「私の平和主義論」への批判と反論


2月15日(日)「彼らの立場」
 昨日私は、最近手紙を何人かに送ったと書いた。そして、彼らの誤解を招いているやもしれぬと書いた。
 ある知識人の場合、それは確かな事だったのだが、しかし、その知識人の場合も他の人の場合も、結局、武力行使容認・改憲容認という事の<具体的事実>を理解してくれ、その判断の<真意>を理解してくれたとしても、やはり、私の立場を容認することはないのではないか――、容認することができないのではないか――、そういう思いも実はしてきている。
 
 実際、この私自身、私が容認する意味での武力行使であれ、改憲であるとしても、他人の口からそれを聞かされた場合、やはり、不安と心配の念が生じる、というのも本当の話だ。
 が、もちろん、この意味は、それだけ私の思考や判断が浅く曖昧なのものだと言っているのではない。むしろ事は全く逆で、他の人から同じ言葉を聞いた場合、この人は、私の意識や感情や思考や判断と同じ深さ、同じ緻密さで発語しているのだろうか、という思いからだ。
 護憲派批判をするが、その護憲派の絶対平和主義の一線を越えることが如何に危険の大きいものであり、その<歯止め>の決定的重要さをどれほどこの人は認識し、覚悟の上で発語しているのか、と正直に言って、危惧の念を抱かざるを得ないだろう。
 圧倒的な権力を前にして、如何に、一線を越えた者がそのままなし崩し的に現状容認に引きずり込まれることを防止し得るか――、その疑念は、やはり深いものがある。
 
 私自身の場合、何度も言ってきているが、1987年の頃既に――まだ殆ど誰も、戦争だの改憲だのと本気で危惧していなかった頃――日本が再び国際紛争に軍事的に関与し得る国家体制の確立に向けて動き出したと心底からの危惧を抱き、その論証と警鐘を鳴らすことを無名の一個人の立場でひとりで始め、以来一貫してその反戦平和の闘いを継続してきたという人生そのものを信じてもらいたいと願うが、他人からみた場合、果たしてその言明だけで信じてもらえるものなのか?

 尤も、問題はそうしたところにさえないのかもしれない。いずれにせよ、結局、武力行使容認・改憲容認という事実そのものを否定する人たちなのかもしれない。絶対平和主義の正当性を主張される人たちなのかもしれない。そして、その護憲派の論理と言語では、参戦への道は防ぎ得ないという私の判断に同意できない人たちなのかもしれない。私がとっている判断と立場そのものに、同意できないという話なのかもしれない。
 私のメッセージへの返信が無いという事の真相は、そこにあるのではないか……。





2月16日(月)「事実と真意」
 昨日書いたこと。――極めて限定的な意味とはいえ武力行使容認・改憲容認をしている私の判断と立場そのものに、メッセージに返信さえ下さらない有識者たちは同意できないということでないか。
 となれば、昨日「私の平和主義論」に関する二つの思索ノートを発表したことは何の意味があるのだろう? 無意味な思索の展開だったのだろうか?

 いや、かの有識者たちの中にも、やはり誤解というものはあったことは事実だ。私の言う「理想主義的現実主義」が現実政治の世界に於いてみられる「現実主義」とは決定的に異なるという点は、やはり明確にしておくべきだろう。
 とにかく私自身にしてみれば、この十数年をかけてひたすら戦争への道を転げ落ちていく現状に危機感を抱き、分析し、批判し、警鐘を鳴らし、訴えてきた者として、その私が戦争勢力派と同類にみられるというのは、正直心外この上ない話ではないか。
 
 それに、今私はネットを通して、多くの人々に現状否定を呼びかけているわけだが、そうした一般市民へのメッセージとしても、私の主張の<事実と真意>は、明確にしておく必要があるだろう。
 私の意志と思索が、絶対平和主義に対して非絶対平和主義からの立場から為されているとしても、真意は絶対平和主義批判、護憲派攻撃に存するのではなく、あくまで参戦への道を急進する現状の批判と否定に存するものであること、反戦平和を希求する立場に存するものであることを、繰り返し証す必要があるだろう。



