基本思想─統合

【その2:統合】

統合

人間は身体だから、生死があり、性があり、家族がある。必要なものを作って分かち合うために社会生活を営む。だから経済があり、法律があり、政治がある。認識と自覚を表現する文化がある。

さて、多くの極からなる、ひとつのまとまりを、統合体と呼ぶ。太陽系、生体、芸術作品(この場合、古典音楽や禅の庭園が代表的)などはその類比である。

たとえば健康とは統合された身体のことである。統合体は複数の個(部分)から成るが、あらゆる個に共通する要素を統一と呼ぶ。我々の社会では統一(言語、貨幣、秩序、法律、制度、伝統など)が統合に優越して、しばしばし個を圧殺し、結局は統合を歪めている。

エゴイズムとは、単なる自我およびその集団が他者(自然と人間)を自分達の下に、自分達の都合がいいように、統一(支配)しようとする志向であって、これは互いに合う結果を招き、統合の破壊に導くのみではない。エゴイズム自身が人間の本質を破壊するというべきだ。

ちなみに単なる自我とは、統合作用(つまり他者との原関係)という基盤から遊離し、自分自身にだけ関心を抱き、自分自身にだけ現実性を認めるようになった自我のことである。

身体-人格は個だが、個は、上述のように、かかわりのなかで自己同一性をもつもの、すなわち極である。極とは、磁石の両極のように対極とは区別されるが、対極なしては存立できないものである。原子的な個が結合して極になるのではない。個ははじめから極となるようにできている。極と対極は同時に成立するものだ。

ところで個は統合作用の場のなかにあり、極として互いにかかわりながら、統合作用によって統合体を形成する。だから、まず個があって、しかる後に与え合うのではない。極同士の関係が与え合い(コミュニケ-ション)だということである。これは生体のなかでの器官同士の関係を考えるとわかりやすい。実際、人間は性として異性存在を前提とし、また言葉を使う相手の存在を前提して生まれてくる(言語能力、発音器官、耳、さらに目、手も含めて)。言葉の使用を考えただけでも、言葉を使うのが自分ならば、自分とは言葉を交わす相手、むろん言葉を作ってきた人間の社会、歴史、文化なしには自分でありえないことは全く明瞭である。

人格としての身体は、みずから統合体でありつつ、身体-人格の統合体(人格共同体)の形成を求める。統合体とは、あらゆる構成要素のあいだに妨げられずコミュニケ-ションが成り立ちうるような共同体のことだといってもよい。生体内の神経やホルモンによるコミュニケーションのネットワ-クはその類比である。

物質世界のなかに複雑な化合物が現れ、生命という統合体が出きた。生命の世界のなかから「身体-人格」である人間が出現した。これらのプロセスはより高次の統合への歩みと考えられる。

しかし、統合作用は存在するが、それはいわば現実に与えられている方向性(自己組織の傾向性)であって、統合の現実化は必然ではない。第一すべての多細胞生物には死がある。個は死ぬ。生きているうちの統合現成の確率は決して大きくはない。生命の出現は自然的諸作用の結果だったといえようが、これは極めて小さい確率で起こったことである。

人間の場合、統合はそれへの作用を認識した人格によって自覚的に形成される。

一般に統合体は放っておいて成立つものではない。放っておけば破壊の確率の方が高いだろう。世には災害も病気も戦争もある。死もある。しかし、せっかくこの地球上で、はなはだ稀なことに違いない統合化が進み、生命という統合体が現れ、進化がなされ、人格共同体の可能性までがあるのだから、人間は自覚的に統合体成立のための諸条件を整えるべきである。

我々は破壊より統合を選ぶほうが当然だ。宗教は統合実現のための道の一つである。