新約聖書学・新約思想関係

【新約聖書関連】

新約思想の成立

処女作。(新教出版社 1963年)

この書は、キリスト教の成立が、超自然的な啓示によるのではなく、仏教の成立と並ぶ人間の思想史上に現れた根源的な人間性自覚の出来事として理解できると主張する。以下に、その内容の概略を述べる。

 

  • (1) 原始キリスト教神学を分析し、その発展を辿る。

    まずは類型Aの神学がある。イエス・キリストの贖罪死・復活中心の救済史型である。ロマ書三章21-26節(その伝承の部分)、1コリント書十五章3-5節などを基礎とする。次に類型Bの神学がある。啓示者イエス・キリストへの進行を中心とする型で、ピリピ書二章6-11節などを基礎とする。第三に類型Cの神学(愛の神学)がある。1ヨハネ書四章7-16節など、救済を神の愛から理解する。要するに新約聖書に含まれる神学は多元的である。

     

  • (2) 原始教団の神学は、A→B→Cの順で発展したことを述べる。

    なお、前記の神学のそれぞれが共同体性、個人性、対人性を座とすることは『キリストとイエス』(講談社現代新書 1969)で明確化されている。ちなみに同書には、「イエスにおける人の子」と「パウロにおける復活のキリスト」との事柄上の同等性も述べられている。また、『キリスト教は信じうるか』(講談社現代新書 1970)では、私における二つの直接経験についての報告があり、そこから見えてくる「統合論」への展望が語られている。以下では『新約思想の成立』の内容要約に戻る。

     

  • (3) 宗教的実存論の素描と実存論的解釈の試み。

    前記A、B、C型の共通点に、パウロが「私のなかに生きるキリスト」と名づけた、全人格を生かす、超越的内在者のはたらきがある。それを仏教的「実存」と比較しながら、「宗教的実存論」の構成を試みる。これは言語世界を現実と心得る自我が、その自己実現に絶望して、両者を超える現実に触れる(当時、「純粋直観」と呼んだ)とき、成り立つものである。純粋直観(のちに「直接経験と自覚」に分節・術語化される)は、同時に「対他連関」(のちに我・汝直接経験に基づいた相互行為つまりフロント構造とコミュニケーション理論へと展開される)への気づきである。ここで宗教的実存は、超越的内在について語り始める。その反面として、「単なる自我」と「現実から遊離した言語世界」の結合が純粋直観を覆うことが述べられる(こうして、エゴイズムが成立することについては『自我の虚構と宗教』(春秋社 1980)を参照されたい)。この結合の克服が「純粋直観と対他連関の成立」であり、ここにおいて超越者が知られる。こうして神認識の問題が言及される。仏教との簡単な比較。なお、宗教的実存論は、後期にあらためて場所論的宗教哲学へと展開される。

     

  • (4) パウロ神学の分析。

    ガラテア書一章16節と二章19-29節は、パウロにおける「経験と自覚」の成立である。原始教団の宣教を受け継いでこれを展開したパウロには、贖罪による義認(A)と我執を放棄する進行(B)との結合があり、このためいたるところに、とりわけ律法理解に矛盾が生ずる。すなわち、本来は律法を守れば義とされるのだが、それが不可能だから贖罪によって義認されるという立場(A)と、キリストに生かされることを知らない「自我」がいくら律法を完全に守っても救われないという立場(B)とが両立する矛盾である。

     

  • (5) ヨハネ神学の分析。

    ほぼ純粋なB型の神学である。

     

  • (6) 原始キリスト教の神学とイエスの宣教とを比較する。
  • イエスの宣教は律法主義からの自由、そして愛を主題とする。それは、それぞれ原始教団神学のA、B、Cに内容的に対応する。

     

  • (7) 復活伝承を分析し、仏教における「空虚な棺」の伝説と比較する。

    結論 (史的イエスの問題解決の提示)。

    弟子たちはイエスの死後(おそらくイエスの死を贖罪と理解することを通じて)、イエスをあのように生かした現実に目覚め(直接経験と自覚の成立)、それを「復活者の働き」と解釈した。(因みにマルコ福音書六章14-16節をみれば、洗礼者ヨハネについても同様な解釈があったことがわかる。ヨハネが非業の最期を遂げたあと、イエスが現れて師にまさる力を示したところ、人々は死んだヨハネが復活して、その力がイエスのなかではたらいている、と言ったという。この話は簡単で説明のために便利なので、『キリストとイエス』以来、イエスにかかわる復活信仰成立の主要な先例としてあげられることになった。弟子たちのこの解釈と「贖罪のために死んで甦ったキリスト」の宣教形成から、神学A→B→Cの発展が起こった。こう考えれば、新約思想の全体が何の矛盾も困難もなく理解される。)現在の立場で総括すると、結局のところ以後の研究は『新約思想の成立』の各部分を展開したものだといえる。

     

聖書のキリストと実存

(新教出版社 1967年)

