<マスコミ・ジャーナリズム論>

『平和の砦となり得るために何をなすべきか』
連載 第6回

津吹 純平



私の提言
与えられた枚数の大半を既に使い果たしてしまったが、やっと課題にこたえるところまできた。ほんとうはこの項だけでも数十枚以上を必要とするのだが、致し方あるまい。簡潔明瞭を心がけて説明したい。提言は三つのグループに分かれる。
第一のグループは政治的位相の問題だ。私は、まず戦後世代に対する【歴史教育と憲法教育の必要】を訴えたい。周知のように戦後の歴史教育は現代史を欠落させているのが実態だ。「満州国では鉄道建設など日本は多大の貢献をした」などと聞かされると大東亜共栄圏にもいいところがあったのかと短絡してしまうほど歴史認識が欠如している。また六〇年安保やベトナム反戦なども既に昔話になった世代もペンを握っているだろう。
 そこで社内で歴史・憲法講座を開設し、先輩諸氏や学者を講師に迎えてゼミ学習する事を提案したい。特に新社員の研修期間に集中的に行ったらどうか。その際、既成の講演形式ではなく映像を主体に構成するのが望ましい。またゼミのように各人にレポートを提出させたり発表させるのも効果的だろう。さらにぜひ実現させてほしいのは、南京や朝鮮半島やマレーシアなど日本が侵略した現地に視察研修に行かせ、体験者の生の声を聞いてくるという企画だ。これは体験者の高齢化という事もあり、緊急に実現することを強く要望したい。
次に提言したいのは、【立場変更の際の自己検証】の実行だ。小選挙区制に対して多くの新聞・テレビは以前の反対から賛成に態度を一変させたが、その際ある社説は「現在は軍国主義復活云々を心配する時代ではない」と述べた。元々小選挙区制反対は社説氏の認識どおり軍国主義復活の危険を一つの根拠に為されていたわけで、その根拠の消滅をもって立場変更の正当性を訴えたいのだろうが、これは本末転倒の弁明だ。つまり、元々反対の立場にあっては軍国主義復活の危険が潜在的に存在している点こそが第一義的問題なのであって、敢えていえば小選挙区制はそれを顕在化させるものとの認識ゆえに否定されるに過ぎないのだ。従って弁明は、小選挙区制の立場変更に対して為される以前に、何よりもまず軍国主義復活の潜在的な危険についての認識変更に対してこそ為されるべきなのだ。「時代ではない」と言うのであれば、その点の論証こそが必要不可欠なのである。
こういった詭弁の陥穽にはまった不節操な立場変更(認識変更)を防ぐために、自己検証を業務の一つとしてシステム化することを提案したい。立場変更があった際、その根拠となる認識の変更を含めて、一度明確に個人はもとよりそのスタッフ全員で自己検証するのだ。個々の良識に任せるのではなく、「立場変更(認識変更)に関する特別委員会」といったものを設置することが必要だ。その上で変更の是非を決定し、認識変更を含む立場変更の正当性を国民に対して弁明するというわけである。なし崩しや自己欺瞞による〈挫折〉や〈転向〉のチェックとしては有効な方法だろう。

