<マスコミ・ジャーナリズム論>

『平和の砦となり得るために何をなすべきか』
連載 第4回

津吹 純平



◇事実伝達における誤謬
  「問題・事象の分析と解明、及び問題提起」


客観的で公正な事実の伝達と同じく、特定の問題や事象を分析し、なにがしかの問題提起をなすこともマスコミ・ジャーナリズムの重要な仕事だろう。むろんその場合、判断を迫られる国民の前に、できるだけ的確公正にして必要かつ十分な問題点が明らかにされなければならない。この点に関しては全般的にみてマスコミ・ジャーナリズムはよくやっているのではないかという感想を私は抱いている。特に政財界のスキャンダルや地球環境汚染・公害問題や住宅・土地問題等々どこにどんな問題点があるのか、明確に提示してくれていると言えよう。
 この事実を前提に私は敢えて批判するのだが、明晰な問題考察も平和や天皇や体制といった問題になると急に萎えてしまうのはまことに残念だ。その事は、彼らにあって分析能力それ自体の欠如を意味するのではなく、やはり体制内的・保守的意識を反映するものであることを物語っている。とはいえ体制内意識・保守意識の克服を求めることとは別に、マスコミ・ジャーナリズムにおける事実伝達の原理に対するより一層の自覚を求めることも当然必要であり有効であろう。
湾岸戦争における日本の九〇億ドルの戦費拠出の問題も、客観的な分析と解明、及び問題提起というマスコミ・ジャーナリズムにおける事実伝達の原理がまったく欠如していた典型的な実例である。
この論文の冒頭でも触れたとおり、マスコミ・ジャーナリズムのほとんどは湾岸戦争における日本の九〇億ドルの戦費拠出を容認してしまった。国際正義とか国際貢献とか国連主義といった美名に翻弄されての結果である。また非軍事面での資金援助だという詭弁――その資金援助で軍事財政を軽減されたアメリカはまさに軍事面での資金運用に余裕を生じたことになり、パトリオットミサイルをそのぶん発射しえるのだ――の陥穽にはまってしまったのである。
 「日本は金を出すだけでいいのか。人は出さなくてもいいのか。血を流すことも覚悟すべきなのか」といった問いかけが連日のメディアを賑わした。資金援助を戦費拠出としてその是非を問い、その危険性を指摘する言葉はごく一部の人々を除いてほとんど聞くことができなかったのである。
その体制内的・保守的意識がもたらした不見識はここでは問わないとしても、彼らの営みがマスコミ・ジャーナリズムの原理にも悖るものである点は厳しく指摘しておかねばならぬ。
九〇億ドルの資金援助の是非を考える場合、それがどういう性格のものであるかを問うことは問題考察の出発点だ。そのとき国際貢献とか非軍事面の資金援助といった言葉も資金の性格を規定する一つの要素になるだろう。従って国際貢献の内容や非軍事面の内容についての追求は妥当だと言える。そこから資金援助がほんとうに国際貢献の名に値するのか、非軍事面に限定されているのかといった問題が検証されることになるわけだ。
 しかし、むしろそれ以前に分析を施さなければならなかったのは、資金援助が実際に多国籍軍(連合軍)の軍事・非軍事の活動全般にどういう影響を与えるかという点であった。 国際貢献にせよ、非軍事面での使途にせよ、結局多国籍軍(連合軍)を管轄するなんらかの機関に資金が支払われる以上、相手方の財政面に〈変化〉を及ぼすことになるわけであるから、その〈変化〉の実態を検証することは当然必要になるはずだ。 ここで、相手方に渡ったお金の流れの事やそのお金を所得とした相手方の財政措置については内政干渉の恐れもあり関知しないなぞと詭弁を弄してはいけない。例えば日本のODA援助の在り方が批判を受けているのも同様な問題ゆえなのであって、相手方に対して「こうせよ、ああするな」と指図すれば内政干渉の恐れが出てくるかもしれないが、ここで指摘しているのは、その相手方の行為如何――資金の活用のされ方――によっては、援助拒否を決断しなければいけないという私達自身の意思決定の問題なのである。
さきの〈変化〉についての分析は、結局、私達に、日本の資金援助がたとえ非軍事面の活用に限定されたとしても、既に述べたごとく、そのぶん余裕を生じた財政がパトリオ ットミサイル発射を増加させる事態を帰結するのだという厳しい現実をつきつけるはずだ。戦争状態の当事者に対する非軍事面の資金援助なぞというものは机上の空論に過ぎず、戦争遂行に寄与する戦費拠出以外のなにものでもない――このごく当然な常識が分析の結果明らかにされるに違いない。
 そして、分析は、戦費拠出が憲法に違反することにならないかという点に進められるべきだろう。マスコミ・ジャーナリズムの事実伝達における問題・事象の分析と解明、及び問題提起という重要な原理に即した考察とはこのようなものでなければならぬ。
九〇億ドルの資金援助問題では、さらにそれを行った場合に生じる危険の分析についてもまったく触れることがなかったという重大な欠陥を晒してしまった。これは戦費拠出に該当するか否かを別にしても、考察されなければならない問題だったのである。
 戦争の当事者の一方に資金援助することがどんな危険をもたらすか、換言すれば、資金援助を容認するという事は、私達国民にどんな危険を覚悟することを求めているのか(或は、危険はまったくないのか)――この点の考察は、政府の実施する政策が国民にとってどういう危険をもたらすかという政治的発想からではなく、どういう意味を有するかという完全にニュートラルな発想からも必要不可欠なはずだ。
そして危険の分析は、まず日本の資金援助対象国と敵対関係に立ち戦争当事者となっていたイラクの報復攻撃の可能性を探ることから始める必要があったろう。そこでは具体的事実としてイスラエルやサウジアラビアに対するミサイル攻撃、また日本の資金援助に対するイラク高官の発言が吟味されるべきだったろう。しかしその一方で戦時前のイラクと日本の関係や、戦争終結後のイラク復興にとってイラク自身が求める日本の役割の軽重といった問題、さらにはイラクの軍事能力や戦略なども検討されるべきだったろう。こうして、イラクによる日本への報復攻撃の危険性の有無が具体的なイメージとして捉えられることになるわけだ。
直面する湾岸戦争の展開に伴い、日本がどういう役割を担うことになっていくのか、果たしてイラクによる日本への報復攻撃の危険はあるのかといった緊急の問題に関わる資金援助の意味を考察する必要を指摘したが、資金援助(戦費拠出)の是非を考える場合には、その危険性をけっして特定の問題だけに限定して検証すべきではあるまい。
 資金援助(戦費拠出)を強行した日本政府の意思が特にこんかいの湾岸戦争にのみ例外的に発揮されたと考える根拠はまったくないのである。むしろこんかいの対応は今後不幸にして勃発するかもしれない各紛争において日本政府がとる最低限の行動様式を示すと理解するのが自然だろう。となれば、資金援助(戦費拠出)という形で紛争に介入した場合の危険性は、より多くの事例を想定して検証されなければならないだろう。
その結果容易に理解できるのは、報復攻撃の危険はまったくないとは到底断じえないという事だろう。どこがどういう形でとは想定し難いとしても、戦争当事者に、敵国に資金援助(戦費拠出)する国に対しての寛大さを求めることは甚だ、身勝手な話であり、報復攻撃の危険はあるものと覚悟しなければならない――そう私達は知るはずだ。
 まさに、資金援助(戦費拠出)した際の日本の平和は、完全に〈あなた任せ〉になってしまうのである。事実上の〈参戦〉に踏み込んでしまうのであるからそれも当然の話なのだが、日本の平和の保証がなくなるという厳しい現実が私達に突き付けられているのである。