2月17日(火)「否定する者の義務と責任」
 たとえ極めて限定的とはいえ武力行使と改憲を認める私の判断と立場には同意できない、というのならそれもいいだろう。私の判断と立場が、たとえ小泉政権によって急速に加速している参戦への道とは異なるものだとしても、やはり平和憲法に抵触することは事実でそれは絶対に認めがたいというのならそれも致し方ないだろう。

 だが、事は、そうやって、私の平和主義を否定し無視し去るだけで解決するわけではないことに気づくべきだ。問題の一つは、現に加速している参戦への道をどうやって阻止し得るかに存してある。
 このまま進めばまず間違いなく、小泉首相ら戦争勢力の企みは、成功するだろう。それを阻止するには反戦平和の明確な意志を国民的コンセンサスとして具現しなければならないと私は考えるが、果たしてそれが、護憲平和主義によって可能なのか。

 まさにこんにちもなお絶対平和主義の立場に身を置く者は、如何にしたら参戦への道を阻止し得るのかについて、明確な論証を行うべきだろう。
 そしてもう一つ、日本が被害者となることが懸念される事態から如何にして平和と安全および主権と独立を守り得るのか――。
 この二つの課題に真正面から答えを提出することが、私の平和主義論を否定し無視し去る者の義務と責任だと私は強く主張する。

 私の願いは、日本の参戦と日本への侵略を共に阻止することにあるので、その意味では、武力行使と改憲そのものの容認にあるのではない。武力行使を行える国家にすること、平和憲法を変えることその事自体が目的としてあるのではない。
 過日も言ったように、絶対平和主義を一歩踏み出すこと、平和憲法を変えることは特に日本人の正確を考慮に入れれば決してそのリスクは小さいものではないので、できるならば、現状のままで、と言うより、長い間平和憲法に敵対的な保守政権のもとで扱われてきた<空文化政治>とは異なり、よりその理念や精神を生かした憲法政治が遂行されるのが望ましいと、私も考える者である。
 従って、護憲平和主義の立場に身を置く人によって、日本の参戦の阻止、日本への侵略の阻止という二つの目的が成就され得る具体的な論理と言語の構築が為されるなら、私は喜んで、自説を撤回するだろう。
 その意味でも、私の平和主義論を否定する者は、自らの社会的立場の優位を盾に、無名の一個人の論考を無視して済ませるのではなく、誠意をもって二つの課題に答えることが必須だと、私は改めて強調しておく。





2月18日(水)「あるべき国家観」
 本当に、私の「平和主義論」は、改憲そのもの、武力行使を行える国家の形成それ自体を目指したものではない。私の真意はそこにはない。
 「戦争も政治的選択肢の一つだ」(桝添要一氏)と言うが如き観念を抱いているわけでは決してない。戦争し得る国家という<国家観>を抱いているわけではないのだ。
 ただ、観念の世界ではなく、現実政治の世界に於いて、日本への武力攻撃を厭わない国家が現に存在する以上、日本の主権と独立、日本の平和と民主主義、そして日本国民の命と財産を守るための、必要最小限の戦力の保持と武力行使の権利を担保せざるを得ない、というわけなのだ。

 従って、換言すれば、侵略を防止し得る態勢を整えたならば、平時に於いては、戦後、たえず平和憲法を忌み嫌い、厄介者扱いし、形骸化させてきた保守政治とは根本的に異なる、真に平和憲法の理念である<戦争放棄>の一側面としての<加害者>となる戦争の絶対禁止を継承し、その精神と理念を積極的に生かした平和外交・平和政治の実践を求める――そこに、私の「平和主義論」の核が存してある、というわけだ。

 厳しい現実にも対応しつつ、それこそ「備えあれば憂え無し」として、日本自らは、平和な世界、戦争の無い世界を希求して歩むという<国家観>こそを、私の「平和主義」に於いてもイメージしているという事実を、ここで改めて確認しておきたい。





2月21日(土)「私の全容」
 その全容に接してみることで、戦後護憲平和主義の立場をとる人々にも、その正当性と限界を的確に認識する契機になるのではないか――、昨日そう書いたことへの疑問。有識者と同じで、一般市民の場合でも、絶対平和主義としての護憲主義を支持している人たちならば、結局津吹純平の立場には同意しないのではないか?

