<マスコミ・ジャーナリズム論>

『平和の砦となり得るために何をなすべきか』
連載 第5回
津吹 純平



◇マスコミ・ジャーナリズム的位相の問題」
「価値の擁護、確立、拡大の為の啓蒙報道における誤謬」


事実伝達における誤謬の他に指摘しなければならない誤謬がある。啓蒙報道の問題だ。さきの小主題の中で私はできるだけ主観を排した公正で客観的な事実報道の必要を説いた。が、その事は、マスコミ・ジャーナリズムにおける特定の主観的立場からの啓蒙活動の否定を意味するわけではない。マスコミ・ジャーナリズムにおいて啓蒙報道は社会的使命と責任を負う重要な営みである。しかし、その啓蒙報道においても、〈挫折派〉は重大な誤謬をおかしているのである。ここでは紙数の都合で簡単に触れるにとどめるが、問題はけっして小さなものではない。
さきの九〇億ドルの戦費拠出問題は、実をいえば、啓蒙報道として行われたと理解すべき事柄だ。〈挫折派〉においては、単なる事実伝達として扱ったわけではなかったと考えられるのである。
 もちろん、だからといって事実伝達における誤謬の非を免れうるわけではない。彼らの主観がどうであれ、戦費拠出についてはさきのような問題が存しているのであり、国民はその認識の下に――戦争突入の危険を覚悟の上で――容認に傾いたというわけではないという実態がそこにあるかぎり、マスコミ・ジャーナリズムは事実伝達の原理に基づく使命と責任を果たさねばならなかったのである。換言すれば、ほんらい為されなければならなかった事実報道における問題と、実際に為された啓蒙報道における問題のいずれもが検証されなければならないのである。
その啓蒙報道における彼らの誤謬とは何か。事実報道は啓蒙報道を前提にしないが、啓蒙報道は事実報道を前提にしなければならない。彼らの啓蒙報道はさきにも述べたごとく的確妥当な事実報道を欠如させた――問題・事象の分析と解明すら為されていない――ものである。国際貢献・国連主義・国際正義といった概念に引き寄せられた判断を下したに過ぎず、資金援助(戦費拠出)の問題点にはまったく触れなかったのである。
 マスコミ・ジャーナリズムにおいて特定の主張が為されることそれ自身はまったく問題がないと言えるが、客観的な事実や問題考察を欠如させた啓蒙はその名に値しないと断じな ければならぬ。それはマスコミ・ジャーナリズムとしての見解の表明ではなく、私人としての見解の表明に過ぎないのである。まさに、単なるジャーナリスト個人の主義主張を、〈公器〉を利用して国民に押し付けることに他ならないと言わなければならぬ。
もう一つの誤謬は、主観的判断であることを明確にせず、あたかも客観的な事実報道であるかのような体裁をとっている点だ。ここで言う主観的判断とはいま述べた単なる私人としての主観ではない。マスコミ・ジャーナリズムにおける原理に即した客観的な事実や問題考察を経た上での主観の事だ。啓蒙報道であれば不可避な特定の立場を明確にしないまま報道しているわけである。もっとも、啓蒙報道において主観的判断であることを明確するのは原則だが、国民的合意が確立されている価値の啓蒙については例外だと考えられる。例えば麻薬撲滅などがそうだが、そのための啓蒙報道においては客観的な事実報道の体裁をとっても問題ないだろう。
しかし、ここでの問題――戦費拠出――においては、もちろん容認の立場は国民的合意ではない。となれば、やはり主観を明確にしなければならないところなのだ。が、実際には「お金だけでいいのか。人は出さなくてもいいのか」という報道の仕方をとってしまった。
 これは、原則に悖る典型例だと言わざるをえない。まだ真の意味ではコンセンサスを得ていない事柄(資金援助)を既に問題解決済みのような前提に立って――己自身が容認の立場をとったことを伏せて――次の課題に世論を誘導しているからである。あるべき啓蒙報道からみて極めて問題の多い報道の仕方であり、欺瞞的と断じざるをえないほどのものではないか。