滝沢克己が、前記の拙著に対する書評を公にした。『聖書のイエスと現代の思惟』(新教出版社 1965)である。滝沢は拙著を高く評価しながらも、ここに展開された新約聖書解釈論では神学として不十分で、真理批判へと進まなくてはならないこと、また「純粋直観」が宗教の基礎とはなりえないこと、そしてこのことは西田哲学の純粋経験と同様である、と批判したので、それへの応答として書かれたものである。まず、私は単なる解釈論では不可との批判を受容して、それ以降は真理性の認識と批判とを正面に出すようになった。さらに、滝沢の「神と人との第一義と第二義の接触の区別と関係」、つまり「インマヌエルの原事実」への目覚めを神学的にきわめて重要な貢献として受容した。これは新約聖書の多様な神学の根本には、事実「うちなるキリスト」の経験と自覚があるということだ。ただし、滝沢による純粋経験批判には納得できない旨、応答した上で、さらに組織神学と新約学の結合点として「統合」が院を提示したが、これへの滝沢の反応はなかった。キリストのからだとしての教会(1凝りジュ一二章)をモデルとした「統合」論は、これ以来、私の新約思想叙述の基礎概念の一つとなる。純粋経験をめぐる公私にわたる滝沢との議論は滝沢の死去まで続いたが、一致にはいたらなかった。私が新約学にとどまらず、「言語と直接経験」という問題を宗教哲学的に明らかにする仕事に向かったのは、滝沢との論争によるところが大きい。

新約思想の構造

(岩波書店 2002年)

イエス、パウロ、ヨハネの神学の分析をよりくわしく再説する。

 

  • A 復帰型

    イエスの宗教(メタノイアによる本来性への復帰)。救済者は要請されない。

     

  • B 脱出型

    非本来性への捕囚状態から自力で脱出する型。グノーシス主義にみられるが、新約聖書にはない。ここで、荒井献による批判に対して応答がなされる。荒井は、本書『新約思想の構造』139ページにあるように、彼によるグノーシス主義の定義に照らして、八木(また滝沢克己)のキリスト教把握は(グノーシス主義そのものとはいわないが)、グノーシス主義「的」であるとした。しかしこの評言は、「的」を取り除いた形で――つまり、八木神学はグノーシス主義だという形で――広まり、予想外の人までが八木はグノーシス主義者だと言い出した。そこで私には、グノーシス主義とどこが違うかが、明確化されるべき重大な課題となったのである。グノーシス主義「的」にみえるのは、私が新約思想の中心を「『自己』の自覚」にみているからである。そして、グノーシス主義も「信仰」ではなく、「自覚」型の宗教である(ただし、一般には「自覚」ではなく自己認識といわれる)。因みにヨハネ、パウロの神学にも(そして、実はイエスにも)、「自己の自覚」の要素が強いから、往々にして、またあまり正確とはいえない仕方で、パウロ、ヨハネにはグノーシス主義の影響があるといわれる。さらに、古代インドのウパニシャッド哲学、ギリシャのオルフィズム、仏教、特に禅、プラトン以来の観念論哲学も自覚型である。ところでグノーシス主義研究者が、往々にしてこれらをひっくるめて「原グノーシス主義」(人間と世界とにかかわる解釈の一つの普遍的可能性)のうちに数えるが、これは不正確である。実は逆で、グノーシス主義は自覚型思想の一つだというべきだ。つまり、「自覚」という「認識の方法」では一致しているのだが、問題は自覚の内容にある。自覚内容を考慮したら、禅よりプラトニズムのほうがグノーシス主義(むしろ密儀宗教)に近いが、やはり理性の自覚内容においては全く違う。要するに、グノーシス主義とは自覚内容が異なる。私の場合(むろん、新約聖書また仏教の本来では)、人間はあくまで身体/人格である。だから救済とは、神的要素が身体から脱出することではない。グノーシス主義も「自己」の自覚をいうが、これは新約聖書のいう「自己」とは異なる。新約聖書のいう「自己」(うちなるキリスト、身体性の中心)は神と人の作用的一であるが、グノーシス主義の場合は、「自己」は身体とは異なるものであるばかりか、直接に神的なものであるのが一般である(神との実体的一)。だから、グノーシス主義は世界否定的であって、これがグノーシス主義の最大の特徴である。しかし、人間を身体/人格としての世界内存在であると理解する私は、イエスと同じく、全然世界否定的ではない。否定されるのは「単なる自我」だ。そして、グノーシス主義のいう「自己」は、私にはむしろ身体性から浮き上がった「自我」、世界性と身体性とを否定する自我であるように思われる。つまり、イエス、禅、浄土教(一般にキリスト教と仏教)を背景とした私の研究の場合も、非本来性への捕囚状態からの脱出は、「救済者」の教えによって自我を神的本性を持つ実体と認識することによっては全く不可能である(滝沢克己も同意見)。実はグノーシス主義といっても一様ではないが、キリスト教、仏教との違いはやはりここにある。因みにローマ国教型のキリスト教は「自覚」の面を軽視して人格主義の一面に偏したところに、新約聖書の宗教との違いがみられるのである。

