<マスコミ・ジャーナリズム論>

『平和の砦となり得るために何をなすべきか』
連載 第3回

津吹 純平



◎〈挫折〉の発想様式―――
◇「マスコミ・ジャーナリズム的位相の問題―――」

〈挫折〉の発想様式をこれまで政治的位相において検証したきたのであるが、いよいよここからはマスコミ・ジャーナリズム的位相の問題を検証したいと思う。政治的位相において論述した戦後民主主義的進歩派における〈挫折派〉の誤謬と限界が、ジャーナリスト自身の思想的実体を問いかけるものだったのに対し、ここでの論述は、まさに彼らの専門のマスコミ・ジャーナリズムにおける原理の実体を問うものである。従ってほんらいなら門外漢の私が口出しすることは差し控えるところなのだが、この点での著しい衰弱がさきの政治的位相の誤謬と限界にも増してこんにち深刻な実態にあり、それが結局、思想的脆弱さをマスコミ・ジャーナリズムの営みのなかで克服しえない原因になっていると考えられるので、敢えて、私見を述べたいと思うのである。
 また、実をいえば、〈保守・反動派〉や〈挫折派〉の開き直りや言い訳に対する決定的な批判となりえる問題なのである。その意味でも、我身を顧みずこの問題の検証に時を費やしたいと思う。