 たしかに、一般市民の場合でも、こんにちなお絶対平和主義の思想に共感している人たちは平和への志向が非常に強い人たちなので、限定的な意味でも武力行使を容認する私の立場には共感を抱いては戴けないかと思う。
 そこで、特にリベラルな姿勢と特定したわけだ。自分の立場とは異なる者に対してもニュートラルに応じることのできる人たちを、私は想定している。
 彼らならば、私の全容を知ることで、柔軟な認識を示してくれるのではないかと考えるのだ。その根拠とは何か?

 私の全容――。そこには、ふつう武力行使を容認し改憲を認める者が語らないであろう論理と言語と心情が明らかにされている。どうみても絶対平和主義者であり護憲派の人間ではないかと思われるであろう恒久平和への思いが語られているのだ。実際、その厳しい現状批判にしても、ラジカルに絶対平和主義・護憲派に身を置く人々のそれにも匹敵するほどの質量を示していると私自身認識するものであり、そのことに、驚かれるのではないか? 

 そこで、彼らなら、私のそうした絶対平和主義者・護憲派にも劣らぬ平和願望と現状の危機意識の事実を、ありのままに認知してくれるのではないか。その人間が極めて限定的な形での武力行使と改憲を容認するに至った事情を、冷静に受け止めてくれるのではないか、と期待しているのである。そしてその事実は、自らの認識と判断の妥当性について反省を促すことに至るのでないかと、願っているわけである。

 で、とにかく、私の全容を知らしめたいと思う。断片だけ、ほんのさわりだけをみられ、私と私の論理と言語に対して、最終的な裁定を行なわれてしまう屈辱と不合理を超克したいと願っているのである。





2月25日(水)「迎撃ミサイル配備」
 作家の宮内勝典氏が、自身のホームページに発表している日記の中で、自衛隊の迎撃ミサイル装備を「数千億以上の巨額な費用が必要とされるものであり、アメリカはビジネスとしてこれを日本に買わせるように画策している」といった主旨で批判している。
 果たしてこれは、日本が攻められる場合を想定して真の意味での「専守防衛」の立場から迎撃ミサイルの配備を容認している私の判断を否定する見解として有効だろうか?

 たしかに、日本全土に迎撃ミサイルを配備するとなれば巨額の費用が必要となるだろうし、その機をねらってというか、むしろアメリカがその機会を意図的に作り出しているというのも、実態把握として的確だろうと思う。
 だが、そういう実態があるということが、迎撃ミサイルの配備そのものを否とする正当な根拠となるだろうか、と言えば、私は首肯できない。迎撃ミサイルの配備の是非は、あくまで、軍事的観点、防衛的観点からみて、その必要があるか否かにかかっていると思われる。現に、日本への武力攻撃を厭わない国家が存在する以上、その抑止と最悪の場合への備えとして、せめて発射されたミサイルが日本の領土内――人の住む都市や町村――に着弾する前に撃ち落とす防衛力は――本来それも必要としない国際社会でありたいものだし、日本はその防衛整備と併行して自ら火種を作らないよう日頃から尽力すべきだが――必要だと私は考える。
 アメリカ云々は迎撃ミサイルの配備という問題に於いては第二次的位相の問題であろう。また問題の本質全体からみたら、部分的要素だろう。
 物事はしばしば全体の本質に於いて肯定される場合であっても、その部分には首肯できぬ要素が含まれることもあるものだ。だが、その部分を過大視して物事の本質に対する判断を歪めるのは如何なものか?

 今やその帝国主義ぶりが目に余るアメリカであり、その事への批判は、露見した各問題に於いて厳しく為されるべきだと、私自身も考えている者だが、そのアメリカ帝国主義の動向如何と、迎撃ミサイル配備といった我が国自身の平和と安全に関わる問題に於ける判断の如何はまた別な次元の問題だと捉えるべきであろう。
 宮内氏の迎撃ミサイル配備への批判は、私の「専守防衛」の立場の見直しを迫るものではないと、私は考える。