そこで私達が次に考察すべきは、報復攻撃をうけた場合の日本の対応という問題である。資金援助(戦費拠出)の結果、もう一方の戦争当事者から報復攻撃をうけてしまった場合に、日本はどう対応するだろうか。問題の焦点は、意図せざる非常事態の発生をみて、己の行為の意味を悟り、過失を反省し、報復攻撃をした(日本人を殺傷した)相手国に対して謝罪することによって事態の収拾を計るのか、それともわが国への宣戦布告だとして本格的戦争へと突入していくのか、という点にある。そうした問題設定をした上で、日本の対応を各界・各層について検討してみる必要があるだろう。
国論はいかにという観点から次の六つの位相で分析を試みることが求められるであろう。それは政府・自民党、自衛隊(軍)、右翼、経済界・労働界、国民世論、マスコミなど報復攻撃に対する措置という局面において国論形成の主体となるものだ。これらの各位相について、私達が考慮に入れるべきは何だろうか。
政府・自民党については、彼らの国家主権に対する意識が問題となろう。そして、対米追従の裏返しとして過敏な意識を有している事実に私達は気づくだろう。些かの主権侵害も断じて認めない――これ自体はどこの国家政府とて同様だろうが――として強行手段に訴えるという意識感情が濃厚に存している事実を私達は認めることになろう。
 実際、たとえ主権侵害であったとしても、元はといえば己の過った資金援助(戦費拠出)――これこそ主権侵害だ――による出来事であるからといった冷静な思慮は彼らには働くまい。ただ、彼らの強行策を思いとどまらせる一つの要因としてアメリカ政府の意向があるが、ここで想定しているのは湾岸戦争のようなアメリカが戦争当事者になっている場合であるから、それに期待するわけにもいかない。その他の要因として有力なのは中国の意向だろうが、「主権の侵害だ、自衛権の行使だ」と興奮状態にある政府・自民党の人々にどの程度の冷水となるのか。
不安材料をもう一つ付け加えると、資金援助(戦費拠出)に踏み切った紛争における制裁対象国(敵国)がアジアの諸国であった場合には、彼らに対する優越感や差別感情の存在も事態悪化への大きな要因になるだろう。過去の歴史に対する良心の呵責がそれを抑制するのではないかという考えもあるだろうが、既にその国に対する制裁(攻撃)のための資金援助(戦費拠出)という形で介入(参戦)してしまった政府・自民党にそれを期待するのは幻想というものだろう。それにだいいち、政府・自民党の過去の歴史に対する良心の呵責とはどの程度のものなのか。ほんとうに過去に罪を深く感じていると信頼できるのか。政府・自民党の対応を考察する場合、私達はそこまで踏み込んだ検証をなすべきだと考える。
報復攻撃に対する自衛隊(軍)の反応はどうか。問題となる報復攻撃の形態にもよるが、自衛隊が最初の犠牲者になる可能性は極めて高いだろう。そのとき個々の自衛官にどういう心情が湧き起こるか、幹部の意識と観念を支配するものは何か。報復を屈辱と感じ、政策的な反省を敗北と意識し、仮に政府が収拾を計ろうとしても〈弱腰〉と断じて反発することは十分に予想されるだろう。自衛隊としてはまさに〈自衛権の発動〉を促すことになるのではないか。もちろん、この分析とは別に自衛隊内部の慎重論の有無とその軽重についても考察すべきことは言うまでもない。
次に右翼の問題だ。右翼を国論形成の重要な主体として取り上げることはマスコミ・ジャーナリズムにおいてコンセンサスではなかろうが、ここでの右翼とは所謂街頭でスピーカーのボリュームをいっぱいに上げて絶叫する彼らの事だけではない。いまだに天皇制国粋主義を奉じている人々を総称したものであり、海外派兵問題において異論を許さないと気色ばんだ人達をも含むのである。
 その彼らのうちの最も過激な者が、自衛隊(軍)への攻撃に始まる報復攻撃に対して、ヒステリックな感情を爆発させ、慎重論を唱える人々に、テロや脅迫や恫喝を含めた激しい攻撃を繰り返すことは十分に予想される。身の危険をも感じる彼らの激しい攻撃に晒されるとき、人々の良識はどう耐えられるであろうか。私は、国論の形成を考える場合、この種の最も低次元なエネルギーを軽視してはならないと考えるのである。