第二のグループはマスコミ・ジャーナリズムの原理に関する提言だ。ここではまず【対立意見の併記の義務化】を提言したい。さきに私は《無党派》的立場の厳守を原理にすべきだと言ったが、これは対立する双方のいずれにも属さない第三の立場をとる事を意味するわけではない。その第三の立場もまた無党派の原理に悖るものだ。私が言っているのは、問題の考察と解明を含む事実報道においては特定の立場からの報道を行わず、あくまでもニュートラルな立場で行うという事だ。その点で、対立意見の併記が重要になるのである。 この事を小選挙区制問題でいえば、賛成意見だけの紹介は不当だが、逆に反対意見の紹介だけでも不当であり、また条件付き賛成とか態度保留などの意見だけの紹介も不当だという事であり、すべての立場の紹介が必要という事なのである。その際留意すべきは、単に両者の一方的な言い分を紹介するのではなく、例えばお金がかからなくなるという点についての賛否両論に絞って紹介するなど、論点を明確にして議論を噛み合わせることが必要だろう。
次も客観的で公正な事実伝達の実現を計るものだ。【特定の問題における各政党・各政治家の所見公表】を提案したい。現在の報道の実態は政府与党の情報が圧倒的だ。政治家の顔もほとんどが自民党議員だ。政治の動きを追った結果でもあろうが、各政党・各政治家に対する判断を求められる国民にとって最低限の基礎的事実すら欠如しているのである。選挙が結局政府与党に対する信任投票的な意味合いに傾きがちなのも当然ではないか。一方政党や政治家側の問題としても、国民に己の見解や活動が知られない事による弊害はけっして小さくない。所見公表を求める所以である。さらに補足すれば【政党の機関紙の紹介】も求めたい。内部向けだけに本音がはっきり出ているため、各党・各政治家の本質を知る上で有効なのだ。
これらは、通常の原稿という形ではなく、データ公表という形で実施すればいいのではないか。もっとも新聞などでは時々それに近いものをみることがあるが、テレビでも昨今はビデオが普及してきている事でもあり、短時間を割けば可能なのでぜひ実施してほしいものだ。文字放送などニューメディアの活用も考慮されたい。
次に提言したい事は【最もラジカルな意見の検証】の実施だ。こんどの湾岸戦争での国際貢献の在り方をめぐる混乱をマスコミ・ジャーナリズムは前例のない事として理解しようとした。
 が、実は日米安保を根拠としたアメリカの強い圧力や自衛隊の海外派兵の動きまで含めて、戦争勃発の際の日本の対応に対して強い危惧を抱く声がなかったわけではないのだ。日本の参戦を憂える声はあったのだ。しかし、そうした警告に耳を傾けるマスコミ・ジャーナリズムはどこにあったか。この先見性の無さがさきの混乱を生じたとも言えるのである。
 そこで、平和や自由などの重大な問題に関するラジカルな危機の警告に対して、もっと敏感に受け止め真面目に検証することを求めたいと思う。それが現実となったら取り返しがつかないといった警告に対しては、極論ときめつける前に――その時点でのジャーナリスト各人の見解に固執せず――一度はきちんと受け止めて検証してほしいのである。

第三のグループはその他全般的な位相における提言だ。ここではまず【記者の社会体験】の必要を指摘したい。言うまでもなくマスコミ・ジ ャーナリズムの世界に入れる人は超エリートだ。即ちそれは、皆優秀な人材には違いないが個人的体験の限界を越えることは誰にもできないのだから已むをえない話なのだが、超エリートの視点をもつという事だ。それに昨今はエリートである事は同時に裕福な階級である事を意味している。
 存在が意識を決定するというテーゼを持ち出すわけではない。彼らの視点がそこに固定されていることを日々の報道で実感するのだ。もっとも弊害を生むだけと極めつけるわけではないが、より広い視点、より低い視点で社会と人間を捉えることを期待したい。
そこで、具体案の一例だが、若手記者はもちろん四〇歳になった記者を一定の長期間地方の農村に住まわせて農業に従事させたり、寝たきり老人や身体障害者の介添人などボランティア活動に従事させたりしてはどうか。その場合できれば身分を明らかにしない方が実態に触れることができていいのだが。
 誤解されると困るのだが、ジャーナリストの仕事が楽だと言っているのではない。政情不安な海外への特派員をはじめ激務の職業だと理解しているつもりだ。私が指摘しているのは、エリートでもなく裕福でもない民衆の一人としての意識や感情の問題なのだ。
最後は、〈挫折派〉の自己変革への要望とは意味合いが異なるが、【外部記者の採用】を提案したい。前記のとおりスコミ・ジャーナリズムの世界に入る人々の優秀さは群を抜いている。学力はもちろんだが、世間の偏見とは異なり、学力優秀者が人間性においても優秀である例を、教育実践の体験をもつ私は実際に何人もみてきている。彼らの名誉のためにこの事ははっきり言っておきたい。
 が、ジャーナリストにとって不可欠なはずの時代や社会や人間に対する洞察力と思想性や哲学的思索力などの能力においては、必ずしも一般の人々より優秀であるとは言えないだろう。考えてみれば、彼らはその点の能力を検査され評価されて職に就いているわけではないのだ。例えばデザイナーのようにまず才能のチェックがあってのち職業人として認知されていくわけではない。訓練や研修を経て一人前に育てられるとはいうが、その際の評価基準は社内基準であり上司基準である。早い話が、いったいどれだけのジャーナリストがいま私が置かれている立場のような試練を体験し、その洞察力や思考力や表現力の評価を受けた上でこんにちの仕事を担っているのだろう。この事は案外盲点になっているのではないか。ジャーナリストの職業に就いているという事で何か一般の人より洞察力や思想的造詣に秀でているのだと錯覚しているところがないだろうか。厳しい事を言うが、日頃の実感なのだ。
そこで私は、外部記者の採用を提案したいのである。具体的には年齢制限を設けず各年代層に配置する、身分は正社員・常勤・非常勤(つまり、特定のテーマに限定して取材とリポートを行う記者)などに分別する、人材は全国に配置する、作家や学者や弁護士や農民をはじめ各職業のスペシャリスト達の協力を求める、採用試験は学力検査ではなく論文や面談(文章が書けない人でも洞察力に優れている人物はいる)などによる、場合によっては本記者と合同取材する、等々の事が考えられるであろう。

