八木誠一 * プロフィール

私の仕事について

人生の旅も終わりに近くなって、ようやく自分の仕事の全体像が描けるようになりました。

それには

(1) 新約聖書は何を語っているか、

(2) それを現代人に通じるように言い表わしたらどうなるか、

(3) 新約聖書が示すあり方に到達するにはどうしたらよいか、

という三つの中心があります。簡単にコメントすると、

(1) キリスト教の教義は神の言葉である新約聖書の証言に基づいているとされていますが、実は新約聖書の一部一面を代表しているに過ぎず、しかも重要な点を逸しています。新約聖書には「神の民」形成の歴史に神のはたらきを見る神学と、個人のあり方の根底に神のはたらきを自覚する神学とがあり、両者の言語表現には不一致があるのに、伝統的キリスト教は前者を中心として、それを「法的・客観的」に述べているので、とかく「神話」的となり、個人の信仰的「自覚」という重要な点がおろそかになる。実は、両者の一致点は、「私のうちに生きるキリスト」といわれる「はたらきの自覚」にある、両者の源流はイエスの宗教にあります。つまり、「私のうちに生きるキリスト」とは、実は「私たちのなかに働く神」のことで、イエスの言行に表現されています。これは仏教にも通じる、人類に普遍的な現実です。しかるに原始キリスト教は、それを「十字架につけられて死んだイエスが復活して信徒のなかではたらいているもの」と解釈した。

(2) では「われわれのなかではたらく神」(いわゆる「うちなるキリスト」のはたらき)とは何かといえば、それはパウロが「キリストのからだ」と呼んだ教会形成にヒントがあり、客観的・主体的に確認可能な「統合作用」として、宗教哲学的に一般化できます。これは自我よりも深く、自我を正常に動かすはたらきです。しかし情報を操作する「近代人」は「単なる自我」となって、自我を方向付ける深みを忘却した結果、自我が制御不可能となり、人類が破滅に瀕する結果になっています。

(3) それでは「統合」を実現するためにはどうしたらよいか。それにはまず言葉で言表された知識やイメージが現実そのものとして通用している基本的誤謬に気付き、そこから自由になること、すなわち禅宗が「不立文字」といい、パウロが「律法の文字からの解放」といった事柄を実際に経験すること、そこで現れた「うちなるキリスト」(仏教徒は仏心というふうに語る)に身をゆだねて我執を滅ぼすことが肝心です。省察と信(我執をすてて統合作用に身をゆだねる信)と瞑想が求められる所以です。

 

なお、(1),(2),(3)の全体を通じて「仏教との対話」がかかわっていますが、その結論を簡単にまとめると、

(1)について、浄土教と近いのは個人のあり方の根底に神のはたらきを自覚する神学(ヨハネ型)であり、神の民の形成にかかわる神学(救済史型。律法・贖罪が中心で、パウロには両型が結合している)ではない。

(2)「統合論」には大乗仏教の縁起論との接点が明瞭に見られる。ただしキリスト教の場合、信徒は「統合体の」一員であるという自覚が強く、仏教の場合は統合体の「一員」であるという自覚、すなわち、私の用語では、「極」性(縁起、相互を前提しあう関係性)の自覚が明瞭である。

(3)については「信」は浄土教と比較可能、禅的な「覚」、特に「不立文字」は、イエスの言行によくあらわれています。関連拙著を挙げておきます。『仏教とキリスト教の接点』 (法蔵館 1975)、『パウロ・親鸞※イエス・禅』 (法蔵館 2000)。

 

以上のようにして批判的考察を進めれば、キリスト教と仏教と哲学という、従来別物とされてきたものが、実は一つ根底的現実の三つの面を現わすことも明らかになるでしょう。

さて AI は、情報処理にかけては人間の自我をはるかに凌駕していますが、上記の「自覚」は AI には原理的に代行不可能な領域です。自覚は、現代人が AI を欲望的自我の道具にして文明を未曽有の高さに発展させながら他方では人間的文化を貧困化させてゆく現代的状況に対抗するてだてになるでしょう。

 

以上の諸点につき、興味のある方はまず以下の拙書をご覧いただければ幸いです。

『はたらく神の神学』 (岩波書店 2002)

『イエスの宗教』 (岩波書店 2009)

『創造的空への道』 (ぷねうま舎 2018)

八木誠一 * 略歴

--学歴--
  • 1932:横浜生れ
  • 1955:東京大学教養学部教養学科ドイツ科卒

    (卒論はキエルケゴール解釈)

