『私の平和主義論』




2003年1月9日「新・晩鐘抄録」掲載

 拉致事件問題で日朝関係が膠着状態にあるなか、アメリカの識者たちの間で大変物騒な論議が大まじめで行われているという。日本も核武装すべきだとの主張だ。本来憲法違反の自衛隊の存在それ自体から専守防衛へ、それを踏み外すアメリカの戦争への後方支援、そして現実主義派が望む次なる軍事行動は異国の地に対する同盟国の武力攻撃への直接的関与と、参戦の拡大化が着々と計られているが、核武装とはこれはまた軍事行動の究極の姿ではないか。恐らく、これに意を強くして、現実主義派の核武装論者たちは、タブーを破って狼煙をあげることになるのであろう。
 こうして戦争への道をなし崩し的に転げ落ちつつある今、その現実に抗する「反戦平和」の志を抱く者は如何にあるべきか――。いや他者のことではなく、この私自身はどうあるべきか――。
 私の「反戦平和論」については、このところ連日のように書いている事だが、ここでは思考の順序を変えて考察し、認識をより深めたいと思う。

 私の反戦平和への希求は、何といっても、「人に殺されたくないし、また人を殺したくない」という意識・感情に原点を置く。被害者になることと同時に加害者になることも絶対に拒否したい。もちろん、それは私自身の身の上に関することではなく、私の愛する人たちの身の上に関しても、やはり彼・彼女らが「殺されること・殺すこと」の不条理を体験させられることを絶対に回避させたいと願う。
 その愛する人たちとは、もちろん私の家族がまず第一だが、しかし私の意識はさらに隣人へと向かう。その隣人の中には、「禁じられた遊び」に登場するポーレットがいる。そしてもうひとり私が長年忘れ難く記憶している隣人に、アウシュヴィッツ収容所で、ガス室に連れて行かれる最後の時、ナチスの警備兵に向かって、「僕は、君たちを、絶対に許さない」と叫んだという11歳の少年がいる。そして同じくアウシュヴィッツにて若き命を亡くしたアンネ……。さらには、本来、己の自主的な意志ではなく、殺され、殺した多くの兵士たち……。8月6日と9日にその強烈な閃光の一瞬に死を余儀なくされた原爆の犠牲者たち……。こうして私の胸に去来する戦争による被害者を数えていったら限りがない。

 私は、こうした戦争という不条理によって「人間の尊厳」を奪われた人たちのことを絶対に忘れることができない。もちろん、戦争の犠牲者は死者ばかりではない。先年NHKで放送した「大地の子」に描かれた中国の残留孤児たちの想像を絶する艱難辛苦にも意識を向けなければならぬ。そして今もなお後遺症に苦しめられている被爆者たち、畑から拉致され、それを今自ら娼婦となったなぞと二重の屈辱を受ける従軍慰安婦たち、天皇制軍国主義・ファシズムの嵐が吹き荒れるなかで「平和」を口にしただけで「特高」に残忍な拷問を受けた「反戦平和」運動に身を投じた共産党員をはじめとした無名の勇気ある人々……。
 ――私は、「人間の尊厳」を無惨にも踏みにじり弄ぶ戦争など、絶対に起こしてはいけないと思う。「恒久平和」を心から願うのである。





2003年1月10日「新・晩鐘抄録」掲載
 「人間の尊厳」を弄ぶ戦争は、絶対に起こしてはいけないと心から思う。世界から<戦争>の二文字を消し去らねばならないと思う。
 その方法を明確に示してくれているのが、わが「日本国憲法」だ。それは、明治維新以来、戦争、戦争の連続であった日本の近現代史に於いて特筆すべきことだが、非武装・非暴力・無抵抗主義を謳った「絶対平和主義」思想を核として作られた憲法である。一部にアメリカから押しつけられた憲法だとして「改憲論」が叫ばれるが、戦後、多くの国民の心情に素直に受け入れられてきたのは事実だ。長い間、「非武装中立」という言葉は、多くの国民の意識を占有してきたと言えるだろう。