     

  • C 救助型

    贖罪中心の救済史型。パウロ神学に含まれ、次の神学とともに救済者を必要とする。

     

  • D 救出型

    救済者により、人間が罪の奴隷状態から救出される。人間の側で必要とされるのは信仰である。ヨハネ神学の中心。パウロ神学にも含まれる。

    この書において、新約聖書における場所論的神学の存在が指摘される。これは初期に、「愛の神学」といわれたものの発展的一般化である。1ヨハネ書四章16節にみられる人格主義的な愛の神学と、1ヨハネ書四章12-13節などの場所論的な愛の神学とを区別して、後者をガラテア書二章19-20節とともに場所論的神学一般に含めたわけである。『新約思想の成立』ともっとも異なる点はここにある。すると場所論的神学は、パウロとヨハネの中心部に位置するといえることになる。場所論的とは、「人間は神(キリスト・聖霊)のはたらきの『場』のなかに置かれている。他方、人間は神のはたらきがそのなかで現実化する『場所』となる。このとき人間は共同体(統合体)を形成する」という把握のことである。さらに、場所論の記号化が提案される。場所論的神学は記号化できる。記号化すると場所論的神学の構造が実に簡単明瞭に示される。たとえばピリピ書二章13節(神はあなたがたのなかではたらいて、あなたがたの意欲とはたらきとを成り立たせる、はたらく神である)は「G→in M」→と記号化される。ところで「G」は神、「G→」の→は聖霊、「G in M」は内なる基督(人と神との作用的一)、「G→in M」→の下端の→は「人のなかではたらく神」によって成り立つ信徒のはたらき(キリストのはたらきを表出する作用的一)のことである。すると右記の記号化では、神・キリスト・聖霊の「三位」が「一体」になっていること、さらにキリスト論(人の神の作用的一、つまり「まことに神的・まことに人間的」なはたらき)が含意されていることが直ちに見て取れる。このような分析は。従来の釈義や神学では不可能であろう。

この書でいいたかったのは、以下のことである。「自覚の宗教」の面を後退させたのは、ローマの国教となったキリスト教である。人格主義に偏するキリスト教は、新約聖書を、客観的な出来事を記述する「記述言語」にしてしまった。ところで記述言語は、検証不能な場合は有意味性を喪失する。したがって、記述言語とされた宗教言語は、客観的に検証不可能なものになってしまった。しかも、それを信ずるのが信仰だとされるから、現代においてキリスト教は信頼を失いつつある。表現言語の場合は、「経験と自覚」が理解と納得をもたらす正当な検証作業なのに、ローマ国教型のキリスト教はこの面を後退させた。そして、良心的な史的批判と理解による検証作業一般を、不信仰として排除する教条主義的宗教になっている。この場合、実は真の問題性は「信仰」の担い手が「自己の自覚を喪失した単なる自我」となりうることなのだが、これは気づかれてさえいない。

 

【イエスの思想】

イエス

イエスの思想の解釈。イエスの言葉を

  1. 個人としての人間の生き方(我執からの解放)
  2. 対人関係における生き方(愛)
  3. 共同体関係における生き方(律法主義からの解放)

に分析、それらの生き方を担う働きがイエスのいう「神の支配」であり、この貫徹が終末-神の国の到来として望まれた、としてイエスの思想の全体像を提供。

パウロ・親鸞*イエス・禅

『仏教とキリスト教』研究の分野での、私のそれまでの研究のまとめ。

仏教とキリスト教をいきなり比較するのは無理で、パウロと比較できるのは親鸞、イエスの比較されるのは禅である、として比較を遂行、さらに「パウロ・親鸞」と「イエス・禅」を比較対比したもの。

【パウロの思想】

パウロ

パウロの生涯と思想の概説。生涯については特に新しい見解はない。

パウロの思想を、

  1. 彼が原始教団から受け継いだ贖罪論中心の神学

    (これは「律法違反が罪である」ことを前提する)と、

  2. 「うちなるキリスト」の働きの自覚表出としての神学

とに分析。両者の矛盾と関係を論じた。

2の神学は、「律法主義が罪である、律法を守ってもそれだけでは救われない」ことを洞察するもので、律法主義の形をとるエゴの自己主張を捨て、自分をキリストにゆだねる信仰によって成り立つ。両者をつなぐものは、「わがうちに生きるキリスト」の自覚である。

パウロ・親鸞*イエス・禅

『仏教とキリスト教』研究の分野での、私のそれまでの研究のまとめ。

仏教とキリスト教をいきなり比較するのは無理で、パウロと比較できるのは親鸞、イエスの比較されるのは禅である、として比較を遂行、さらに「パウロ・親鸞」と「イエス・禅」を比較対比したもの。