは、意識の問題としてばかりではなく、行政と国民生活の志向性としてみられたことである。
 利潤追求、生産性の拡大、合理化、過剰労働、主婦労働、第二次産業、第三次産業の育成、工業都市化、大量消費生活、物質欲の増大、等々。経済活動に伴うこれらの現象が、こんにち日本の社会と日本人に、一定の成果を生み出した反面、深刻な「負の財産」をもたらした事実を、彼らは、ほとんどまったく見落としているのである。言い換えれば、こんにち日本の社会と日本人にみられる諸々の弊害について、その原因を追求するにあたり、前記のような事柄との関係を考察しようとの気配さえ、彼らにはまったく存しないのである。
 これは、どう考えても、おかしな事ではないだろうか。あまりにも、不自然な事ではないだろうか。
 こうした問題を捉えない近代批判、戦後批判は、どうしても、「政治的」にならざるを得ないだろう。すべての問題を資本主義の悪の必然に帰着させてしまう立場が過ぎる程に「政治的」ならば、資本主義の営みの影響をまったく排除してしまう立場も、極めて「政治的」と言わざるを得ない。



   現代日本の弊害と近代理念・戦後理念

 ところで、資本主義制度と政策の問題を欠落させて、彼らは、現代日本社会と日本人の諸々の弊害の原因を、どこに見出しているのであろうか。
 彼らに言わせれば、政治闘争と組合闘争に明け暮れる日教組に支配されてきた戦後教育と、マルクス主義や同伴思想の立場にたつ左翼知識人と進歩的文化人の影響下にあったマスコミ・ジャーナリズムに、その原因の多くが存することになる。さらに辛辣な物言いをする論者は、こうした反体制勢力や、アメリカや中国をはじめとした、さきの大戦での戦勝国側に気兼ねしてきたとして、政府与党にも、矛先を向けているのである。
 また、抽象的次元の問題として言えば、自由、平等、近代的自我、基本的人権といった近代ヒューマニズムや、主権在民、議会制政党政治、普通選挙等々といった近代民主主義を、槍玉にあげている。
 もっと端的に言えば、戦後日本人が「平和と民主主義」という欺瞞的な観念(?)に縛られてきたことに、その弊害をみるのである。そして、さらに、「近代」と「西欧」を礼賛して、ひたすら、「近代化」と「西欧化」に邁進してきたことにも、決定的な弊害をみるのである。
 はじめにも言ったように、言わば、「進歩思想」「進歩主義」は、思想それ自体としても完成しているわけではないだろう。また、現実化にあたっては、時代的、社会的制約を受けて、甚だしい変容を余儀なくされることもあるだろう。さらに、この価値を志向する人間の未熟さから、不本意な実態を生じることもあるだろう。
 例えば、自由にしても、平等にしても、よく言われることだが、その意味をはきちがえたり、行き過ぎたり、期待し過ぎたり、過敏になり過ぎたり、といった問題が存在していよう。現代人は、この価値に目覚めたおかげで、却って厄介な負担を抱えてしまったという側面も、ないではない。
 当然、彼らの近代批判・戦後批判はこうした問題意識を含むものであろう。その限りでは、彼らの主張にも、それなりの道理が認められると言える。



   現代日本の弊害と「体制」の問題

 だが、その弊害の原因の大半を進歩思想、進歩主義、それ自体の欠陥に帰してしまったり、他の思想や主義に関わる問題――封建思想や資本主義の問題――として捉えることをしなかったという点には、やはり疑問が生じるのである。
 さきの自由の問題にしても、「自由競争」という資本主義経済の原則が引き起こす弊害も、現代社会の問題として、考察されなければならないだろう。しかもそれは、経済生活に関わる位相においてばかりではなく、自由の問題をめぐる、より一般的な位相においても、看過できない弊害をもたらしているのである。
 一つ断っておかねばならないが、わたしは「自由競争」の原理を、否定するつもりはない。それに、ここで〈資本主義否定〉を展開しようと言うのでもない。ただ、資本主義を肯定する立場にたったとしても、容認すべきではないほどの問題が存していることを、指摘したいのである。

 もう一つ具体的に問題を論じよう。近代批判、戦後批判を展開する論者がよく取り上げる問題に、「近代自我」の問題がある。これも、彼らに言わせれば、自己と他者をまったく切り離した存在として捉えたり、自己の尊厳を絶対視したりなど、西洋近代理念の自己中心的思想に最大の問題が存すると言うのである。
 この点も、わたしは、ある程度彼らの言い分を認めるに吝かではない。近代自我が、本質的に、自意識過剰を生み、自己絶対意識を孕み、自己肥大化をもたらしがちであるという点は、率直に認めなければなるまい。
 だが、この近代自我の弊害を言うなら、同時に、日本的な「我」の問題を考えないわけにはいかないだろう。
 つまり、ここでわたしが言いたいのは、日本人が主観的であり、自己中心的であり、利己主義的であるといった欠点を有しているとしても、それは何も、西欧近代の輸入ではないという事である。
 天皇制を頂点とした一大家族国家社会と言われ、村落共同体社会と言われ、ときには、「無私」が高らかに美徳として叫ばれる社会ではあるが、そこで自意識が萎えてしまうわけではない。極度に排他的な「自己愛」の営みが頻りである。強烈なエゴをもち個人主義の原理にたつ西欧人と、まったく変わらぬほどの「私」意識を働かせているのである。
 その「私」意識が最大限に膨張して噴出したのが、あの「大東亜共栄圏」思想であり、侵略と戦争の歴史であった。むろん、あの時代は近代化への道でもあったわけであり、ゆえに近代主義の破産という側面もあると思われるが、本質的には、やはり、反近代思想の天皇制日本主義思想の破産と捉えるべきであろう。
 かの決定的な問題を出さずとも、こんにちの時代と社会において「自我」ならぬ「我」の表出は、顕著だと言えるだろう。要するにそれは、自己と他者の緊張関係を欠き、他者の集団や全体と癒着し、それに迎合し、あるいは逆に、それを無視して我欲のままに振る舞うという表出の仕方をするのである。