 たしかに、他国との間に万が一問題が発生した場合には、あくまで相手の信義に訴え、軍事力を以て紛争の解決を求めず、依って「戦力」そのものを保持しない――こう宣言した憲法は、世界に唯一、「日本国憲法」のみである。
 そこには、日清戦争(1894年)、日露戦争(1904年)、第一次世界大戦(1914年)、満州事変(1931年)、日中戦争(1937年)、そして第二次世界大戦(1941年)と戦火の絶えることのなかった日本、自ら「大日本帝国」と名乗り、帝国主義的侵略の野望をアジア諸国に対して行うなど消えることのない罪を重ねた日本、そして1945年の8月6日と9日に、人類史上初めて、原爆という人類を全滅させ得る核兵器の脅威を体験した日本――、こうした加害者となり被害者となりした戦争にまみれた日本だからこそ、「不戦の誓い」を世界に宣言し得たのかもしれない。

 たしかに、日本の「平和憲法」を完全に全うすれば、戦争は起きない。加害者としての戦争は起きないし、被害者としての戦争も、起きない。
 だが、被害者としての戦争も起きないとは言うものの、それは日本が軍事力を以て反撃しない限りに於いて<戦争>は勃発しないということである。そこには、侵略者の野望の一方的な蛮行が存してあろう。それは、勿論、日本が望む<世界の恒久平和>とは全く異なるものだ。決して、健全な形の<平和>ではない。
 つまり、日本の「平和憲法」の悲願は、世界の全ての国家が同じように、非武装・非暴力・無抵抗主義の「平和憲法」をもつのでなければ、真の意味での「世界平和」は訪れないことを物語ってはいる。
 ――だが、とにかく、国家というものが発生して以来、人類史に於いて、「軍事的解決」を求めず、ために<戦力>を保持せずと謳い、<戦争放棄>を宣言したことは前代未聞の事、まさに画期的な事であり、そこには、崇高な人間精神の証があり、高邁な思想と哲学が存してある。この憲法が、世界の<恒久平和>を成就する最高の規範であり真理であることは紛れもない真実であろうと、私は考える。





2003年1月11日「新・晩鐘抄録」掲載
 人類史上初めて、<戦争放棄>を誓い、<戦力の不所持>を宣言した日本の「平和憲法」――、私は、思想・哲学の位相に於いて高く評価するも、そして、実際に、世界の全ての国家が同じくこの憲法を保持することになることを若い頃より願ってきた者だが、しかし、今、こんにちの世界の実態をみるとき、その熱い思いが萎えるのを禁じ得ない。
 まずそもそも既に日本自身が、「戦力を有しない」と宣言しているにも関わらず、自衛隊という紛れもない戦力、それも世界有数の戦力を有していることからして、現在、憲法に於いて「交戦権」や「軍隊」の存在を公認している国々が、逆に、今から<戦争放棄>を決断し、<戦力>を捨てることを期待するのは、殆ど幻想と言うものだろう。

 勿論、世界の実態がそういうものであるとき、歴史の過誤をもち、また世界で唯一の被爆国として、日本が、世界に先駆けて、その夢とも理想とも言われる「平和憲法」を完全に遵守し、他の国々が後に続くよう呼びかけるという道も存するわけだ。恐らく戦後長い間、多くの国民もそうだったと思うが、私も、日本が再び<加害者>となる戦争を絶対に起こしてならないとの誓いのもとに、この非武装・非暴力・無抵抗主義の「絶対平和主義」思想を核とする「平和憲法」――<戦争放棄>と<戦力の不所持>――を世界に先駆けて遵守し広めていくべきだと考えていたのである。
 残念ながら、日本が再び<加害者>となる戦争に没入する危険はこんにち益々大きくなってきているのだが、しかし、その一方で、日本が<被害者>になる危険も増大してきている実態にも目を向けなければならないと、私は考えるに至っている。