平和の砦の崩壊に自ら手をかしてしまった戦後民主主義派の〈挫折派〉における戦費拠出の容認――日本の参戦への荷担――の原因をマスコミ・ジャーナリズムにおける原理という位相で検証してきたわけであるが、私は、改めて彼らに、厳しく問いたいと思う。あなた方の行為は、ジャーナリストであるあなた方個人の政治的・思想的敗北を意味するばかりか、何よりもジャーナリズムのプロフェッショナルであるジャーナリストとしての敗北を意味することになるが、それでも構わないのか、と。

・ ・〈挫折〉の発想様式批判の原理―――
〈挫折〉の発想様式についての検証を終えたいま、私は自分自身の〈批判の原理〉を確認しておきたいと思う。マスコミ・ジャーナリズムの危機を唱える人は少なくないが、そのなかにあって私の批判原理はどういう意味をもつのか。
戦後日本のマスコミ・ジャーナリズムにおける原理の一つは、〈反権力〉であった。この場合それは二つの事を意味する。即ち、一つは左翼によって主張され観念されている事だが、保守的立場をとったり自民党を支持する見解を示したりなどすること自体を、マスコミの反動的営みとして否定するものである。もう一つは、戦後民主主義的進歩派の多くのマスコミ人・ジャーナリストの立場によって主張され観念されている事で、マスコミが権力に迎合したり体制におもねたりなど、その批判力を弱めることを、マスコミの反動的営みとして否定するものである。前者において主張されているのは一言でいえば「マスコミは左翼であれ」という事であり、後者において主張されているのは「マスコミは反権力・反体制の立場であれ」という事である。
彼らによれば、こんにちのマスコミ・ジャーナリズムにおける危機とは、一つにまさに各々の原理が衰退したこと自体を意味する。また私のテーゼ――平和の砦たりえない事――に即していえば、その原因を或は左翼の退潮に求め、また或は反権力を貫く批判精神の衰弱に求める。そして、左翼的な観念や認識や意識の回復を、また或は反体制的精神の再生を果たすことを通して、彼らは危機の打開に努めようと意図するのである。 
ところで、〈挫折〉の発想様式批判のなかで自民党をはじめ保守勢力に厳しい認識を抱いていることを示した私の言論は、前者の左翼的立場のそれと受け取られるかもしれない。が、与える印象はともかく、その論述内容をきちんとみて戴ければ理解されるはずだが、私の言論は左翼的立場からのものでないどころか、後者の戦後民主主義的進歩派の立場からのものですらないのである。
 〈挫折派〉に巣食う体制内的・保守的観念を批判するものの、率直に言って私は「マスコミは左翼であれ」と主張しているわけでもなければ、「マスコミは反権力・反体制であれ」と主張しているわけでもないのだ。私自身の政治的・思想的スタンスが反体制にあることは否定しないが、マスコミ・ジャーナリズムに求めているのは別な原理だ。私が強調したいのは、マスコミ・ジャーナリズムにおいては《無党派》的立場の厳守と《護憲平和》主義の厳守こそを原理とすべきだという事である。また、認識論的位相における学問的な真実究明こそを原理とすべきだという事である。
もちろん、進歩的言論や左翼的言論の果たす役割を過少評価すべきではあるまい。それに欺瞞的な中立の装いを施した報道が行われるくらいなら各々の立場を明確にした報道が行われるほうが遥かに好ましい。昨今は旗色鮮明の報道が増え、マスコミ・ジャーナリズム全体の観点でいえば民主主義健在という事になるだろう。
 ただ、これはマスコミ・ジャーナリズムの責任ではない――受け手の国民の問題なのだ――が、ほとんどの日本人は対立関係にある両者双方の見解を知ろうとはせず、自分と同立場の見解のみを知るに終るという実態がある。己の意見を相対化して検証する努力はせず、一方的な主張に固執しがちなのである。こうした形の自己主張をもつ者同士が対立するときそこに民主主義的発展を期待するのは無理であろう。異なる立場に対する敵意と憎悪が不毛な対立を生んでいく他はない。
 この事を私は憂えているのであり、そこで果たすマスコミ・ジャーナリズムの役割の大きさを考えるとき、《無党派》的立場の厳守と《護憲平和》主義の厳守を原理とする必要を強く感じるのである。



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