宗教とは何か-宗教と言語・宗教論/宗教哲学

【主体;超越-内在/宗教的生】

覚の宗教

久松真一との対話。滝沢克己が直接経験を認めないので、それをめぐって久松と対話したもの。この際、久松の「私」(無相の自己)がイエスの「私」と等価であることに気付き、宗教的に生きる「自分」を「自己・自我」として明確化する始まりとなった。

人間をただ自我(エゴ)としてとらえたのでは宗教は理解されない。身体は超越の働との作用的一(実体的一ではない)であり、自己はそれを自我に媒介する、自我の真の主体である(※「私の基本思想」参照)。

ダンマが露になるとき

キリスト教から禅に入った禅者秋月老師と私は仏教とキリスト教をめぐる対話を行ない、数冊の本を刊行してきた。本書は『無心と神の国』とともに、最も重要な対話であると思う。

ダンマとは要するに存在、生、人格を担う超越的・内在的な働きのこと。これは自我に覆われているが、それを破って露わとなることがある。それが仏教では悟りといわれ、キリスト教が「キリストが私のちに現われた」と表現したことである。

ダンマが露わになったとき、本来「超個の個」(「自己・自我」、・「私の基本思想」参照)である人間が自分を「超個の個」(自己・自我)と自覚して、宗教的生が成立する。

この対話で秋月老師と私は、「超個」と「自己」(これは新約聖書が「わがうちに生きるキリスト」と呼んだものである)が一致することに同意した。

無心と神の国

久松真一との対話。滝沢克己が直接経験を認めないので、それをめぐって久松と対話したもの。この際、久松の「私」(無相の自己)がイエスの「私」と等価であることに気付き、宗教的に生きる「自分」を「自己・自我」として明確化する始まりとなった。

人間をただ自我(エゴ)としてとらえたのでは宗教は理解されない。身体は超越の働との作用的一(実体的一ではない)であり、自己はそれを自我に媒介する、自我の真の主体である(※「私の基本思想」参照)。

【宗教と言語/自我と言語】

宗教と言語・宗教の言語

「宗教と言語」の部分は、言語が断たれる直接経験を踏まえなければ宗教は理解されないと説く。言語化された世界(通念が支配する世界)は文字通り「仮想現実」だからである。

「宗教の言語」の部分では、キリスト教においては神も、神がキリストをこの世に派遣したことも、イエスの復活も、イエスの世界支配と終末の到来も、すべて「客観的事実」とされ、それを受け入れるのが信仰とされている状況にかんがみ、また二十世紀の人文科学の一中心が言語論であることにかんがみ、新約聖書の言語は全体として客観的事実を叙述する記述言語ではなく、宗教的自覚を投影し表出する表現言語であることを明らかにしようとした。

聖書は客観的事実の叙述であると主張するのは無理で、これでは世の信用を失うだけで、それを世の不信仰とばかり非難してはいられない。他方、表現言語として理解すれば、新約聖書は自我と通念が神になった現代に欠け、現代にこそ必要な真理を語り伝えるものである。 しかし本書は伝統的キリスト教界にははなはだ都合が悪いに違いない。

宗教とはなにか

宗教論。

  1. 第一章は現代哲学を概観して、現代哲学の問題が自我と言語にあることを指摘。
  2. 第二章は倫理学の観点から自我が現代倫理の問題であることを指摘。
  3. 第三章以下で、宗教に自我の問題の解決があることを示唆する。
  4. 第三章は宗教一般について論じ、世俗化と自然科学の発達によって消滅する宗教があること、他方、それによって消滅することのない宗教があることを論じ、この宗教の特質を語る。
  5. 第四章は宗教言語の性質を明らかにして宗教に対する誤解を防ぎ、
  6. 第五章では全体をイエスの宗教からまとめる。

著者の説明が行き届かなかったため、読者には全体の構成が解りにくい点があるようで、申し訳ないことである。

場所論としての宗教哲学

(法蔵館 2006年)

前述の諸型の根本にあり、これを内的に支える宗教的現実――新約聖書が神、キリスト、聖霊を呼ぶもの――を、仏教との対話を媒介して語る、宗教哲学の試みである。西田哲学では「ある」とは「場所に於いてある」ことだが、この書の場合には「神と人の相互内在」の理論化が主題である。神は、人と世界の「なか」ではたらく神である(ピリ二章13節および1コリ十二章6節など)。したがって、はたらく神の作用圏としての「場」と、神のはたらきが現実化する「場所」とが区別される。つまり、人間と世界とは「神のはたらきの場」のなかに置かれ、神のはたらきがそこにおいて現実化する「場所」である。

主要語――自己・自我、宗教言語、直接経験(主-客、汝と我、自己-自我)。哲学である以上、認識、論理、言語の検討がなされ、こうして神(キリスト、聖霊)と信徒との相互内在、またそのような信徒の相互行為(「キリストのからだ」としての教会形成に向かう「統合作用」)における作用的一が明確化される。他方、表現言語の世界を欠いたまま記述言語・動能言語と結合する「単なる自我」の問題性が指摘される。宗教を含めた人間の営為が、「単なる自我」の営為となるのが決定的誤謬なのである。以上の立場から、禅(この場合、曹洞禅)との対話が実行される。

