むらよし旅日記・其の二十四:ラストツアー〜全都道府県制覇に向けて〜

 六章(最終章) ハイビスカス咲く沖縄の歴史

3月25日〜3月29日 

background: 3/26撮影『瀬良垣ビーチ』

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ラストツアー、いよいよ沖縄へ

 日本は計47の都道府県に分かれている。いつしかその全てを回るということが目標になり、旅を続けて来た。

 県境なんてものは誰かが勝手に引いた机上の線だから、「全都道府県制覇」という言葉に本質的な意味などない。

 しかし、日本のおよその地域を見聞するために、それは大きな、旅の動機になりえた。以前の自分ではとうてい到達できないような、山や海の向こうの世界を巡ることができた。いろいろな景色を見て、様々な人に会い、太陽や雨風を肌に受け、地形を足に感じ、そしてその土地どちを経験として心身に刻み込ませることができた。
 そして今、「将来もし仮にお金持ちにでもなったら飛行機で行くことがあるのかな」程度に考えていた島に、自転車で引いてきた線と、フェリーで引いている点線で向かっている。最終目標“沖縄県”、そこでは一体どんなラストツアーをすることができるのだろう。

3月25日(水)猛暑がお出迎え

 二等船室での宿泊は、堪え難きものであった。今回はたった一人のガキ女がうるさかった。深夜0時を回ってからようやく母親が「あんまりうるさいと海に放り投げてやるから!」と叱り出した。是非そうして欲しいものである。またこの船に乗ることがあれば、せめて二等“寝台”を指定したいものだ。それでも前回の船よりはよく眠れた。
 朝起きると、窓の外にはもう沖縄本島が間近であった。わくわくする。天気予報では、曇りのち晴れの模様。体の疲労と右ヒザ痛が心配なので、本当は一日休んで大事をみたいが、もう残り日程が少ない。そのためにわざわざ夜行便を使った訳である。

 午前9時30分にフェリーは那覇港に入港、そして自転車を漕ぎながら上陸。その瞬間、最後のガッツポーズを決めた。これで長きに渡る全都道府県制覇を達成!

 まあ、とにかく走らなくちゃ。船旅のうちに見事に梅雨前線を越えてしまったのか、夏のようにムシ暑い。これぞ沖縄に来た甲斐があったぞ。
 フェリーターミナルの待合室に寄ってみると、丁度テレビで春の高校野球の開会式をやっていた。テーマ曲は沖縄出身キロロの『長い間』。すでに沖縄かぶれが始まっている私としては「沖縄尚学高校に頑張って欲しいな」なんて考えた。[注:その後の沖縄尚学の快進撃は御存じの通りで、沖縄県勢として初の甲子園優勝を成し遂げた。おめでとう。]
 暑い。早くも夏バテの危機を感じつつ、まずは那覇観光つまり『国際通り』へ。お土産屋が無数にあり、とても回りきれない。商店が超高密度で連続する路地もここ独特のものだろう。沖縄そばやタコスを安く食べることもできた。街行く女の子は、安室顔はあまりいないが知念顔やキロロ顔はゴロゴロしている、なんて。
 首里城への坂で早くも汗だく。城はまさに異国情緒。曲線的な城壁は、本土ではまず見られない。
 ここから島を北へ向かう。国道58号は広くて交通量が多い。キロロの曲を口ずさむのが気分である。「ランラランお花畑に〜」わたしゃ隠れファンらしい。…とにかく“暑い沖縄”を走っているのが嬉しくてたまらない。ヤシ並木もグッド。米軍基地もグッドグッド。戦闘機の爆音が痛快だぞ。ちなみに国道58号は、鹿児島市街から種子島・奄美大島を伝って沖縄本島那覇に至る、海上の国道として有名である。

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丘に立つ座喜味城跡
 読谷村(よみたんそん)に入る。ここが出身のギター・マンドリン部後輩T眞は残念ながら帰省しておらず。スーパーに寄ると、ミミガー(豚の耳)やサーターアンダギー(揚げ団子)といった沖縄独特の食べ物が売っている。しかし買ったのはパスタ。
 座喜味城跡も観光する。今は城壁しか残っていないが、その曲線美はまるでRPGに出てくる街や城みたいで、渋い。遠方には米軍の巨大な通信施設が見える。いわゆる「像のオリ」というやつだろう。こうもあちこちに米軍施設が、住民の安らぎを妨げるように建てられているのは、不気味でもある。
 で、残波岬に到着。崖が海に突き出て、その先端に大きな灯台の風情。ところで「沖縄ではタダキャンプはできない」という説を先輩から聞いていた。「米軍兵が襲ってくる」という噂もあった。う〜む、ちと怖いが、引き下がってられるか。本土でのいつものキャンプと同じように、そこら辺の公園にテントを設営した。ふう、今日も疲れた。
 夕日を見て思い出すのは、北海道の黄金岬やノシャップ岬。太陽が隠れると、まだ青い空をバックに小さな雲たちがオレンジ色に輝く。やがてその輝きは失われ、代わりに灯台の灯が輝く。1.5秒と7.5秒の間隔で照らされる近くのホテルには“ZANPA”の文字もライトアップされている。実際に私が泊まるのは、だいぶ使い古したテントだ。チクショー、いつかあーゆーホテルに泊まってやるぅ!