*事実伝達における誤謬―――
             「客観的で公正な事実の伝達」

ここで指摘したい問題はまず自衛隊と日米安保の実態についての報道だ。海外派兵問題や現在のPKO(PKF)問題において焦点になっている自衛隊の実態について、またPKO(PKF)への参加が事実上アメリカの戦略に組み込まれることになりかねない事は湾岸戦争における複数の米高官の発言からも明白であり、その意味で法案と密接な関係を有している日米安保の実態について、マスコミ・ジャーナリズムはどこまできちんと伝えているだろうか。
言うまでもなく、法案の賛否を決める上で自衛隊の実態認識と安保の実態認識は不可欠だ。GNP一%枠を突破し世界第三位の防衛費にまで膨張し、日本の軍国主義復活を抑制するためにも日米安保は必要だと米高官に言わしめるほどの軍事力をもつに到った自衛隊の実態を知る国民はほとんどいないだろう。
 時々ミサイルが何発あり空母が何隻あるかといった素人には理解できない軍備力の実態が報道されることはあるが、それが自衛とか専守防衛の範囲内の軍備にとどまっているのか、それとも欲すれば他国を攻撃できえるほどの軍備なのかについての肝心な解説はなされないのである。 また、自衛隊員への思想教育はどうなっているのか――憲法や天皇や国家権力や反体制勢力とその運動といった事などをどう教えているのか――もぜひ知りたいところである。 つまり、その存在自体が違憲の疑いが強い(私自身も違憲だと考える一人だ)点は別にしても、ほんとうに自衛隊であり、自由と民主主義を思想的基盤とした存在なのかを検証する必要があると思うのである。
また、日米共同演習がすでに敵地上陸作戦を行うところまで進んでいる事や、かつてベトナム戦争への荷担を合理化した日米安保条約の極東条項やシーレーン防衛への参画などの実態もほとんどの国民は認識していない。
 こんにちにおける日米安保の実態が日本の護憲平和主義と抵触することはないか、端的に言ってアメリカの戦争に巻き込まれたり、肩代りさせられる危険はないのか、安保容認の立場の国民のほとんどが理解しているように、日米安保はほんとうに日本の平和と安全のためにのみ存在するのかを、いま早急に検証すべき時である。
ここでくれぐれも留意して戴きたいのは、自衛隊と日米安保に関する報道が不十分だと異を唱える私は、ここではけっして反体制的なスタンスに身を置いているわけではないという事だ。換言すれば、自衛隊と日米安保に関する報道の実態は体制内的・保守的意識の証だとして批判しているのではないのだ。むろん、日米安保を批判することがタブー視されていると言われる実態は体制内的・保守的意識以外のなにものでもないが、ここでの私の批判はそこにあるのではない。
 考えて欲しいのは、自衛隊と日米安保に関する報道がこんにちのような貧困さの中にある実態は、けっしてマスコミ・ジャーナリズムの原理に照らしても容認されることではないという事だ。
 門外漢の私が力むまでもなくマスコミ・ジャーナリズムにおいて客観的で公正な事実の伝達を行うべき事は大原則だ。マスコミ・ジャーナリズムに生きる人々には社会を構成する様々な分野の如何なる人々にも増して、事実を尊重することが求められているのである。その社会的な要請に応えなければならない事実の伝達が、自衛隊と日米安保に関する報道においてはまったく不十分ではないかという点に、私の批判の眼目は存するのである。
実際、自衛隊と日米安保に関する報道の現状を断じて体制内的・保守的なものではないと強弁し、現状容認に閉塞しようとする者にとっても、マスコミ・ジャーナリズムにおける事実の伝達という原理を無視するわけにはいかないのであり、またその原理に照らして実態が適正なものであると強弁することはできないであろう。
客観的で公正な事実の伝達が不十分という点をより端的に示している具体例をもう一つだけあげておこう。小選挙区制の問題である。現在のところ一応廃案になったままで事なきを得ているが、先頃までのキャンペーンは実に酷いものだった。
 こんかい主要なマスコミ・ジャーナリズムの多くが小選挙区制導入に荷担したことについては、彼らの主観においてあった意識が、政治改革の一環として金権腐敗政治の是正と自民党一党支配の終焉という点にあった事を思えば直ちに保守・反動との結託だと非難されるべきではないと言えるだろう。
 私はその意図がさきに論述した自民党の本質・自民党の体質に対するあまりにも甘い認識を示す典型的な例だとは思う――彼らにおいては、小選挙区制は自衛隊の海外派兵や改憲を目指す動きと深く結びついて自民党から出されている問題ではないかという観点がまったく欠落しているか、もしくはそういう事はないだろうとか、万が一そういう意図が自民党に隠されてあったとしても国民はそれを許さないだろうし、世論の反対を無視して自民党が強行することはないだろうといった判断を下している事になるわけだ――が、その政治的判断の誤謬の指摘をここでの課題とするわけではない。
 私がここで指摘したいのは、彼らが己の主張を展開するに急なあまり、小選挙区制導入に反対する人々の主張をまったく無視した事実である。
実際、特にテレビが顕著だったが、登場した有識者はことごとく小選挙区制導入に賛成の人物ばかりだった。それも導入を積極的に推進する中心人物の出席が目立った。むろん賛成派の意見を知るには当然の配慮だという事になろうが、問題の一つは、彼らに小選挙区制とは何かという観点で語らせたことにある。彼らの主観的な考えとして、彼らの主張として語らせるのではなく、謂わば〈解説〉という体裁をとって語らせていたのである。この問題は項を改めて論じるつもりだが、マスコミ・ジャーナリズムの原理に照らして重大な過失だと指摘しておきたい。そして問題のもう一つは、さきに述べたごとく賛成派の考えのみを紹介し、反対派の意見がまったく無視されたことである。
もっとも、小選挙区制導入によってむしろ自民党一党支配は永久的になるのではないかとの反対派の危惧を紹介することはあった。が、それは最悪の形をとった。キャスターが「自民党一党支配云々と心配する人がいますが」と話を向けると、解説者を装った推進論者が皮肉な笑いを浮かべて「社会党にも十年に一回くらいチャンスがめぐってきますよ。今まではまったくなかった事なんだから」と軽く一蹴したのである。茶番劇のなかで反対派は道化の役を割り当てられたという案配だ。
いかに彼らが反対派の意見を歪めようと、小選挙区制が国論を二分する重大問題であった事実と反対派の意見がその一方を構成していた事実は、否定できないはずである。客観的で公正な事実の伝達という重大な任務を負うマスコミ・ジャーナリズムの立場としては、その認識の上に立った報道を行わなければならないところだ。これは後述するようにマスコミ・ジャーナリズムの主観報道が原則的に認められるべきだとしても、併せて実行しなければならない最低限の義務なのである。
ほんとうに、マスコミ・ジャーナリズムが対立する片方の立場に身を置き、はじめからその正当性を主張する(いや、実際は主張するのではなく、正当であるかのように印象づける)事を意図した報道に終始するならば、国民はいったいどこで客観的な事実を知ればいいのだろう。片方の意見しか知らされない特定の問題に関する判断をどう公正に為しえるというのか。
 まさに、マスコミ・ジャーナリズムの政治的偏向は、国民から客観的で公正な判断をなす術を奪うばかりか、客観的で公正な判断をなす自由と権利を奪うことになるのである。と同時に、事実の価値を誰よりも尊ぶべきマスコミ・ジャーナリズム自身にとっても自殺行為となるのだと言わなければならぬ。


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