 よく日本の戦後の平和は、何によって、保たれてきたのか――という問いが発せられることがある。その場合、左翼・革新的な立場にたつ人々は、日本が<加害者>となる戦争を想起して、この「平和憲法」こそが日本の平和をかろうじて守ってきたと考える。実際、朝鮮戦争にしても、ベトナム戦争にしても、もしこの「平和憲法」が無ければ、米軍と一体化した軍事行動、参戦にまで至っていたのではないか。たしかに戦後日本の平和は、まずは「平和憲法」によって守られてきたのだと、私もそう考える。
 だが、保守的な立場にたつ人々は、ソ連や中国などを仮想敵国として不安感と警戒心を抱き、その攻撃から日本を守ったのは、「平和憲法」ではなく、「日米安保条約」であり「自衛隊」であると考える。
 「平和憲法」がさほどに無力であると断定することには些か疑問を抱く私とて、日本に対して軍事的圧力をかけることをソ連や中国、そして北朝鮮が考えたとしたら、それを抑止する上で最大の力となったのは、やっぱり「日米安保条約」ではないかと認めざるを得ない。
 ただし、この「日米安保」は<諸刃の刃>であって、この軍事条約によって、仮想敵国との間に緊張関係を増大する結果を生んだこともまた事実であったろう。(そこで、過剰な「日米安保」の強化には私は反対し、国際情勢をみながら将来的には段階的に解消の方向に向かう道を選択していた)。
 が、こんにちソ連が崩壊しロシアとなり、中国もまた<平和共存>の国際関係を重視するようになってみると、改めて、余計に「全体主義的軍事国家」の脅威――当時、共産主義は、資本主義帝国打倒を叫び、そのために当該国の左翼勢力に資金援助を含む様々な支援をし革命勃発を画策していた――は存在したと思わざるを得なく、日本が「平和憲法」を全うすれば、<敵>は存在しないはずだと考えるのは、些か甘い見方であったかと、今私は思っている。
 「ソ連が北海道に攻めてくる」という大々的な反共キャンペーンは、それを口実にした日米軍事同盟の強化を計った悪質なデマゴギーだったとしても、「日米安保」の存在が無ければ、「平和憲法」の存在だけでは、共産主義国家による、ブルジョワ帝国主義からの人民の解放という大義名分を掲げての軍事介入の危険はやはり存在したと言えるのではないか――。ハンガリー動乱やチェコ動乱をみても、それは明らかであったように、私は今そう考えている。そしてその危険は、今もまだかの隣国の存在によってリアリティを有していると言えるだろう……。

 こうした考察を進めてみると、結局、私は、非武装・非暴力・無抵抗主義からなる「絶対平和主義」思想を核とする「平和憲法」に、日本が<被害者>となる危険からの回避を全面的に委ねるのは非現実的であるように思えてならない。
 その点では、私は、年々悲観的になってきている。実際、日本に武力攻撃を仕掛ける可能性のある国は、かの隣国に限らないだろう。宗教対立、民族対立は今後益々激化してくるものと思われる。経済的利益を求めた既得権争いも激化してくるだろう。そして心配なのは<戦争>ばかりではなく、卑劣な<テロ>による攻撃も考慮しなければならない。
 「平和憲法」では、相手国の<信義>に期待しているが、残念ながら、こんにちの時代は、国家であれ、各個人であれ、<信義>とか、<誠意>といった人間の<善>なる心を逆手にとって、理不尽で残虐な行為を振る舞う傾向が強くなっている。まさに「ニヒリズムの時代」ではないかと、私は考える。
 そのような実態を直視するとき、私は、非武装・非暴力・無抵抗主義からなる「絶対平和主義」を自身のテーゼとすることはできない。そこに依拠するのはいわば「危険な賭」であり、そのツケを我々自身が負うのであればまだよしとしても、次代を担う子供達を巻き込むことは絶対に認められないことだ。私たちには子供達への責任も存してある。
 結局、換言すれば、それが民衆による武装蜂起であれ、国家の軍隊による軍事行動であれ、それを<絶対>に否定する――という立場を取らない、取りたくも取れないと、私は今考えている。





2003年1月12日「新・晩鐘抄録」掲載
 昨日、私は、非武装・非暴力・無抵抗主義からなる「絶対平和主義」思想を核とした「平和憲法」に、その崇高な理念に敬意を抱きつつも、「主権と独立」の「自衛」を全面的に委ねることはできない、世界に先駆けて過去の歴史をもつ我が国自ら「賭」を試みるのは、次代を担う子供たちに対する責任という観点からも問題があるとして、結局、民衆による<武装蜂起>も、国家による<戦争>も、容認せざるを得ないと書いた。
 そう発語するとき、私の胸は痛むが、かつてのヒットラー・ナチズムや天皇制軍国主義、それにこんにちの世界の実態を直視するとき、その選択は致し方ないと、私自身認めざるを得ない。