 ひとりぼっちで灯台の光を眺めていると、ちょっぴり重い何かが胸を抉る。4月からは信州の松本市で、私は曲がりなりにも独立生活することになっている。新時代へのかすかな希望が、今の心の支え…。

3月26日(木)エメラルド海岸紀行

 米軍兵がオカマを掘りに来るなんてことはなく、無事に朝を迎えた。急いで岬の灯台へ駆けつける。日の出には間に合わなかったけど、素晴らしい朝日が昇っていた。ここは夕日も朝日も素晴らしい岬。
 ランは島の西海岸を、真栄田岬、恩納海岸、万座毛、瀬良垣ビーチと結ぶ。左手にはずーっとエメラルド色に光る海。珊瑚の海は晴れている日にこそ美しく輝く。万座毛は観光客が異様に多かったが、侵食された崖は見事だった。
 名護市ではヒンプンガジュマルという熱帯っぽい大木を見た。国道58号をそれ、本部(もとぶ)半島への道へ。採石場が多くダンプが大量にホコリを巻き上げるため、自転車で通るには最悪。

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瀬底島からの夕日
 午後2時には瀬底(せそこ)島に到着した。ここもエメラルドの海。ビーチが無料で解放されており、防砂林の中にはテントも設営できる。長期に渡ってキャンプしているらしいテントも4張りほどあるな。
 私もテントを張り、や〜っと出番の回ってきた海パンにはきかえた。今年初の海水浴だ! まだちょっと冷たい海に、喜び勇んで突入する。中で眼を開けることを拒む気にもならないほど澄んだ海水。泳ぎは下手だが、存分に楽しめた。
 浜には枝珊瑚の白いカケラがいっぱい転がっているのが、南の島らしい。砂浜の上に銀マットを敷き、体を陽に灼くのも一興。ただし腕はすでに灼けてヒリヒリしているので、そこは隠す。他にも海水浴に来ている人々がいる。3月にもう海水浴を楽しめるなんて、本土では考えられない驚異だ。
 ここはまた夕日も美しい。沖に浮かぶ水納島に沈む太陽を、ばっちりカメラに収めることができた。そのまま暗くなってゆく岸辺で、物思いにふける。海の向こうには伊江島のこじんまりとした夜景や、他の島からも灯台の光がそれぞれ違った間隔で届いてくる。月は太陽の鏡として、絶妙に砂浜を照らす。自分の五本の指の影もくっきり。

 確かなのは、今僕がここでこうしているってこと。それだけ。

 今夜は暖かいのでテントにフライシートをかぶせる必要はないだろう。シュラフもいらない。テントの戸を網戸にして仰向けになると、風に揺れる防砂林の向こうに月。これもいい感じ。ただ、何か不安。

3月27日(金)RPGに出てくるようなジャングル

 曇り模様。これ以上晴れられても、腕の日焼けが痛む。朝早々に瀬底島を出て、東へ向かう。あぁ、だるい。しかし旅の終わりは近い、頑張れよ。
 沖縄記念公園はまだ開園時間ではなく、パス。近くの観光地も全部パス。今日は距離を稼がにゃ。名護市羽地でパン補給。雨が降ってきた。ここから北へ向かえば沖縄本島最北端だが、そこまで行く動機や余裕がない。島を横断すべく、山道に入る。
 非常に平坦な地形の沖縄本島にあって、山道は珍しい。といっても大した山ではない。雨が本格化する前に山を越えるつもりだったが、登ってる途中でついにきた、スコールだ! 梅雨前線が南下して来たのだろうか。多野岳山頂にあたる休暇施設に避難した。
 しばらくは霧も深く、どうにもならないでじっとする。寒くもなってきた。やがて雨が止んだので山頂の三角点に立ってみる。まだ何も見えない。ここでの眺望はあきらめ、山を下りる道へ。