2月26日(木)「尊重すべき平和憲法の本質」
 <憲法改悪>と断言すべきいわゆる「改憲論」に対して、同じ「改憲」の立場にたつ私が彼らとは異なり、その平和憲法を尊重するのはどういう点か?
 まず第一に、やはり<加害者>としての戦争行為の防止という観点だ。そのあまりに純粋無垢とも言える完璧な形――戦力保持の放棄――はこんにち他方の<被害者>となる脅威の存在ゆえ、私自身は志向し得ない者だが、しかし、その<加害者>となることを否定する精神そのものは全面的に尊重し、<被害者>となることからの救済の道が逆に<加害者>へと転じることのないよう、具体的な形を整える時点ではことのほか慎重でなければならないと考えるのである。
 またもう一つは、上記に関連するがその徹底した平和志向である。これもその他国の信義に全てを委ねるという現実世界、現実政治に於ける実態にそぐわぬ点があるゆえ、全面的には首肯し得ぬ者だが、しかし、本来は戦争の無い世界を希求し、そのためにまずは日本自身としてはできる限り相手の信義を尊重して、紛争を最後の最後まで回避する平和外交を推進すると共に、日頃から世界平和の実現に向けて、名誉ある役割を自ら担うということは、今後も守るべき原理原則であろうかと考えるのである。

 以上の2点に於いて、私は、平和憲法を、その限界ゆえに一部修正が必要と判断するも、平和国家日本を表象するものとして、依然として高く尊重する者であり、断じて、敵視し忌み嫌うイデオロギーからの「改憲」の企みは容認できないのだ。






3月16日(火)「戦争は絶対反対だ」の今日的課題
 今日の「徹子の部屋」のゲストは評論家の森田実氏。途中から見たので詳細は分からないが、森田氏のご両親に関わる話で、どうやら戦争の悲惨さについてお話されたようだ。徹子さんの涙声に「戦争は絶対にやっていけない。私は戦争には絶対反対です」と答えていた。
 戦争の悲惨さ、非道さを語る時、人は「戦争は絶対に反対だ」と語気を強める。温厚な森田氏も固い信念を吐露するように「戦争反対」を口にされた。

 実は、過日の事だが、私は、私の反戦平和の闘いに対する理解と支援をメールでお願いしたのだった。が、未だに森田氏からの返信は戴けていない。
 今日の発言を聞いて、その理由が分かったような気がする。きっと森田氏は私の「平和主義論」が、真の「専守防衛」であり極めて限定的な意味ではあるとはいえ、戦力の保持と武力行使を容認していること、換言すれば、他国と交戦状態に入ることを容認している点に同意できなかったものと思われる。
 その森田氏の体験からして、そうした心情は私にもじゅうぶん理解できる。私の「平和主義論」に同意できないとしても致し方ないと思う。

 では、私の「平和主義論」は、こうした「戦争反対」の叫びに批判されて然るべきものなのだろうか? 「絶対に戦争をしてはいけない」という主張は、私の「平和主義論」批判として有効だろうか?
 繰り返すが、私自身、森田氏のような体験をもつ方の「戦争反対」の叫びは、叫びとしては分かる。が、その叫びは、こんにちの私たちが置かれている、或いは選択を迫られている状況に於いて、残念ながら殆ど意味をもたないだろうと私は考えざるを得ない。
 
 云うまでもなく、戦争の実態は悲惨なものであり、非道なものであり、矛盾に満ちている。私自身戦争体験者ではないが、少年時代から戦争に関する文献や映画や報道に多大な関心を寄せてきた知識からでさえそう思う。何度も書くが、戦争に対する私の認識と判断の原点は、アウシュビッツであり、ヒロシマであり、沖縄であり、日韓併合であり、満州国建設・南京大虐殺であり、そして映画「禁じられた遊び」である。
 そこに証されたのは、戦争の残虐さであり、且つ無意味さである。その事実の前で、私も、「戦争は嫌だ」「戦争は絶対に起こしてはいけない」という思いを募らせる。

 その意味で、私は、日本が歴史的に行った戦争の全てを否定し、その過ちを二度と繰り返してはいけない、繰り返させてはいけないと心に固く誓ってきた。何度も何度も、涙を流してきた。そして、日本が加害者となる戦争を絶対的に抑止している平和憲法をその意味で強く支持してきたのである。