 しかし、とは言うものの、<武力闘争>の容認は、無原則的であっていいと考えているわけでは決してない。
 昨日は、日本が<被害者>となる危険に焦点をあてて考察を試みたのだが、実を言えば、私は、こんにちも、日本が<加害者>となる危険のほうが現実にはより可能性が高いと認識している。実際、それは決して<自虐的>な意識などではない証拠に、朝鮮戦争やベトナム戦争、そして湾岸戦争の際、もし「平和憲法」が無かったら、当時の保守政権のもとでは<加害者>となる軍事行動、参戦を果たしていたはずだと、私は考える。
 残念ながら、<信義>に期待して「絶対平和主義」を厳守すること、或いは<信義>が破れて幾多の犠牲を伴うもそれでもいつかは<侵略>が終止することを信じて「自衛」のための戦いを挑まずという不戦を貫くこと――を私は今支持することはできない者だが、その一方で、「自衛」のためと称して、実際にはその戦いが過剰に行われ、結果的には、日本こそが「侵略者」の汚名をきせられる屈辱を受ける危険もまた大きいと認めざるを得ない者だ。実際、日本人は、「自衛」の大義名分を以てひとたび事に及んだ場合、あとは「攻撃は最大の防御(自衛)だ」なぞと意識や観念をエスカレートさせて取り返しのつかないところまで突き進んでしまう恐れが多分に存するであろう。
 その意味で、殊に過去の歴史の過誤をもち、しかもいまだその<超克>を成就したとは言い難い日本に於いては、「自衛」という大義名分を裏切ってしまう軍事行動を厳しく防止する「歯止め」が絶対に必要だ。
 その観点から、私は以下の事を考えている。いわば、日本に於ける「戦争容認」の条件だ。
 まず第一に、平素から、「平和憲法」の精神に基づく世界平和への貢献に最大限の努力を尽くすことだ。以前にも書いたが、戦後日本は「改憲」を本音とし「平和憲法」を厄介者扱いしていた保守政権のもとで、一貫して反動化政策が押し進められるなか、辛うじて、彼らをして、その「歯止め」としての役割しか果たせなかった「平和憲法」だが、「戦争容認」思想を受け入れざるを得ない今こそ、実は、「戦争容認」の現実的政策を決断する状況を作り出さないことへの努力が必須であり、そこでは「平和憲法」の理念は大きな道標となるものであり、依って「平和憲法」の精神を生かすべく、平和のための国際貢献に積極的に取り組むべきであると、私は考える。
 具体的にはよく言われる難民救済や戦後復興のほかに、紛争勃発の危険が生じてきた国家間の調停役を積極的に買って出るのも重要な平和への貢献だろう。また、湾岸戦争の際には130億ドルもの戦費拠出を行ったが、そういう参戦行為に貴重なお金を費やすのではなく、文字通り平和の構築と維持のために、たとえば「防衛費」と同額の予算を「国際平和基金」として毎年恒久的に計上するという思い切った政策も断行すべきだと、私は考える。

 第二に、上記を行うに際しても、それが本当に、日本が世界平和を希求している国であることを証す意味からも、過去の歴史の<超克>が不可欠だ。そこでは上記のように世界に向けたアピールではなく、直接、日本が多大な被害を与えた国々、その民衆たちに対して、直接、真心からの<謝罪と償い>の成就が求められる。
 またそれと同時に、過去の歴史の過誤について、なぜ、アジア諸国への<侵略>を行ってしまったのか、なぜ「朝鮮併合」という<植民地支配>――その中でなぜ「創氏改名」などという過去の植民地支配にも殆ど例をみない蛮行――を行ってしまったのか、なぜ<南京大虐殺>のような「聖戦」とは全く逆の残虐非道の行動を発生せしめてしまったのか、またなぜ、国内に於いて「特高」が暗躍するようなファシズム国家を具現させてしまったのか、またなぜ、天皇制をあのような独裁と汚れた血にまみれたもの――<雅>の皇室をその歴史を汚すような役割を担わせること――にしてしまったのか……といった「戦争とファシズム」に於ける様々な問題を真摯に考察し、その原因や要因などを、社会学的な観点からだけではなく、思想・哲学的位相に於いても、徹底した検証を早急に実践すべきではないか。そうして、日本が二度と再び、<加害者>としての戦争を起こせないような社会システムと精神世界を構築すべきだと、私は考える。

 第三に、そうした努力を日本が果たしていつつも、それでも国際紛争の勃発の危機に曝される不幸な事態が発生した場合、日頃の平和主義を一転させて、かつての武者小路実篤や高村光太郎のように俄に戦争への道を突き進むことなく、最後の最後まで、粘り強く、「平和的解決」に向けて尽力を惜しまぬことが求められる。そこでは、硬軟あわせた政治的努力、外交的努力が必須であろう。さほどの高度な政治的舵取りが今の保守政権によって可能かどうか些か心許ないが、マスコミ・世論あげて、相手国への反感と敵意を増長させるのではなく、冷静にかつ粛々と、主張すべきは主張し、譲るべきは譲って、戦争回避のために、やるべきことは全てやり尽くしたと言えるほどに、「平和的解決」にあらゆる努力を集中させるべきだと、私は考える。