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やんばるダート
 少し下ると霧は晴れて、ダート道に進入する頃には空まで晴れてきた。地面は石灰質なのか白っぽい。あたりは一面ジャングルの木々、花々で、まさに山原(やんばる)の森の中。ダート道を選択して本当に良かった。里に下りる頃には、ホクホクの満足感でいっぱいだった。
 今度は東海岸の国道329号をゆっくり南下。キャンプシュワーブ辺りでは米軍兵たちが自動車やMTBを乗り回している。“キャンプ”とは言ってもキャンプ場があるわけでなく、軍事施設なのだ。
 天候はまた大粒の雨が降ったり、曇ったり、晴れたりと目まぐるしい。その度にカッパや日除けシャツなどくるくる着る物が替わる。沖縄は雨も日射しもやさしくない。途中、缶入りのゴーヤー茶を飲む。あまりニガ瓜の味はしなかった。
 かくして石川市に到着。どっかよさげな公園はないかしらと思っていたら、市役所前に石川公園という素晴らしい公園を発見。素晴らしすぎてホームレスの方々も多いのが難だが。私も公園の片隅にテントを張らせて頂く。
 そういえば昨日、那覇では3月史上最高の摂氏28度台を記録したらしい。絶好のタイミングで沖縄に上陸したものだ。おかげで肌は真っ黒けっけ。暖かいせいか、懸念の右ヒザ痛はだいぶ和らいでいる。でも疲れが限界に近いことに変わりはない。今夜もよく眠れそうだ。

 日記は貴重な暇つぶしでもある。今日までのことや、明日の予定についてもいろいろ葛藤する。こうやっていろいろ考えているのだから、脳みそ退化しないよね、きっと。

3月28日(土)沖縄のこころ

 今日も国道329号のゆるやかなアップダウン。曇り空の下、TシャツでOK。国道を内陸側にそれて坂を登ると、名所・中村家がある。この響きに弱いんだ。中を見学して、居間であぐらをかく。
 続いて中城(なかぐすく)城跡。城壁が所々崩れてはいるが、琉球一壮大な曲線美は健在である。城壁の上に立ってみると、太平洋側がよく見渡せる。東シナ海側も、何となく見える。
 しかし私の興味を引いたのは、中城城の南側にたつ、もうひとつの巨大な城だった。米軍が建設したっぽい、あやしすぎる廃虚。はるか向こうにある展望塔まで続いている。人の気配はなく、落書きのペイントだらけである。あまりにも恐ろしいので、とても中を探検する気にはなれなかった。一体なんなのだろう…。
 国道に復帰し、さらに南へ。道脇には時々墓も見かける。沖縄の墓はみんなデカい。何と言うか、のっぺりとした石製の霊柩車、という形容で伝わるだろうか。また、家屋の壁の足下にはよく「石敢當」という文字が彫り込まれている。街にはマンガ喫茶が多い。ガソリンが妙に安い。コンビニはローソンとファミリーマートとホットスパーが三強である。などなど、独特な文化が次々と眼に入る。
 やがて晴れてきた。島の南部を回る国道331号に乗る。知念岬は人気はないが、珊瑚礁や小島を見下ろせる絶景で、穴場だと思った。この先、海岸段丘上のやや高いところに道路は延びる。

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ひめゆりの塔(右端)
 島の南端部は、太平洋戦争末期の激戦地にあたる。平和祈念公園に整然と並ぶ『平和の礎』には、沖縄決戦の犠牲になった人々の名が、出身集落ごとに書き連ねてある。これほど多くの非戦闘員が悲惨な最期を遂げたと思うと、人類が本能的に好む戦争と言うものはしかし、取り返しのつかない過ちとなるのだ、と深く考え直さざるをえない。
 『ひめゆりの塔』は、洞窟の穴の前に小さく立っていた。映画で聞いた

出テキナサイ。出テコナイト、バクハシマス!

の宣告が、鮮烈に脳裏に蘇ってきた。身震いする程に、歴史の悲劇の重さを感じた。多くの女学生が、苦しみの洞窟戦の果てに戦死した、その象徴である。
 そこを、右翼の宣伝カーが大音量で「君が代」をかけて通り過ぎて行った。ひめゆりの塔の資料館を出てきた人々の神経を逆撫でしてるのではと、心配になった。
 パンク修理などしていたら、日が暮れてきてしまった。急ぎ、糸満市街へ。ところで沖縄に来て以来、ほとんどチャリダーを見かけない。全国一千万の(?)サイクリスト達はこの時期いったいどこをうろついているというのだろう。九州で足止めを食らっているのか、はたまた沖縄本島よりさらに南西の八重山諸島まで飛んでしまっているのだろうか。
 そんな事を考えながら走っていると、私と同じスタイル(前輪にサイドバッグ)のランドナーにすれ違った。ようやくだ。でも手挨拶だけ。お互い設営地を探して急いでいるので、ゆっくり話している場合ではないといったところだ。ここ沖縄では「出会いの旅」にはなりそうもない。
 街の人に銭湯の場所を教えてもらい、沖縄ツーリングでの疲れを落とす。キャンプは糸満小学校にひっそりと設営した。定番のレトルトカレー夕食の後、買って来た泡盛という酒の栓を開ける。