経済界・労働界の反応はどうか。ここで分析を必要とするのは、戦後永い間対立関係にあったこの両者を併記させていることからも察せられるであろうが、いまや盟友関係にあるといっても過言ではない経団連その他の財界の団体と労働組合である連合、この両者の動向である。日本型資本主義の発展と衰退に心を砕く財界の指導者達が戦争への軍事介入をどう判断するのか、また現実路線に限りなく傾斜してきた連合が主権侵害に対する自衛権の発動という美名――欺瞞的スローガン――にどう反応するのか、特に指導者層のナショナリズムの実体を探るべきであろう。
 そこで懸念されるのは、いまの連合に、共同幻想としての主権侵害に対するナショナリズムの高揚を反戦平和の志をもって抑制させることを期待するのは、ほとんどナンセンスに近いという実態があることだ。ここでも反戦平和の声は掻き消される危険が大きいだろう。
では国民世論の反応はどうか。戦争阻止に傾く要素、戦争容認に傾く要素の両面の分析を冷静に行わなければならない。そこでは反戦平和の声を上げるに違いない「もう二度と戦争はゴメン」という戦争体験者に根強い国民感情と「平和は最高の価値だ」という価値観を見い出す。さらに一部ではあるが、相手国への加害行為を批判する理性も認められるだろう。おそらく指摘した六つの位相の中にあって、この国民世論こそ戦争阻止に立ち上がる最も大きな主体となるであろう。その事に私は日本人として些かの誇りを抱くものである。
しかし、分析を、果たしてそれが日本人の大勢となるかという点にまで進めるとき、残念ながら私達は悲観的な実態を認めなければならないだろう。国際貢献、国連中心主義といった美名にあまりにも過ぎる善意を寄せる多数の国民がいる。また、フセインの暴挙への怒りと蹂躙されるクウェートへの同情から、国際正義のための〈力による制裁〉という認識の下に戦争を容認する気分もなし崩し的に生じてきている。さらには、今後の日本を考える場合に最も懸念されるべき事として、日本にとって死活問題である原油という国益を守るためには戦争も已むなしとする〈国益防衛論〉と、経済大国として日本も国際的な力を発揮すべきだ――たとえ紛争における力の行使であっても――という〈盟主国願望〉の台頭さえ認められるようになってきた。
紛争のない平時において参戦に対しての意識を探れば、その形が自衛隊の海外派兵のような軍事的色彩の濃いものであればあるほど警戒の念と反発の声は強く湧き上がるだろう。そこに平和の砦の希望が見えることを私達は軽視してはなるまい。
 がしかし、ここで問題にしているような日本への報復攻撃が行われ、日本人の犠牲者が数多く出るに到った段階での参戦意識を探るならば、ほんとうに残念だが、その時点でも戦争阻止、反戦平和の意思を貫きうる国民はそれほど多くはないのではないか。興奮状態のなかで主権侵害を口にし、自衛権発動を唱え、正義を叫び、ナショナリズムの沸騰がみられるとき、それに真正面から向き合い、非国民との罵声を浴び身の危険をも感じながらそれでも理性を説き平和を訴える人々はどれほどいるだろうか。
さて、最後にマスコミの問題だ。これは私自身も知りたい事だが、いったいマスコミ・ジャーナリズムの中にいる人々はここでの状況設定の際、マスコミ・ジャーナリズムは――そして己自身は――どう反応すると認識しているのだろうか。みてきたように、様々な位相で主権侵害への怒りが噴出し、救国の情が渦巻き、愛国心が称揚されるとき、と同時に反戦平和を訴える者が非国民と罵声を浴び、テロや脅迫や恫喝の危険さえ生じた状況の中で、マスコミ・ジャーナリズムは良識を示しえるのか。あの天皇報道における醜態は、私達市民に、そこまでの期待は彼らにとって重荷となるであろうことを教えるのであるが。