 第四に、それでも残念ながら、「和解」が成立せず、相手国から一方的な軍事的先制攻撃を受けた場合――勿論、日本から、「攻撃は最大の防御(自衛)だ」なぞという詭弁的な論理のもと、先制攻撃をすることは絶対に許されない――、日本の領空・領海・領土と日本国民の生命と財産を守るために、「自衛」の戦いを挑むほかないが、それは、あくまで、「専守防衛」に徹するべきだろう。軍事作戦的には忸怩たる思いがあるかもしれぬが、相手国の領空・領海・領土への攻撃は、敢えて慎むべきだろう。敵国とは言え、罪なき民衆を殺傷するが如き攻撃は最後の最後まで敢えて控えるべきだと、私は考える。

 そして第五に、これは日本と相手国との紛争自体ではなく、国際社会に於ける軍事紛争が或る国家間に於いて発生した場合、たとえば、それが日本の同盟国であるアメリカが当事者であっても、連合軍として、同盟軍として、参戦することは絶対にやるべきではない。たとえ後方支援と言えどもだ。後方支援は参戦ではないなぞと主張するのは、詭弁というものだ。
 また、たとえば国連が承認したり、国連軍が組織されたりしたような場合――そこでは、対象国に侵略の事実があったり、国際社会を脅かす軍事行動が認められたりという事実が存してあろう――でも、日本は、敢えて、軍事行動そのものには参戦すべきではないと、私は考える。この点は、1月4日の「戦争の形態」の中で、思想的観点では容認する場合も有り得ると書いた――もちろん、こんにちの実態に於いてはその資格なしとして完全に否定した――が、やはり、上記の4つの条件を成就した場合でも、当分は、日本はたとえ国連軍といえども参戦するのは慎んだほうがよいと、私は考える。
 戦争の体験は、権力者たちにとって、為政者や軍関係者にとっては、その結果、「覇権主義」の道を突き進む危険が大きいものだ。特に日本人の場合、バブル経済景気の如き、虚妄の経済発展を一時期遂げた際に、すぐに国連の常任理事国の椅子を求めたり、過去の歴史の過誤を開き直ったり、「ジャパンアズナンバー1」などと言って、イギリスをはじめヨーロッパ各国を見下すような、主観的で傲慢なメンタリティをもつ国家であり国民である。
 日本の国際貢献は、そうした意味から、あくまで、「平和貢献」そのものに限るべきだと、私は今強く思う。実際、如何に国連が承認しようと、文字通り国連軍が組織されようと、国際社会が戦争一色に染まるのは危険なことだ。世界のどこかに、その埒外にいて、状況を冷静に見極め、「和平」の機会を求めて、尽力する国が絶対に必要だ。過去の歴史の過誤をもち、唯一の被爆国である日本こそが、その役割を担うにふさわしい。殊に、上記の第一、第二の条件を満たしている日本であれば、国際社会もその真意を認めてくれるのではないかと、私は考える。