 だが、こんにち、私たちが問われているのは、如何に私たち日本人が戦争を起こすまいと決意し、平和政策を掲げ、紛争回避の努力を重ねていても、日本への攻撃を厭わない国の出現にどう対処するかという問題である。憲法に謳われている国際信義を最大限尊重したとしてもなお日本への嫌悪と敵意をあらわにする国が存在する時、「戦争反対」の叫びはどういう意味をもつのだろう。

 度々指摘しているように、こんにちの実態は、私の「平和主義論」とは異なる、「専守防衛」の名のもとに実は日本こそが先制攻撃を仕掛けたり、過剰な報復攻撃を行ったり、全面戦争に突入したり、といった極めて好戦的なイデオロギーや観念や心情が隠されて存してある。本当にその危機は極めて現実的なものであり、無視し得ぬ力を有している。
 森田氏の「戦争反対」の叫びは、何よりもそうした「戦争容認論」に対してこそ向けられるべきであり、そこでは一定の意味をもつと思われる。その点で、私は戦争世代の声に大きな期待を抱く者である。

 しかし、その叫びが、私の「平和主義論」に対しても向けられるとしたら、私は納得できない。重ねて云うが、日本が加害者となる戦争の危機も現実的な問題となっているのだが、しかし、その一方で、日本が戦争回避を求めても、それを弱気と受け止めて攻撃してくる危険性もまた現実問題として存在すると私は認識せざるを得ないのである。
 そこで、私が思うに、森田氏の体験とその尊い心情は、日本国民に向けられると同時に、まさに日本への攻撃を厭わない国の指導者たちにこそ語り聞かせねばならないのではないか。戦争を厭わない者すべて、日本の指導者たちだけでなく、他国の指導者たちの双方に、森田氏の「戦争絶対反対」の声は届かねばならないと私は思う。

 それが現実に効力を発揮し得ないのだとしたら、残念だが、くるであろう大地震に備えるが如く、日本の主権と独立、日本の平和と安全、国民の命と財産を守るための現実的で具体的な対処は怠るべきではないと、私は考えざるを得ないのである。
 もし、それでもなおかつ、私の「平和主義論」を批判するのであれば、私は逆に、被害者となることから如何にして日本は救われるか――という問いを返したい。以前にも書いたが、私の「平和主義論」を批判する者は単に「戦争は絶対にやってはいけない」と言うだけではなく、実際に、被害者となることからの救済と他国に於ける加害者の画策の阻止をどう成就するのかという問いに答えるべきだろう。
 他国からの侵略に対しても武力を以て防衛すること――交戦、すなわち戦争――は行うべきではないとする論理と言語は、国民の過半の理解を得られはしないだろう。

 そしてもう一つ、現状の日本に於ける「戦争容認論」を阻止する論理と言語――「戦争は絶対に起こしてはならない」の発言は一定の意味をもつものの、現状否定の決定的な力とはなり得ない――を証し立ててほしいと切に願う。
 これらの問いへの解答と証が果たし得ない以上、森田氏の、「戦争反対」の声は、私の「平和主義論」を超克し得てはいないと私は考えるものだ。





3月20日(土)「非武力による防衛は?」
 私は「平和主義論」の中で、日本に向けて発射されたミサイルが着弾する前に迎撃するなど、真の意味で「専守防衛」に限定した武力行使を容認すると述べている。見方を変えれば、国と国の交戦権を認めているのである。
 だが、私は、国際政治の場で<脅威>が現実に存している以上、日本の主権と独立、平和と安全、国民の命と財産といったものを守るためにやむをえず、そう判断しているわけだ。決して、戦争をし得る国家こそ国家のあるべき姿だ、国作りの土台を軍事力に置くべきだなぞと思っているわけではない。ましてや、「戦争も政治的選択の一つだ」という<戦争イデオロギー>など私は到底認めるわけにはいかない。

 そこで、取りあえず、私の言う意味での<防衛>に徹した「戦力」と「武力行使」を担保したうえで、今度は、そうした軍事力に依存せずに、侵略と戦争を回避し得る方策がないか、考えてみることにしたい。実はこの解答を得るための思考は今後ずっと絶え間なく継続されなければならない。
 そして、私自身、その解答が得られることを心から望むし、そうなった場合には、喜んで「私の平和主義論」を撤回するだろう。