戦費拠出に対する敵国の報復攻撃を受けた場合の日本の反応について、国論形成の主体となる六つの位相で分析を試みたが、その結果明確になってきたのは、「日本人が殺されたのに黙っているのか。あんな国になめられてたまるか!」と一気に本格的な戦争へ突入していきかねないという事であった。反戦平和の声も、戦争阻止の行動もそこでは大きな壁にぶつかって砕けてしまいかねないという事であった。
まさに、戦費拠出という行為が相手の出方如何では日本を本格的な戦争に突入させかねない重大な危険をはらむ行為であると懸念されるのである。
私達日本人は、国際正義や国際貢献や国連主義の美名の下に強行されてしまった九〇億ドルの資金援助(戦費拠出)に対してこのような厳しい認識を抱くべきであった。容認する者には、最悪の場合本格的戦争 突入という決定的破局への覚悟が求められるという厳しい認識。その認識の上に立って、是非を徹底論議すべきであった。
もっとも、できるかぎりニュートラルな考察を試みたとはいえ、意識には志向性が働く以上、また判断の基礎的材料になった事柄についてそれぞれ私自身の事実認識による以上、これも一つの主観的判断であろう。私とは異なった判断を帰結する人がいても不思議はない。
 だが、ここで問題にしている戦後民主主義的進歩派における〈挫折派〉の人々の認識と判断は、私の認識と判断に概ね重なるに違いない。彼らには、ここでの分析と判断は可能なはずだ。
蓋し、〈挫折派〉の人々は、戦費拠出の問題が起きた際、マスコミ・ジャーナリズムの原理に基づく上記のような分析を施すべきであった。そして、解明された事実――戦費拠出が報復攻撃の危険をはらむ行為である事、報復攻撃に対して日本と日本人は理性を麻痺させてなし崩し的に本格的戦争に突入していく可能性が高いという事――を国民の前に示すべきであった。
 さきにも述べたようにそれも一つの主観であるとするなら、事実の解明という形でなくてもよい。少なくとも、問題提起として提示することは許されるわけであり、彼らはマスコミ・ジャーナリズムの使命と責任の名において、そうすべきだったのである。
しかし、実際には周知のようにそうした問題提起はいっさい為されなかった。むしろ、国際正義や国際貢献や国連主義などの美名を踊らせ、「日本人は金を出すだけでいいのか。人は出さなくてもいいのか。血を流す覚悟はしなくてもいいのか」と、国民をとんでもない方向へ誘導してしまったのである。自ら〈平和の砦〉の崩壊に手を下してしまったのである。その不見識と無責任は、厳しく問われなければならぬ。彼らの〈挫折〉は、彼ら一人に悲劇をもたらすにはとどまらないのだ。


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