基本思想─統合作用の自覚と表現としての宗教、コミュニカントとしての人格

【その3:統合作用の自覚と表現としての宗教、コミュニカントとしての人格】

統合作用の自覚と表現としての宗教、コミュニカントとしての人格

宗教が神(超越)の働きと呼んできたものは、結局のところ、統合作用である。物質を生命へ、生命を人格へ、人格を人格共同体へと統合する作用である。万物を貫いてこの統合作用がある(ロゴス、ダルマ)。しかしこの統合形成は必然でも強制でもない。人格としての人間の場合、統合作用は、それを自覚的に実現する人間を通してしか働かない。パウロは、自分の伝道について、それはキリストがパウロを通して遂行したことだという(ローマ15:18)。伝道は「キリスト」(超越的統合力)だけでは遂行されない。統合は、その作用をみずからの身体-人格のうちに見出だし、それを自覚的に表出する人格を通してなされるのである。愛は神から出る、愛する者は神を知る(・ヨハネ4:7)と言われる通りである。実際に愛することによって愛の共同体が形成される。愛は深い意味で人性の自然だが(統合作用によることは自然である)、必然ではない。この意味で統合された共同体形成は人間の責任だといえる面がある。換言すれば統合論(場所論)には神義論(神がいるのになぜ悪や不幸があるか)の余地がない。

個は統合作用の「場」のなかに置かれている。他方、個は統合作用がそこに宿り働く場所である。統合は場のなかで実現する。 統合とは「場所論」の主題である。個とは、人間の場合、身体-人格である。

身体は超越と個の作用的一である。その中心を「自己」と呼ぶ。自己は-おそらくは自我が成立して以来-意識から隠れてしまった。その結果、自我は単なる自我となり、エゴイズムの座となった。しかし、自己が自我に対して、また自我のなかに、現れる出来事があり、このとき自我は自己の働きを表出するから、人間は単なる自我ではなく「自己・自我」となって身体-人格の本質(統合形成作用)を自覚的に現実化する。仏教はその統合作用の自覚を「悟り」と称し、キリスト教は「キリストが私のなかに生きている」と表現した。宗教的自覚とは、もともと「自己-自我」であるべき人間が、実際に「自己-自我」となり、それを自覚しつつ、統合作用の実現者となることである。そして統合作用の現実性はあらゆるレベルでの-自然界にも及ぶ-コミュニケ-ションである。類比と提供するなら、身体が船体なら、自己は船長、自我は舵手である。船長は船内で船会社を代表する(超越の比喩)。