 まず最初に私が思いつくのは、中国の存在だ。そしてASEAN諸国の存在。まず後者から見てみると、日本がASEANの仲間入りを果たし、政治、経済、外交、文化、スポーツといった様々な分野で交流を深め、連携の絆を強めることによって、かの国への無言の抑止力になるのではないか?
 この問いには、現実の国際政治に於ける力関係や信頼関係といった事実情報の不足から、私には今直ぐ結論を下し得ない。ただ一つ言えるのは、小泉首相の<戦前回帰>的なイデオロギーを払拭しない限り、そもそもASEANの一員になることも困難だろうと思われる。ましてや彼らの協力を仰ぐことなど期待できまい。
 では、中国はどうか。日本のマスメディアの報じるところによれば、北朝鮮に対する影響力はかなりのものがあるようだ。アメリカの軍事力の傘の下にいる以上の効果が期待できるかもしれない。少なくともアメリカのそれは「力の政策」に依存したものであり、戦争の危険は絶えずあるというか、アメリカ自身が先制攻撃を仕掛けて日本を巻き込む恐れが多々存しているのが実態だろう。その意味からも、北朝鮮と友好関係にある中国の役割に期待するところ少なくないと考えられる。
 だが、これも、やはり小泉首相の<靖国神社参拝>の強行のために、今のところ具体化の道は閉ざされている。
 もちろん日朝の確執に中国の本格的参入を期待するのならば、単に<靖国参拝>問題だけをクリアーすればよいというものでもあるまい。
 <南京大虐殺>問題もそうであろうし、そもそもあの<大東亜戦争>をどうみるのか、またそれ以前の日中戦争・満州国建設など<大陸への侵略>をどう贖罪するのか――といった問題が問われることになるだろう。
 そして、今日本は、戦後一貫して保守権力によって厄介者扱いされ、嫌悪され敵視されてきた<平和憲法>を変えようと動きつつあるわけだが、小泉首相以下保守政治家たちによる「平和国家日本」との訣別という現状をどう転換するのか、転換し得るのか――、という大きな問題が横たわっており、この解決なくしては中国の本気の調停――北朝鮮への抑止力――を期待するわけにはいかないだろう。

 こうしてみてくると、日本が被害者となることからの回避と、日本が加害者となることからの回避という二つの平和に関する課題は、共に、戦前的なイデオロギーと観念や意識の深層で連綿と繋がっている小泉首相ら保守権力政治の継続と終焉の如何にかかっているということが分かる。
 その意味では、こんにちただいまの実態に対処するにはやはり「私の平和主義論」の如き<真の防衛>政策の実施を必要とするも、その一方では、危機の本質に関わるところで障害となっている小泉首相をはじめとした<新保守主義>=<戦前回帰的イデオロギー>の超克が必須となるであろう。私はその闘いこそ第一義としなければならない。
 
 



3月21日(日)「非武装・非軍事に於ける<防衛>」
 昨日、軍事力に依存せずに他国からの侵略を防止する道を探りたいと書いた。そして、ASEANと中国との絆をより強くすべきことを考えた。
 そこで疑問として浮かぶのは、そうして外交的な方法で日本の主権と独立、平和と安全、国民の命と財産を守る術が有り得るのなら、「私の平和主義論」で言う、徹底的に防衛に限定した戦力の保持と武力の行使を容認する政策は転換すべきではないか? そう、私は「平和主義論」を修正すべきだろうか?