 これが学生時代最終のキャンプ。感無量。独り言で乾杯の音頭をとり、泡盛をあおる。キツーイ! 過ぎ去りし旅の日々よ、さようなら。

3月29日(土)このしまへの道程

 昨夜は120mlだけ泡盛を飲んだ。しかし摂取したアルコールの量は私としては尋常でない。寝付く時はかなり大変だった気がする。そして、良く寝たような寝てないような、朝5時半には起きて眼が冴えてしまった。
 無事なんのおとがめもなく撤収し、ゆっくりとラストランに出る。曇り空はまだ早朝の暗さを残している。Beginの『失われたワルツ』という曲が、憂鬱な終末の気分に、よく似合うよ。
 再び那覇の国際通りに来た。これでまぁ、一回りしたな。まだお土産屋の開店する時刻ではないので、ドトールで時間を潰す。なにも沖縄に来てまでドトらんでも。ともかく旅の回想でもする。

 沖縄は人口密度が高い。自動車が多い。かつて鳥取県を縦走した時とは、えらい印象の違いだ。地形が平坦なのは助かる。奄美大島ではずいぶんひどい目に会ったからなー。旅の間、世の中の動きがどうなっているのかは関わりのないこと。しかし、どこの商店にいっても『地域振興券取扱店』の大きな張り紙がしてあるのは、正直うんざりするところだ。限られた日程で、これまで一日も休みらしい日を作ることが出来なかった。だから馬車馬のごとく駆けずり回ったなぁ。旅の本質って何だろう、私に追求できるだろうか。そのためには自転車旅行だけではだめだ。今、こんなに日本の果てにいるのに、今日の夕方にはつくばに戻っている。飛行機とは恐ろしい乗り物よ。向こうはまだ寒いんだろうなあ。帰ったら、早く引越しの手筈を整えなくちゃ。みんなは元気にしているだろうか。……。

 ようやくお土産屋の開く時間になった。下見は4日前にしてあったので、家族やお世話になった人への土産を手早く買い揃えることができた。空港への道は、いよいよ本当にラストランの最期になった。

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沖縄を離陸
 那覇空港に到着。自転車におつかれさまを言って、分解、輪行袋に詰め込む。飛行機なんてのは生まれて初めてだが、本当にあのでっかい鉄のカタマリが空を飛ぶのだろうか。そんな心配をよそに、ANA84便は滑走路を猛加速、あっけなく空に舞い上がった。私が旅をしてきた島と海は、すぐに雲の中へ消えた。
 初フライトでよく勝手が分からなくて、間違えてスッチーを呼ぶボタンを押してしまったのはここだけの話。窓の外には、下方はひたすら続く白い雲、上方は見たこともないほど透き通ったみずいろ。これが旅のフィナーレを飾る景観なのか。
 飛行機は、私がこれまでかけてきた日々とは比較にならない短時間で、東京の羽田空港に着陸した。その現実をすぐには信じる気になれなかった。己の道程を否定された気になったからだ。いや、ちがう。日本を自転車で駆け巡った経験は、何よりも確かに自分の血肉になっているのだ。たとえそれが飛行機から見下ろせば豆粒のようなものでも、地球の上を自分のペースで這いつくばる方が、圧倒的に充実感を得ることができよう。
 モノレール、JRと乗り継ぐと、見慣れた筑波山が私の帰りを出迎えてくれた。荒川沖駅からは友人H瀬の自動車を召喚して、つくばの帰るべきアパートに戻る。たくさんのお土産話を携えて。

 旅はここで始まり、そしてここで終わった。今その全てが、終わった。

 こうして全都道府県「自転車でつなげて」制覇の旅は、47番目の沖縄県の旅を以て完了した。寒さに震えた若狭湾岸での前ラン、とにかく楽しくて走り甲斐もあった四国での合宿。再び単騎になった後ランでは、とかく急ぎ足になってしまったけれども、南九州や奄美、沖縄の気候や文化をその分急ぎ足で吸収することができた。絶対忘れることの出来ない体験や思い出である。最後の旅になると判っていたから、どんなに疲れていても一生懸命になれた。だからこれまでのツーリングで一番充実した日々を送ることができたんだと、確信する。
 ようやくつくばに帰ってからも、ほとんどゆっくりは出来なかった。引越しの手筈を整えて、帰宅3日後には四年間住み慣れたつくばの地を去ったのである。学生であることを辞め、いわゆるフリーターへの道を選んだ。「フリーター」という甘美な響きとは裏腹に、現実は一人暮らしを維持できるかどうか解らないぐらい、厳しそうである。それでも私は、つくばを中心とした日々の経験を胸に秘め、春まだ浅い信濃路へ、松本市へ引っ越した。

 第二の人生は、今、始まれり。(って大袈裟なんだよ)


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