 さて、ここまでは国家の武力行使容認についての条件を考察してきたが、民衆の武装蜂起という問題も、やはり無条件で容認されるわけではない。その事を確認しておこう。
 思想的位相で言えば、二つのタブーが存してあると考えられる。一つは、軍事クーデターになってはならぬということだ。これは他国の侵略に対して立ち向かう民衆の武装蜂起について指摘する事ではないように思われるかもしれないが、自国と相手国との間で戦争回避のため、「平和的解決」のためのギリギリの交渉が行われているさなか、或いは既に交戦状態にあるとき「和平交渉」を行っているさなかに、民衆が武装蜂起することは世界に於いて屡々みられる事態であり、それは事実上軍事クーデターとも言える暴挙だと断じざるを得ない。
 もう一つは、絶対に「テロ」を行ってはならないということだ。中東問題の専門家としてマスコミに再三登場する某大学教授は、「テロはいけないと言うが、レジスタンスとどう違うのか」と、テロとレジスタンスを同一視し、イスラムのテロを容認するかの如き主旨の発言をしている。共に民衆自身による武装蜂起という点では共通しているかにみえるが、実は決定的に異なる点が存してあるだろう。つまり、テロは、民間人を対象にした無差別殺戮そのものを目的として意識的に行うが、レジスタンスは、原則としては軍隊に対して行うものだ。勿論、現場の状況次第では、民間人に犠牲者を出すこともあったかと推測し得るが、しかし決して、それ自体が目的として行われることは殆ど無かったのではないだろうか。これは歴史的事実に関する事なので、私の知識に誤りがあれば訂正しなければならない事であり、万が一、民間人を対象にした無差別殺戮が度々行われていたようであれば、私のレジスタンスに対する評価は大きく転換せざるを得なくなるであろう。
 が、その真偽はともかく、私の言う民衆による武装蜂起は、決して、民間人を対象とする無差別殺戮という「テロ」を容認するものではない。歴史上のレジスタンスが如何なるものであったかは別にして、私の容認する民衆による武装蜂起は、「テロ」とは決定的に異なるものだ。
 この条件を満たすとき、そこで初めて、民衆の武装蜂起を、<侵略者>への正当な「自衛」として容認し得ると、私は考えているのである。

 ――以上、非武装・非暴力・無抵抗主義からなる「絶対平和主義」ならぬ私の「平和主義」が容認する、国家によるまたは民衆による「武力行使・軍事行動」は、かような極めて限定的なものだ。あくまでも、卑劣にして残忍な侵略者に対する「自衛」を目的としたものであり、いたずらに戦火の拡大を求めるものでは、決してないのである。





2003年1月13日「新・晩鐘抄録」掲載
 「人に殺されたくないし、人を殺したくもない」「もう二度とガス室に閉じこめられる少年やポーレットのような戦争孤児を作り出したくない」――。
 この心の思い、魂の叫びを原点とする私の「平和主義」――。
 それを完全に具現化する非武装・非暴力・無抵抗主義なる「絶対平和主義」思想に基づく「平和憲法」への敬意を抱きつつも、ドイツ・ナチズムや天皇制軍国主義がつい数十年前に現存し、今また「ソウルを火の海にしてやる」なぞと公式の交渉の場で発言したり、卑劣で残忍なテロを支援する国家が存在する世界の実態をみるとき、「自衛」という観点で捉えた場合、そこに「平和憲法」の現実的限界を認めざるを得ず、民衆による<武装蜂起>と国家による<武力行使>を容認しつつも、しかし、「自衛」がいつの間にか、「侵略」にすり替わる危険性の高いこと、被害者が一転加害者となることを懸念する立場から、日本に、幾つもの参戦のための条件が不可欠であることを認める――そう、私は書いてきた。
 これが、私の「平和主義論」だが、それでは、実際に、昨今日本が取ってきた政策を是とみるとか非とみるか。
 ベトナム戦争に於ける基地提供と武器弾薬の製造等々の荷担、湾岸戦争に於ける130億ドルもの戦費拠出、日米ガイドライン、国家機密法、検討される自衛隊のPKO派遣からPKF派遣へのエスカレート、アフガン戦争に於ける後方支援、盗聴法、メディア規制法、有事立法、イージス艦派遣、そして対イラクへの攻撃が懸念される現時点での突出した協力の表明……。
 こうした一連の動きをみると、それが、私の言う、日本の「主権と独立」「日本国民と山河」を「自衛」するための避けるに避けられぬ名誉と誇りをかけた武力行使には、到底あてはまらぬと言わざるを得ない。「人間の尊厳」をかけた正当な戦いとは到底認めることはできないと、私は考える。
 「平和憲法」の「絶対平和主義」とは決別した過半の国民が考える「国際貢献」と「同盟国への義務と責任の履行」そして、「テロ撲滅」と「自由と民主主義体制の擁護」という大義名分を掲げているにしては、国民的な十分な論議も経ずして、既成事実を矢継ぎ早に次から次へと重ねていくその戦争準備政策の行き着くところは、決して、国民が善意に考えている「人間の尊厳」に価する名誉と誇りを証すものでもなければ、過去の歴史の過誤を<超克>した平和国家としての日本を証すものでもない。
 北朝鮮問題にしても、当事国の韓国でさえ、不幸にして発生するかもしれぬ米朝戦争に於いては、「中立」の立場を取ることを宣言している。それにも関わらず、日本は、「朝鮮半島は<日本の生命線>なぞと身勝手なことを言い、今からアメリカに完全に同調する姿勢を示している。
 つい先日、アメリカの有力な識者たちが口にしたという「日本の核武装を支持する」との発言は、「自衛」の名のもとに、軍備拡大と戦時体制の確立を急ぐいわゆる「現実主義派」の政治家や有識者たちを喜ばせ、一気に、<徴兵制>や<核武装>などが露骨に口にされる「改憲論」となって現れてくる日もそう遠くではあるまいと、私は考えている。
 「絶対平和主義」の立場に身を置かぬ私の「平和主義」の立場からみても、また善意の多くの国民が容認している実態――まだ現状容認している国民の過半は、戦争と言ってもそれは、日本から離れた場所での後方支援であり、かつ自衛隊員だけの話であり、まさか一般市民も戦地に赴くことを強いられたり、東京が火の海になるかもしれぬ戦争の勃発を直視しているわけではないだろう――からみても、現状は、極めて危険な段階に至っており、ここ1、2年が、日本の平和、国民の生命を守る上で、正念場となってくるだろうと、私は考える。
 実際、私は、美しい言葉を並べ立てられていることとは根本から決定的に異なる現状――参戦と戦時体制の確立に向けての強硬で急速な動き――を、絶対に容認することはできない。戦争と戦時体制の阻止のために、後世に悔いを残さぬ闘いを挑まんと、年も改まった今、志と誓いを新たにしているのである。