 結論から言えば、残念ながら、こんにちの時点ではまだ<軍事力による防衛>という手段は放棄できないと私は考える。
 というのは、先に指摘した<外交による防衛>を具現化することが非常に困難だと言わざるを得ないからだ。
 実際、こんにちの小泉政権の下ではまず絶対に起こり得ないだろう。殆ど確信犯とも言うべき<戦前のイデオロギー>の実質的継承者である彼に、「歴史の転換」を求めるのは
彼自身の人生とアイデンティテイを否定することとなろう。マスコミは彼を行き詰まった日本経済と日本社会の<改革者>だともてはやすが、その是非如何もさることながら、彼のイデオロギーの本質についてあまりにも鈍感であり無批判に過ぎる。小泉首相が「日本は天皇を中心とした神の国だ」と発言しその職を失することとなった森前首相の森派の会長の任にあった人物であり、そのイデオロギーは森前首相のそれに比すべき古い体質を有していると言って過言ではあるまい。ただ小泉首相の場合、森前首相のような前時代的発言を露呈するような軽率さをもたず、換言すれば、より時代の空気、マスコミ世論の動向といったものに敏感であり、またその人格面に於いて「感動した。痛みに耐えてよく頑張った」と率直に語る現代的な一面を有しているのである。だが、中国との関係を冷ややかなものにしてもなお止めようとはしない靖国参拝の強行にみられる如く、そのその信念はイデオロギーと化して彼を突き動かしている事実はしかと見抜かねばならぬ。

 それでは、こんにち、その小泉首相のイデオロギー政治を終焉させる力が他にみられるかと言えばこれがまたむずかしいのが実態だ。自民党内部では後継者として名を取り沙汰されている諸氏はいずれも平和憲法の理念を遵守しそれを生かす政治を推進する意志と力をもつとは到底言えないのが実態だ。
 他方、先の総選挙で二大政党制の芽をつくり、早い時期の政権交代を期待させる民主党だが、これもこのところ議員のつまならぬ不祥事により早くも人気に翳りがみられる。いやそれよりもなにより、この民主党、<歴史の大転換>を為し得る政党であるか、甚だ疑問なのだ。私の「平和主義論」でさえ具現化し得る政党だとは言い難いのが実態だ。
 ましてや、ここに言う、<軍事力に完全に依存しない防衛=外交による防衛>に徹した政治を実践することなどとても期待し得ないのである。

 しかしながら、それでは、私の「平和主義論」を政治思想として抱く政党の創設が緊急に求められるのと同じように、あくまで「平和憲法」に即して<非軍事的>営みによって防衛を成就する政党の創設が可能かとなると、社民党と共産党の退潮が示すとおり、国民多数の支持を直ちに獲得し得ると期待するのは非現実的であろう。
 現在の国民の観念としては、日本政治の大転換によって、どこまで中国との絆を深め、北朝鮮への影響力を行使してくれるのか、そしてそれに北朝鮮が従うのか――、この構想の根本そのものへの疑問を抱かざるを得ないというのが実際のところではないだろうか。

 そのような政界および国民世論の政治状況を考えると、「今こそ、今だからこそ平和憲法を」「非武装・非軍事による侵略防止を」というアピールは残念ながら国民的コンセンサスを形成し得ないだろうと私は考えざるを得ない。
 一方、かの国に対する軍事的防衛は現実的な課題であるとすれば、やはり取りあえず私の「平和主義論」の如く、日本の主権と独立、日本の平和と安全、国民の命と財産を守るための現実的な対処を、少なくともその意志を明確にすべきであろうと私は考える。それは今現在、具体的に特定の政党によって具現されていることではないが、しかし、実は潜在的に国民的コンセンサスを形成し得る原理であり政策であると言えるのであり、従って政界再編成や新党結成など政治的現実を生み出す可能性は決して小さなものではないと、私は考えるのである。
 それに、私の「平和主義論」は何度も確認しているように、<軍事的防衛>を決して最優先したものではない。最後の手段としてそのような準備を行うも、平素に於いては徹底した平和外交・平和路線を実践するのである。世界の恒久平和を願い、自らは決して侵略者とならぬとする「平和憲法」の理念・原理に即して、いわば「憲法を生かした」政治の実践と成就を真摯に営むのである。
 その結果として、担保した戦力と武力行使を封印したまま、かの国と歴史的和解を成就するという道も開けているわけである。