この書は、言い換えれば私における非神話化である。ブルトマンは非神話化、すなわち実存論的解釈は実存論的哲学の概念性でなされるとしたが、実存論的哲学の道具立てでは宗教的自覚内容を語る哲学的概念性としては不十分である。それは、内在的超越を語るのに適していないからである。経験と自覚とに基づく宗教言語は、自覚に現れるはたらき(内在的超越)を述べるのである。この書では、前項で述べた宗教言語の記号化がさらに展開される。それ自身の仕方で検証可能な宗教性は場所論的宗教哲学を求めるが、宗教哲学は宗教的知にかかわる良心的批判である。キリスト教には元来はそれが可能で、神学と哲学とを峻別して哲学を排除する必要は全くない。

【宗教論/現代哲学と宗教】

宗教とはなにか

宗教論。

  1. 第一章は現代哲学を概観して、現代哲学の問題が自我と言語にあることを指摘。
  2. 第二章は倫理学の観点から自我が現代倫理の問題であることを指摘。
  3. 第三章以下で、宗教に自我の問題の解決があることを示唆する。
  4. 第三章は宗教一般について論じ、世俗化と自然科学の発達によって消滅する宗教があること、他方、それによって消滅することのない宗教があることを論じ、この宗教の特質を語る。
  5. 第四章は宗教言語の性質を明らかにして宗教に対する誤解を防ぎ、
  6. 第五章では全体をイエスの宗教からまとめる。

著者の説明が行き届かなかったため、読者には全体の構成が解りにくい点があるようで、申し訳ないことである。

ダンマが露になるとき

キリスト教から禅に入った禅者秋月老師と私は仏教とキリスト教をめぐる対話を行ない、数冊の本を刊行してきた。本書は『無心と神の国』とともに、最も重要な対話であると思う。

ダンマとは要するに存在、生、人格を担う超越的・内在的な働きのこと。これは自我に覆われているが、それを破って露わとなることがある。それが仏教では悟りといわれ、キリスト教が「キリストが私のちに現われた」と表現したことである。

ダンマが露わになったとき、本来「超個の個」(「自己・自我」、・「私の基本思想」参照)である人間が自分を「超個の個」(自己・自我)と自覚して、宗教的生が成立する。

この対話で秋月老師と私は、「超個」と「自己」(これは新約聖書が「わがうちに生きるキリスト」と呼んだものである)が一致することに同意した。

無心と神の国

久松真一との対話。滝沢克己が直接経験を認めないので、それをめぐって久松と対話したもの。この際、久松の「私」(無相の自己)がイエスの「私」と等価であることに気付き、宗教的に生きる「自分」を「自己・自我」として明確化する始まりとなった。

人間をただ自我(エゴ)としてとらえたのでは宗教は理解されない。身体は超越の働との作用的一(実体的一ではない)であり、自己はそれを自我に媒介する、自我の真の主体である(※「私の基本思想」参照)。

【場所論(的神学)】

新約思想の構造

新約思想研究のまとめ。新約聖書には複数の神学があることと、それぞれの内容とを、分析して明示しようと試みた。

特に従来と比べて新しい点は、人格主義的神学と場所論的神学(※「私の基本思想」参照)を区別し、場所論的神学の全体像を取り出して、その内容を述べたことである。

ただ、場所論的神学の思考過程は記号化すると正確かつ簡単に叙述できるので、その試みとしたのだが、理系の人には評判がいいのに対して、文系の人には馴染み難いようである。

場所論としての宗教哲学

(法蔵館 2006年)

前述の諸型の根本にあり、これを内的に支える宗教的現実――新約聖書が神、キリスト、聖霊を呼ぶもの――を、仏教との対話を媒介して語る、宗教哲学の試みである。西田哲学では「ある」とは「場所に於いてある」ことだが、この書の場合には「神と人の相互内在」の理論化が主題である。神は、人と世界の「なか」ではたらく神である(ピリ二章13節および1コリ十二章6節など)。したがって、はたらく神の作用圏としての「場」と、神のはたらきが現実化する「場所」とが区別される。つまり、人間と世界とは「神のはたらきの場」のなかに置かれ、神のはたらきがそこにおいて現実化する「場所」である。

主要語――自己・自我、宗教言語、直接経験(主-客、汝と我、自己-自我)。哲学である以上、認識、論理、言語の検討がなされ、こうして神(キリスト、聖霊)と信徒との相互内在、またそのような信徒の相互行為(「キリストのからだ」としての教会形成に向かう「統合作用」)における作用的一が明確化される。他方、表現言語の世界を欠いたまま記述言語・動能言語と結合する「単なる自我」の問題性が指摘される。宗教を含めた人間の営為が、「単なる自我」の営為となるのが決定的誤謬なのである。以上の立場から、禅(この場合、曹洞禅)との対話が実行される。

この書は、言い換えれば私における非神話化である。ブルトマンは非神話化、すなわち実存論的解釈は実存論的哲学の概念性でなされるとしたが、実存論的哲学の道具立てでは宗教的自覚内容を語る哲学的概念性としては不十分である。それは、内在的超越を語るのに適していないからである。経験と自覚とに基づく宗教言語は、自覚に現れるはたらき(内在的超越)を述べるのである。この書では、前項で述べた宗教言語の記号化がさらに展開される。それ自身の仕方で検証可能な宗教性は場所論的宗教哲学を求めるが、宗教哲学は宗教的知にかかわる良心的批判である。キリスト教には元来はそれが可能で、神学と哲学とを峻別して哲学を排除する必要は全くない。