Yukarin Network: Kaneko Yukari's Official Home Page |
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The Truth about Kaneko Yukari |
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目次 Contents The
English part is a summary.
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「金子ゆかり物語」につい て | On Yukarin Story | |||||||||||||||||||||||||||
誕生から高校時代まで | From Cradle to High School Days | |||||||||||||||||||||||||||
大学時代から諏訪に戻るまで | From University days to Her Return to Hometown Suwa | |||||||||||||||||||||||||||
諏訪に戻ってから今まで | Living in Suwa and Now | |||||||||||||||||||||||||||
「金子ゆかり物語」 |
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この「金子ゆかり物語」は、本人および関係者の証 言と記憶をもとに編集部が作成しました。一部、本人の記憶と相違する点もあるようで すので、本文右にコメント欄を設けました。あわせてご参照ください。 | ||||||||||||||||||||||||||||
Yukarin Story |
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This Yukarin Story was written by the Editorial Office of Yukarin Network based on the interviews as well as memories of Ms. Kaneko Yukari and others. As there are some contradicting points, we set up a column for her and others' comments. Feb. 12, 1999 | ||||||||||||||||||||||||||||
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誕生から高校時代まで | From Cradle to High School Days | |||||||||||||||||||||||||||
☆昭和33年8月28日 28 August 1958 諏訪市にて父金子松樹、母しづ子の2女として生まれる。超〜安産。母が「あら」 と言ううちに大声で泣き出す。その声は分娩室を超えて、廊下に響くという病院開業以
来の声(というもっぱらの噂)。母親の手に渡される以前から、助産婦さんの手の中で 大暴れ。初めて言葉を喋ったときには、「ゆかちゃん」との問いかけに「いい子ね」と
答える。「だから今でもいい子です」とは本人の弁。 |
本人「生まれたときのことは、事実無根?」 母(天国から)「ゆかりは本当に手の掛かる子で……。でもいい子ねと答えたのは 本当です」 |
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☆昭和40年4月 April 1965 両親、姉みすずの暖かい家庭ですくすく育つ。あちこち走り回って、家族に心配 をかけるが、住まいを別にしていた祖父母をしばしば訪れて喜ばせる。誰にも教えられ
ないのに、いつの間にか新聞記事を読んでるのに母は戸惑うが、以後、金子家では全国 紙と県民紙、地元紙を購入する。この年、諏訪市立城南小学校入学。クラスの人気者に
なる。 |
本人「新聞は読んでいたのではなく、見ていたのです」 Yukarin: I did not read the newspaper but just watched it. |
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☆昭和49年3月〜 from March 1974 上諏訪中学校入学。元気で人気者のキャラクターは失わず、成績優秀が新しいキ ャラクターに加わる。国語、数学から、音楽、体育まで、すべて通知票に5(5段階で
す。10段階ではありません、念のため)の成績で卒業という噂。この頃から「古典落 語」を読み始める。こんにちの親父ギャグの起源と思われる。 |
本人「オール5ではありません。でも成績はそんなに悪くなかったけど。落語では現在、古今亭志ん朝さんのファンです」 Yukarin: That my grades were straight As is not true, although the grades were not so bad. I am now a fan of Rakugoka(a comic storyteller) Mr. Kokonntei-shincho. |
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☆昭和49年4月 April 1974 長野県立諏訪二葉高等学校首席(あるいは末席)入学。「おもしろい子が入って 来た」と職員室で話題になった(らしい)。たまたま図書室で読んだマキャベリ「君主
論」に心を打たれる(実は漫画「ベルサイユの薔薇」だったという噂もある)。飾り気 のない人気者でありながら、秘かに政治学書を読み始める。 |
本人「似たようなことはありました。漫画では『ドカベン』『こちら
亀有公園前派出所』の系統も好きでした」 Yukarin: This seems to be somewhat true. My favorite comics were Dokaben and Kochikame. |
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☆昭和52年3月 March, 1977 3月、二葉高等学校を卒業。「桜の花園の春は蝉の館の夏と化し、もみじの錦の 秋は綿帽子の冬となり、雪解けの坂道を登るのも今日が最後となりました」と始まり
「魂の永久のふるさと、学びの舎のその名は二葉」で締めくくる卒業生代表のことばを 述べる。 この頃、文学的センスに気がついた国語教師から、某国立大学の推薦を打診され る。慶應大学で政治学を学びたいと思っていたゆかりちゃんであるが、模試はいま一歩
。模試の結果を見ながら「あしたは……大学の推薦をしてもらおう」と思いながら、床 につく。 ふと、目が覚めると、お隣の田んぼに無数の黄金の蛇がとぐろをまいている。そ の輝きを見た時「これで慶應は大丈夫」と確信する。(これ、夢だったんですよね〜〜
)ところが、ゆかりちゃんは、翌日「慶應で政治学を学びます」と担任に告げる。4月 、見事に、慶應大学法学部政治学科入学。桜の舞い散る日吉の坂を駆け上がる。 |
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大学時代から諏訪に戻るまで | From University days to Her Return to Hometown Suwa | |||||||||||||||||||||||||||
