基本思想─身体・人格・自我

【その1:身体・人格・自我】

身体・人格・自我

人間は身体である。より正確にいえば、身体としての人格、人格としての身体である。まず私(自我)があって、その私が肉体を持っているのではない。「この身体が私である」というのが正しい。

自我は身体の一機能(特定の状況のなかで諸情報を処理し、しかるべき選択をおこなう)であって、身体の中心でもなければ主でもない。身体は自我を生かす装置でもなく、自我の単なる道具でもない。しかし自我が自我自身にのみ関心を抱き、自我だけが自我を動かす唯一の現実となるとき、単なる自我とそのエゴイズムが成立する。さらに自我が身体を対象化して支配しようとするとき、身体は肉体すなわち自我の装置ないし道具におとしめられる。しかし自我は身体を支配できるものではないから、自我と肉体の分裂が起こり、逆に自我が肉体性に支配されるようになる。肉体を通じて世界も自我を脅かす力となり、自我は世界をも生命をも支配しようとして(例。遺伝子操作などの現代技術)これらを破壊し、自分自身も滅びることになろう。肉体を支配しようとする自我は肉体の奴隷になる。

身体は物質世界の一部であり、生命の一環であり、かつ人格である。人間は、この地球上上で、生態系の一部として、人格共同体を形成しつつ、生きるものである。

なお人格とは、コミュニケーションのネットワークのなかで自覚的に自分の仕事を遂行する責任主体のことである。

身体は極である。古典的アトム(原子)のような、バラバラな個ではない。他者とのかかわりのなかで自己同一性を保つ極である。

ところで「かかわり」の現実性はコミュニケーションである。コミュニケ-ション(ラテン語ではcommunicatio)の原意は互いに必要なものを分かち合う共同体の形成である。人間はもともと働いて生きるために必要なものを作り、それを互いに分かち合って、共同生活を営むものである。必要なものとは、ものであり、愛情ないしサービスであり、情報であり、その他もろもろで、コミュニケーションとは相互理解でもあり、意思の伝達でもあるが、単にそれだけのことではなく、生活のあらゆるレベルで与え合い、分かち合う共同体を形成することである。それは自然界にまで及ばなくてはならない。