  • 1962:東京大学大学院西洋古典学科博士課程修了

    (原始キリスト教学専攻)

    この間ドイツ・ゲッチンゲン大学神学部に政府派遣留学生として留学[1957-59]

    それまで無教会の意味での正統的キリスト教信徒だったが、新約聖書の歴史学的・批判的研究を全面的に受け入れ、さらにブルトマンが提唱した非神話化を基本的に肯定するようになる。私の研究は自分ではブルトマンの継承と展開だと思っている。

--学位--
--専攻分野--

新約聖書学,比較思想,宗教哲学

新約聖書思想研究から出発し、仏教との対話を媒介として、キリスト教と仏教との交点に立って宗教の本質を探り、両者の根本にある経験とその言語化の仕方を明確化してきた(「著作内容紹介」参照)。

現在の関心は、私の言葉で言えば、仏教とキリスト教に共通する超越理解を「場所論」として統一的に叙述し、宗教哲学研究と新約聖書思想の構造分析に適用することである。

場所論とは、超越は個物がそこに置かれている「場」であり、個は超越の働を宿す「場所」である、このような個は統合体(*「私の基本思想」参照)と形成すると解する哲学的学である。

新約聖書には人格主義的神理解と並んで、明らかに場所論的神学があるが、ローマ中心の西欧キリスト教では、人格主義的神理解が優越して場所論的神理解が後退した。しかし正義と愛をもって歴史を導き個人のために配慮する人格神への信頼が失われてゆく現代では場所論が回復されなければならない。

--職歴--
  • 1960-1964:関東学院大学神学部専任講師
  • 1964-1965:同助教授

    (新約学を講じたが『新約思想の成立』(著書紹介参照)を書いたので、教室では神学の内容に触れない科目(語学や新約通論など)を教えさせられることになり、同じ語学なら国立大学の方がましと転職を決意。)

  • 1965-1975:東京工業大学工学部助教授
  • 1975-1988:同教授

    (この間スイス・ベルン大学神学部客員教授[1985],(「仏教とキリスト教」にかかわる講義とゼミ担当。)

  • 1988-2000:桐蔭横浜大学工学部教授(哲学・倫理学・宗教学担当。)

    (東京工業大学をやめ新設の桐蔭横浜大学に移る。東京工業大学のほうは名誉教授[1988]、この間ドイツ・ハンブルク大学神学部客員教授[1990-1992](「仏教とキリスト教」にかかわる講義とゼミ担当。)

  • 2000.3月:桐蔭横浜大学定年退職。
  • 2000.4月:同大学客員教授に再雇用される。

    (この間、わが国で非常勤講師を勤めた大学は、ICU,立教大学,四国学院大学等の私立大学、東京大学,千葉大学等の国立大学など、十校あまりになるが、そのなかに神学部、神学科は一つもない。)

--学会・社会活動--
  • 〈学会〉
  • 〈社会活動〉
    • 桐蔭生涯学習センターにて「現代と宗教」「イエスと現代」のクラス担当(-2018)

      (事務局・・tel:045-978-5701/E-mail:ikc@cc.toin.ac.jp)
      ※詳しくは「活動の近況」ページで

    • 「省察と瞑想の会」(有志立ち上げ。“創造的 空”への道を八木誠一とともに歩む会)講師担当(2019-)

      (内容・活動報告は official BLOG にて)
      ※詳しくは「活動の近況」ページで

  • その他、内外における研究発表、講演多数。

--著書--
  • 『新約思想の成立』(新教出版社/1963)
  • 『イエス』(清水書院/1968)
  • 『仏教のとキリスト教の接点』(法蔵館/1975)
  • 『パウロ』(清水書院/1980)
  • 『覚の宗教』(久松真一との対話―法蔵館/1980)
  • 『パウロ・親鸞*イエス・禅』(法蔵館/1983)
  • 『ダンマが露になるとき』(秋月龍珉との対話―青土社/1990)
  • 『宗教と言語・宗教の言語』(日本キリスト教団出版局/1995)
  • 『無心と神の国』(秋月龍珉との対話―青土社/1996)
  • 『宗教とはなにか』(法蔵館/1998)
  • 『新約思想の構造』(岩波書店/2002)
  • 『はたらく神の神学』(岩波書店/2002)
  • 『場所論としての宗教哲学』(法蔵館/2006)
  • 『イエスの宗教』(岩波書店/2009)
  • 『創造的空への道』(ぷねうま舎/2018)
  • など

    ――内容等、詳しくは主要著書リストにて――