 このようにみてくると、残念ながら<非武装・非軍事>による<防衛>に於けるここでの一案は、こんにちの時点ではその実現性は極めて薄いと考えざるを得ない。
 だが、しかし、私の「平和主義論」による政治に於いても、中国との関係強化は期待できるとはいうものの、いったん作り上げたシステムはひとり歩きする危険もある。創始者の意図とは異なる方向に流れる危険もある。既成事実に弱い日本の政治家たちによって、実は回避し得る戦争に突入する愚行をおかす危険も無しとはしない。<武力による紛争解決>を認めるリスクは決して小さいなものではないことを思えば、やはり、<非武装・非軍事>による<防衛>の道への探求は今後とも積極的に実践されるべきであろう。
 国際社会は常に動いており、中国との関係強化による影響力の実態もみえてきた時点で、日本の世論も一大転換を示すということだって起こり得ない話ではないと、私は考える。その意味も込めて、「平和主義論」を現実位相に於いて提示したこの私も、平和憲法の下で、<非武装・非軍事>による<防衛>の成就の道の探求に積極的に参与したいと思う。





3月22日(月)「絶対平和主義と若者の犠牲」
 私は「最も正しき戦争よりも最も不正なる平和を取らん」(古代ローマの政治家キケロ)との絶対平和主義的な立場を取っている――。
 これは評論家森田実氏の言葉だ。私は、森田氏世代、つまり戦争体験者たちがこのように語ることは心情的にとてもよく理解できる。この世代の人までもが、「行け行けどんどん」になったらもう世も末だろう。
 だが、連日のように述べているように、この言葉は、小泉政権によって押し進められている戦争政策に対して向けられるべきものだ。
 尤も、「最も正しき戦争」と言っている点から言えば、私の「平和主義論」をも批判する立場だとも言えよう。
 だが、こういう場合、有識者たちも含めて、問題を観念的位相で語り過ぎるように思う。私は、森田氏に問いたい。日本に向けられて発射されたミサイルを着弾する前に迎撃する軍事行動も、<正しき戦争>の中に含めるのかと。
 <戦争>という言葉を用いることで、<正しき>と形容する事態に於いても、全面的に否定する意識と観念が私たちの心に生まれる傾向があるものだ。特に戦後民主主義の中で育ってきていくぶんなりとも、<革新的>とか、<反体制的>という政治的・思想的スタンスを取っている人はそうだろう。
 <戦争>という言葉は、絶対否定を意味するものであって、そこに<正義の>と修飾句が付いたとしても、<戦争>であるかぎり、それは容認できない事態だという判断が生まれるのである。

 が、しかし、事をそのように抽象的かつ観念的位相で捉えるのではなく、極めて具体的且つ現実的な位相で取られた場合どうなるか。つまり、繰り返すが、日本に向けて発射されたミサイルを着弾する前に迎撃する武力行使もまた、<戦争>の名に於いて否定されるべきなのか?
 私が「平和主義論」で唱えているのはそうした実態であり、武力行使の在り方なのだが、それさえ森田氏は否定されるのであろうか?
 
 繰り返すが、たとえそうだとしても、戦争体験者の森田氏の心情を思えば、そのこと事態を私は批判する気持ちは持ち合わせていない。だが、客観的な問題として、その国家による政治行動は、過去の戦争体験を持たぬ今の若い人に理解され共感を得るだろうか。いや、私が言っているのは、森田氏が見聞するマスコミ関係者や若手政治家の話ではない。一般国民の中の戦後生まれの若い人たちの話だ。彼らに、たとえミサイルを撃ち込まれても――そのミサイルには核弾頭が取り付けられているかもしれない――、それに応戦して戦争状態にしてはいけない。たとえかつて日本が中国や朝鮮にしたように一方的な攻撃を受け、殺戮や陵辱を受けたとしても、「戦争よりまだその平和のほうがましなのだ」と、語ることにどんな意味が存してあるだろう。

 再び繰り返す。森田氏の周囲に増えつつあるというマスコミ関係者や若手政治家たちの「戦争容認論」は、論外だ。私の「平和主義論」でも、それは全面的に批判していることだ。問題は、そうではなく、より一般的な、善良な市民たち、特に過去の日本の過ちについて直接的な責任を負ってはいない若者たちに、森田氏の「絶対平和主義」はどう聞こえるだろうか?

 森田氏たちには、小泉首相以下<戦争勢力>とでも称すべき「戦争容認論」との対決だけでなく、ミサイル攻撃に不安を抱く人々、特に若者たちの不安に率直に向き合って戴きたいと願う。

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