仏教とキリスト教・仏教との対話

【仏教とキリスト教】

仏教とキリスト教の接点

統合というカテゴリー(これについては※「私の基本思想」参照)を設定し、仏教思想とキリスト教思想がこの点で一致することを論じた。そのために仏教思想の概観とキリスト教教義の歴史の概観が為されている。

この考えはこの後、統合作用の座としての身体と、統合作用の自覚的実践としての宗教という理解に発展してゆくことになる。

パウロ・親鸞*イエス・禅

『仏教とキリスト教』研究の分野での、私のそれまでの研究のまとめ。

仏教とキリスト教をいきなり比較するのは無理で、パウロと比較できるのは親鸞、イエスの比較されるのは禅である、として比較を遂行、さらに「パウロ・親鸞」と「イエス・禅」を比較対比したもの。

【仏教者とキリスト者の対話】

覚の宗教

久松真一との対話。滝沢克己が直接経験を認めないので、それをめぐって久松と対話したもの。この際、久松の「私」(無相の自己)がイエスの「私」と等価であることに気付き、宗教的に生きる「自分」を「自己・自我」として明確化する始まりとなった。

人間をただ自我(エゴ)としてとらえたのでは宗教は理解されない。身体は超越の働との作用的一(実体的一ではない)であり、自己はそれを自我に媒介する、自我の真の主体である(※「私の基本思想」参照)。

ダンマが露になるとき

キリスト教から禅に入った禅者秋月老師と私は仏教とキリスト教をめぐる対話を行ない、数冊の本を刊行してきた。本書は『無心と神の国』とともに、最も重要な対話であると思う。

ダンマとは要するに存在、生、人格を担う超越的・内在的な働きのこと。これは自我に覆われているが、それを破って露わとなることがある。それが仏教では悟りといわれ、キリスト教が「キリストが私のちに現われた」と表現したことである。

ダンマが露わになったとき、本来「超個の個」(「自己・自我」、・「私の基本思想」参照)である人間が自分を「超個の個」(自己・自我)と自覚して、宗教的生が成立する。

この対話で秋月老師と私は、「超個」と「自己」(これは新約聖書が「わがうちに生きるキリスト」と呼んだものである)が一致することに同意した。

無心と神の国

禅者秋月老師と私の、仏教とキリスト教をめぐる最後の対話。

宗教的自覚には無条件的受容のレベル、統合作用が妥当するレベル(ここで宗教的共同体形成がなされる)と、一般的文化的レベル(思想、芸術、倫理)の三層があることを指摘、その関係を論じたものである。

本書は『ダンマが露になるとき』とともに、最も重要な対話であると思う。

【比較思想】

仏教とキリスト教の接点

統合というカテゴリー(これについては※「私の基本思想」参照)を設定し、仏教思想とキリスト教思想がこの点で一致することを論じた。そのために仏教思想の概観とキリスト教教義の歴史の概観が為されている。

この考えはこの後、統合作用の座としての身体と、統合作用の自覚的実践としての宗教という理解に発展してゆくことになる。

パウロ・親鸞*イエス・禅

『仏教とキリスト教』研究の分野での、私のそれまでの研究のまとめ。

仏教とキリスト教をいきなり比較するのは無理で、パウロと比較できるのは親鸞、イエスの比較されるのは禅である、として比較を遂行、さらに「パウロ・親鸞」と「イエス・禅」を比較対比したもの。

覚の宗教

久松真一との対話。滝沢克己が直接経験を認めないので、それをめぐって久松と対話したもの。この際、久松の「私」(無相の自己)がイエスの「私」と等価であることに気付き、宗教的に生きる「自分」を「自己・自我」として明確化する始まりとなった。

人間をただ自我(エゴ)としてとらえたのでは宗教は理解されない。身体は超越の働との作用的一(実体的一ではない)であり、自己はそれを自我に媒介する、自我の真の主体である(※「私の基本思想」参照)。

ダンマが露になるとき

キリスト教から禅に入った禅者秋月老師と私は仏教とキリスト教をめぐる対話を行ない、数冊の本を刊行してきた。本書は『無心と神の国』とともに、最も重要な対話であると思う。

ダンマとは要するに存在、生、人格を担う超越的・内在的な働きのこと。これは自我に覆われているが、それを破って露わとなることがある。それが仏教では悟りといわれ、キリスト教が「キリストが私のちに現われた」と表現したことである。

ダンマが露わになったとき、本来「超個の個」(「自己・自我」、・「私の基本思想」参照)である人間が自分を「超個の個」(自己・自我)と自覚して、宗教的生が成立する。

この対話で秋月老師と私は、「超個」と「自己」(これは新約聖書が「わがうちに生きるキリスト」と呼んだものである)が一致することに同意した。

無心と神の国

禅者秋月老師と私の、仏教とキリスト教をめぐる最後の対話。

宗教的自覚には無条件的受容のレベル、統合作用が妥当するレベル(ここで宗教的共同体形成がなされる)と、一般的文化的レベル(思想、芸術、倫理)の三層があることを指摘、その関係を論じたものである。

本書は『ダンマが露になるとき』とともに、最も重要な対話であると思う。