私の真意
さて、主に〈挫折派〉を通してマスコミ・ジャーナリズム批判を厳しく展開してきたわけだが、最後に一言申し上げておきたい。戦後日本の歩みを一八〇度転換させる戦費拠出(事実上の参戦)を行うという危機的状況に到らしめてしまった事に対して責任を負うべき主体は、マスコミ・ジャーナリズム以外にも沢山あるという事だ。
 政治はもちろん、経済、労働、法律、学問、教育、芸術など各分野の責任も追求されるべきだと私は考えている。けっしてすべての責任をジャーナリストだけに押し付けるわけではないのだ。加えてマスコミ・ジャーナリズムが平和のためにこんにちまで果たしてきた役割、現在も果たしている役割についても心からの敬意を抱いているつもりだ。逆説的にいえば、大いに評価しているからこそ、期待も大きいからこそ、敢えて厳しい批判をするのだとも言えるのである。九九%の肯定的営みを評価しつつ、一%の否定的営みを批判しているのだ。実際マスコミ・ジャーナリズムの社会的役割の大きさを考えるとき、平和の究極的な砦であってほしいと願わざるをえないのであり、そのため私の問題意識は、平和擁護の決定的局面・最終段階での〈挫折〉に集中する次第なのである。
ところで、外部の批判に対しては、どの世界でも現場を知らない者の無責任な発言だと反発しがちなものだ。「そんな事は分かっている。それが実現できない壁があることが問題なのだ。現実は甘くないのだ。」という声がすぐ上がる。それに対してはこう応えたい。
 即ち、私は〈挫折派〉を中心としたジャーナリズムの自己変革を求めているが、けっしてそれをジャーナリスト個人の努力だけで実現すべきだと言っているのではない。私の批判は、実をいえば管理職にある者や経営者にも向けられているのだ、と。さらにまた、私の提言は、既存のシステムや意識の超克を抜きにしては実現できないだろう、と。
蓋し、マスコミ・ジャーナリズムに生きる人々皆が、ジャーナリズムの原点に立ち戻り、己の保身的エゴや能力の限界と戦うことによってのみ自己変革は可能となり、平和の砦を再構築しえるのである。
私の耳には、いま軍靴の足音が、微かに聞こえている。
 ジャーナリスト諸君への厳しい批判と過大な要望――私の不遜と過剰な矜恃――は、すべてこの時代への危機意識がもたらすものだ。失礼のほど、切にお許し願いたい。
           了     1991年12月20日

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