 近代理念、戦後理念の陥穽を概括的に指摘するこの小論では詳細な論証を控えねばならないが、「近代資本主義」「自由競争」「自我」ならぬ「我」などが、戦後の日本社会と日本人に多大な影響を与えてきたことは、疑い得ない事実であろう。こんにちの日本社会と日本人に反省を迫る諸々の弊害が、上記のごとき〈枠組み〉によっても引き起こされていることは明らかだと思われる。
 従って、こんにちの状況を深刻に憂え、真面目に原因を探り、解決の道を求めようとするのであれば、こうした言わば「保守体制」の問題も考察の対象にしなければならないであろう。これらにも厳しい批判の矢を放たなければならないはずである。
 ところが、彼らは、殊更、近代理念そのもの、戦後理念そのものによる弊害であると見做す。近代ヒューマニズムなり、近代合理主義なりがもたらした弊害であると断じて憚らない。また戦後の平和と民主主義思想や、反伝統、反保守主義や、西欧近代主義や、マルクス主義を核とした左翼思想などに、主たる原因が存するときめつけるのである。言わば、「進歩体制」に属する問題として、厳しい批判を展開しているのが実態である。
繰り返すが、これらの近代理念・戦後理念にまったく問題がないと言うわけではない。掲げた理想とは程遠い現象を呈しているものもある。彼らの批判が正当な場合も少なくはない。だが明らかに濡れ衣である場合もまた少なくはないし、こうした「進歩体制」の理念が与えた影響なぞは、「保守体制」の理念が与えた影響とは比較だにできないのである。
 実際、この国の近代と戦後を支配してきた営みは、紛れもなく、「保守体制」の営みとしての近代理念であり戦後理念であり前近代理念なのである。こんにち〈近代の超克〉を唱え、〈脱戦後〉を主張するとすれば、まず何よりも先に、その事実こそを率直に認め、深く検証し、鋭い批判を為すべきであろう。
 そうした現実の真相を捉えていない批判、公正さを欠いた批判は、やはり問題である。真に〈近代〉と〈戦後〉を超克しなければならないと考えている者にとって、著しく説得力の希薄な批判と言わざるを得ない。
 そして、実は、それのみであるばかりか、「進歩体制」的近代理念・戦後理念にたいして偏見を抱いている事実、その一方で「保守体制」的近代・戦後と、前近代・戦前的特質をもつ体制、及び伝統・保守等々にたいして無批判である事実、この二つの事実こそは、彼らの思想基盤を、みずから明らかにしていると言えるであろう。それが、単に評価でき得ないばかりか、極めて危険な営みであることを物語っているであろう。



   彼らの思想基盤

 残念ながら、彼らは、「ポスト・モダン」を形成することも、それを表象することもできないと言わなければならない。
 近代理念と戦後理念の批判に当たっては、その歴史的役割と今日的役割を正当に評価することがまず前提にならなければなるまいが、彼らは、この点で、正当な批判者としての資格を有してはいないのである。
 彼らの営みは、前近代や戦前を支配してきた諸々の理念や意識・感情にたいする批判であり、超克であるところの「進歩体制」的な近代理念や戦後理念を、充分に内包したものとは言えない。彼らが、こんにちもなお失われていない近代理念と戦後理念の価値を尊重し、その敵との戦いにおいて連帯する位置に己を立たしめているとは、決して認められないのである。
 蓋し、彼らは、未来に向けての急進的変革者とは言えないだろう。「進歩体制」的近代理念や戦後理念における究極的な限界を指摘し、未来をきりひらくための、真の〈超克〉を語るべき、名誉ある変革者・創造者とはなり得ないであろう。
 まことに残念ながら、彼らは時代を過去へと遡行させる〈復古主義者〉であると言わねばならぬ。と同時に、「保守体制」的な〈超近代主義者〉であるとも言わねばならぬ。
 この二つが奇妙に同一の主体によって併存しているのがこんにち的な特徴ではあるが、いずれにせよ、昨今、近代理念批判・戦後理念批判を展開し、その〈無効と解体〉とを叫んでいる営みは、人類の歴史の大きな流れに抗する、極めて危険な「反動」であると、見做さざるを得ないのである。

                                             了




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