☆昭和52年4月より昭和56年3月 from April 1977 to March 81 大学に来ないことが当たり前の、当時の政治学科において、こつこつと通学。天 真爛漫な人柄は多くの学生に愛され、こつこつ作られたノートは「金子ノート」として
試験期間、コピーが出回る。誰隔てなく、ニコニコと貸していた。スポーツキャスター の青島健太くんも貸してもらったひとり。青島くんが「君の名は?」と尋ねたことは
「新・君の名は」として慶應で有名な話となる。 政治学科では、生田正輝教授のもと、マスコミ論を専攻。同じく政治思想の多田 真鋤教授からも薫陶を受ける。 クラブ活動として三田文学塾生会に入部。クラブは、わがままなメンバーばかり。 何とかクラブを存続できたのはゆかりちゃんのおかげと、みんなひねくれ者なので口に
はださないが、深く感謝していた。ほかに慶応ソフィアテニスクラブに所属し、テニス を楽しむ。 |
本人「私のノートは人気薄でした」 友人A「青島さんの君の名は事件は本当です。青島さん、覚えているかな」
友人B「三田文学塾生会は、部員の半分が留年。3割は中退という悲惨なクラブで した」 |
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☆昭和56年 1981 慶應大学卒業。服部セイコー入社。営業部門、企画部門、輸出入部門、役員秘書、 開発部門など、あいかわらずの明るい人柄、抜群の事務能力で会社に貢献する。仕事に
必要なこともあって、多忙な中、英会話に磨きをかける。また銀座界隈の美味しい店開 拓に力を入れる。 |
本人「いそがしいけど、やりがいのある仕事でした。楽しいOLライ
フでした」 Yukarin: I was truly busy but the work was very challenging. I had a very good time as a office worker. |
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☆昭和58年 1983 便所壺事件発生。新婚の友人を尋ねて九州に。佐賀県有田(陶器で有名)を友人 夫婦とともに訪れる。「ちょっとトイレ」と行ったきり、帰ってこない。心配した友人
夫婦が見たものは! くみ取り式便所に落とした財布をひろいあげ、そこのおじさんと 小銭を洗っていた姿!!もちろん財布もきれいに洗っていました。「彼女、うんがつい
たわ」と友人夫妻。 |
本人「絶対にうそと思ったけど、そういえば……。ともかくあの 時、ウンを洗い落とさなければ、今ごろは……」 友人A「私は目撃した」 友人B「金子ゆかり史上最大のミステリー」 |
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諏訪に戻ってから今まで | Living in Suwa and Now | |||||||||||||||||||||||||||
☆平成6年 1994 母が重病の宣告をうけ、看病のため、セイコー社の慰留を断り、帰郷。諏訪から 東京まで母を救急車で運び手術させるも間もなく逝去。しばらく泣いて過ごすも「庭に
もずが来て、おかあさんが帰ってきたのよ」と元気になる。毎日、墓参りをかかさず、 まわりの墓も掃除をしていた。県会議員をしていた父、金子松樹の秘書を本格的に始め
る。この頃から、地域活動に積極的に参加する。 |
友人B「私の伯父のお墓の掃除もしていただきました。ありがとうご
ざいます」 Friend B: Thank Yukarin for cleaning up my uncle's grave too. |
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☆平成8年 1996 アルペン男子ワールドカップ白馬大会にてアメリカチーム通訳ボランティアとし て活躍。また、長野県「信州青年洋上セミナー」の研修部長として中国・韓国を訪問。
アジアとの繋がりの大切さ、国際社会の重要さを知る。 |
友人B「ベトちゃんドクちゃんの支援活動をするなど、昔から国際ボ
ランティア活動をしていましたね」 Friend B: She has very actively engaged in international volunteer services since many years ago. |
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☆平成9年 1997 長野冬季オリンピック開催にむけて、諏訪市国際交流協会理事に就任。学生時代 からの諸外国の訪問に続き、一層の外国訪問をする。こうした経験と鍛えた語学力で理
事の任務を遂行。「頼られると断れない」性格ゆえに多忙な日々をおくる。同時に、こ れも断れずに諏訪地区のさまざまな問題について相談を持ちかけられる。働くお母さん
の問題、お年寄りの介護問題、地域活性の問題……などなど。ゆかりちゃん、一生懸命 に考え、行動する。 |
友人A「頼られるといきに感じるタイプです」 Friend A: When someone relies on her, she always does her best for that person. |
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☆平成10年 1998 長野冬季オリンピック、アメリカ選手団付き通訳ボランティアをする。選手村と 親戚宅に泊まり込みの日々が続く。裏方の激務は携帯電話が通じないほど。国民性の違
いを語学と笑顔で乗り切って、感激のフィナーレ。また、姉妹都市セント・ルイス市長 夫妻やNHKの外国人記者の「御柱祭」案内兼通訳をする。長野ボランティアについて
は大会前に長野日報にエッセイを連載し好評をえる。 |
本人「トラブルの連続でした。本当に良い経験をしました」 友人C「オリンピックのテレビを見ていたら、金子さんがちらっと映ったよ」 |
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☆平成10年 1998 ようやく諏訪に帰ると(社)諏訪青年会議所理事に就任。「まちづくり委員会委 員長」になる。「ぼくらまちの環境探偵団」のイベントを打って、御柱祭にあわせ、ゴ
ミ問題を考える「ゴミ柱」を曳行する。男と女、子どもと大人、障害者と介護者を平等 な立場として、教育、環境、福祉、文化と活動のジャンルを問わず皆で手をとりあって
大きな力にしようという「共生ネットワーク」を提唱。多くの市民団体に賛同される。 |
本人「皆さん、お世話になりました。これからもよろしくお願いいた
します」 Yukarin: Thank you for your support. I hope you will be a great help of me in future. |
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☆平成11年1月11日 11 January 1999 11.1.11という縁起の良い日に「金子ゆかり三田会ファンクラブ」設立。会長 に生田正輝名誉教授。ゆかりちゃんにお世話になった人、迷惑をかけた人、秘かに振ら
れた人などなどで後方応援をすることを確約。 |
本人「お世話になります」 Yukarin: Thank you for your support. |
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無断転載不可。 |
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