 



平和主義論の補記

「改憲」と「戦争容認」の発語の真意

 上記の論考の中で、私は、国家による「戦争容認」と書きました。これは、非武装・無抵抗主義思想を理念とする現平和憲法からみれば、たとえ限定的であろうと、正当防衛であろうと、戦力を有し軍事力を行使する以上、国家間に於ける戦争に他ならないとみなされるであろう(そう私は平和憲法を解釈している)との認識のもとに、殊更事態を矮小化したくないとの思いから敢えて発語したものです。
 同時に、私は最後に以下のようにも書いています。

――――非武装・非暴力・無抵抗主義からなる「絶対平和主義」ならぬ私の「平和主義」が容認する、国家によるまたは民衆による「武力行使・軍事行動」は、かような極めて限定的なものだ。あくまでも、卑劣にして残忍な侵略者に対する「自衛」を目的としたものであり、いたずらに戦火の拡大を求めるものでは、決してないのである。

 その上、この文章の前には、平時に於ける平和憲法を積極的に生かす政策の徹底実施、紛争を最後の最後まで回避する努力の必要なども上げています。

 がしかし、それでもなお、「改憲」「戦争容認」という言葉、その響きがもつ毒々しさは、私の真意を誤解させることがあるようです。
 そこで、「改憲」「戦争容認」そして「専守防衛」「正当防衛」「自衛」という言葉で私が容認している軍事力の行使・武力行使について、具体的に述べておきたいと思います。
 
 結局、私が容認する日本の武力行使とは、例えば、日本に向けられて発射されたミサイルを、それが領土内に着弾する前に迎撃することであり、また例えば、敵国空軍が組織的に侵略してきた場合には、日本領空内から撃退させることであり、敵国海軍が組織的に領海侵犯を行った場合に領海から追い出すこと――といった実態のものです。つまり明らかに戦争を仕掛けてきた場合に、日本領空・領海内に於いて応戦し、国外に退去させることを目的とした戦闘行為を容認するというものです。
 繰り返しますが、私自身の憲法解釈では、戦力の保持を禁止している現平和憲法では、飛んできたミサイルを着弾する前に撃ち落とすことさえできないということですので、その点は憲法を改め、そのような限定的な意味での「専守防衛」「正当防衛」「自衛」による武力行使は認めようというものです。

 その意味で、現平和憲法の肯定的側面――日本が加害者となる危険を徹底的に除去している点――を評価せず、どころか厄介者扱いし、例えば護憲派には反感と敵意と憎悪の感情すら剥き出しにするような「改憲」派とは全く異なるものですし、ミサイルを撃ち込まれたら、その報復攻撃として、相手国にもミサイルを撃ち込むこと、目には目を、歯に歯をといった武力行使も「専守防衛」「正当防衛」「自衛」の範囲内と解釈する国防論とは、決定的に異なるものであることを、ここに改めて、強く申し上げておきたいと存じます。
                                           2004年2月4日(水)


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